月の巫女と嵐の獣②


「行っちゃったね」


 アストリッドは、エリサたちのうしろ姿を見つめていた。視界から消えても、しばらくそうしていたアストリッドに、彼は黙って待っていてくれた。


「ふたりで旅するんだって。ケルムトにも行くのかな?」


 アストリッドが砂と岩と夏の国を訪れたのは、半年も前だ。


 あのときは太陽の巫女ベナ・ソアレに熱烈な歓迎を受けたものだが、まさかエリサにもおなじことをするだろうか。ちょっと心配になる。


「アストリッドも行きたいのか?」

「えっ? わたしは……。う~ん、どうかな?」


 実はそれほどケルムトで良い思い出がないのが、アストリッドの本音だ。


 たぶん、彼もおなじだったのだろう。ロキはそれきりケルムトの話題には触れなかった。

 

 輝ける月の宮殿グリトニルまでの道程はけっこう遠いのに、アストリッドはとぼとぼ歩いている。ロキは急かすことなく、歩調をアストリッドに会わせてくれる。


 ロキ、ちょっと変わったかも。


 そう言えば、それはアストリッドの方だと、ロキは返すだろうか。

 

 あれから三ヶ月が過ぎた。氷と雪と冬の国にも春がやってきた。 


 アストリッドはロキと一緒に祈りの塔で暮らしているものの、夜はずっと祈りを捧げているかといえばそうではない。

 エリサがしていたみたいに歌ったり、ふわふわの毛が気持ちいい獣の背中で寝落ちしたりと、けっこう自由にしている。


 エルムトにはたくさん雪が降った。それでもひどい吹雪はつづかなかったし、ちゃんと春も来た。月の女神マーニの言うとおりだった。


 目覚めたアストリッドは養父のイヴァンにたくさん泣かれて、レムにはやっぱり笑われた。エリサとユハはあたたかく見守っていてくれた。ユスティーナはいつもどおりだったような気がする。そして、ロキは――。


 あのとき、泣いてくれたよね?


 アストリッドはちらとロキを見た。

 十六歳の少年はまた背が伸びていた。でも背丈にくらべて線が細いとからしく、いつもレムにあれやこれやと食べさせられている。レムは、姑みたいにほとんど毎日祈りの塔に来るものだから、おかげでアストリッドもロキも寂しくないのだけど。


 変わったことはほとんどないように、アストリッドは思う。


 たくさん食べるようになったから、ロキは前より元気になった。

 ちゃんとレムが薬を調節してくれているようで、だからアストリッドも不安や心配を顔に出さないようにしている。


 けれど、ロキは色の抜けた髪を気にするようで、ときどき黒く染めている。なんでも、白い狼よりも黒い狼の方がかっこいいから、とかって。


 男の子の考えることって、ぜんぜんわからない。

 だって、いくら髪を黒くしたって、白い狼が黒い狼になるわけでもないのに。


 女子会でそう溢したアストリッドに、エリサはにこにこしていたし、ユハは紅茶のおかわりを注いでくれた。でもレムだけは、そういう年頃なんだよと、ロキの味方をしていたけれど。


 何も変わっていないようで、アストリッドの周囲はすこしずつだけど変わりはじめている。

 

 まずはヘルガ。

 金髪のお嬢さまは、髪を伸ばすようになった。ショートカットも似合っていたけれど、やっぱりヘルガには長くて綺麗な金髪でいてほしいと、アストリッドは思う。


 それと、レム。彼はイヴァンとともに暮らしはじめた。

 

 養父をひとりにするのがちょっと心配だったアストリッドは、レムに任せるようになった。ああ見えて、イヴァンは家事が下手だしレムはその反対なのだ。


「そんなに寂しいんだ?」

「えっ?」


 アストリッドは目をぱちぱちさせる。いつもはお喋りなアストリッドだから、長々と思考に沈んでいるのは、ロキにめずらしいと思われたのかもしれない。


「うん……、まあね。エリサ様とユハ様。ふたりはわたしの憧れだったし」

「でも、いまはアストリッドが巫女で俺が獣だ」


 アストリッドは笑みで返す。出歩くとき、ロキは自然に手を繋いでくれるようになった。減点ばかりだった冬至の祭りユールのときとは大違い。


「あのね、わたしあのとき、マーニに会ったの」

「知ってる。俺も見たから」


 あれはどこだったのだろうと、アストリッドは考える。

 夢のなかの世界は不思議だ。でも、ロキが干渉できたということは夢ではなく、もしかしたら月の女神マーニの作った世界だったのかもしれない。


「いろいろおはなししたの。でも、父さんたちには内緒。だって困らせたくないから。だからね、ロキも秘密にしておいてくれる?」


 ロキは黙ってうなずいた。

 本当は、アストリッドはあの夢の話を、養父のイヴァンやレムにも話したかった。エルムトにとって大事なことだと思ったからだ。


「いろいろあったけれど、でも悪い人ばかりじゃないと思うんだ」

「ヘーニルたちはどうせ信じない。いま、何も言ってこないのは、アストリッドが素直で大人しい巫女をやっているからだ」

「でも、わたし。けっこう好きにさせてもらっているけどね」


 エリサのように上手く立ち回れるかどうか、そんな自信なんてアストリッドにはなかった。それでも、きっと大丈夫だと、そう思えるのは彼が傍にいてくれるからだ。


「ね? ちょっと屈んでくれる?」


 ロキは素直にアストリッドのお願いをきいてくれる。だからアストリッドも、もっとたくさんのものをあげようと思った。


 目をしばたかせるロキからそっと離れて、アストリッドはふたたび歩きだそうとする。しかしロキは立ち止まったままだった。


「どうかした?」

「前は頬じゃなくて、唇にしてくれたのに」

「な……っ! ここ、道のまんなかだよ!」

「じゃあ、あとで?」

「し、知らないっ!」


 アストリッドはロキの手を引っ張ってぐいぐい歩いて行く。

 輝ける月の宮殿グリトニルに帰る頃には夜になっているのかもしれない。さすがに怒られちゃうかなと、アストリッドはすこし反省した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る