エピローグ そしてふたりは

月の巫女と嵐の獣①

「見送りなんていいって言ったのに、律儀な子」


 蜂蜜を落としたほんのり甘い紅茶を飲みながら、エリサがつぶやく。

 キャロットケーキが乗った皿は半分が空だ。宿の女将お手製ケーキらしく、ユハもお相伴おしょうばんあずかる。


 さすがは自信作だけある。なかなかに美味だった。

 

 ユハも甘いものが大好きなエリサのために、せっせと甘いお菓子をこしらえるのだけど、砂糖をたっぷり使わずとも十分に美味しい。


 あとでこっそりレシピをきいてみよう。ほくそ笑むユハの向かいで、エリサは二杯目の紅茶をたのしんでいる。


「疲れましたか?」

「ううん、ぜんぜん」


 あまりに即答だったので、ユハは思わず笑ってしまった。


「アストリッドは真面目で素直な子です。ヘーニルたちとも上手くやっていけるでしょうし、エルムトも大丈夫でしょう」

「そう。私とちがってね」


 おや? これはもしや機嫌が悪いのかと、ユハはいぶかしむ。


 輝ける月の宮殿グリトニルから、ずっと徒歩で山麓の村まできた。

 別れを惜しむかのように、アストリッドともう一人が同行した。とうとう別れを告げたのは、つい小一時間前だ。


「行き先は決まりましたか?」

「とりあえずケルムトには行きたいの。クロエ様とも会ってみたいし、きっと仲良くなれると思うのよ」


 ユハはにこやかな笑みで返す。


 はて? 仲良くなれそうな相手なのだろうか。

 

 レムの話によれば、クロエこと太陽の巫女ベナ・ソアレは、けっこうクセのある人物らしい。

 それでいえばエリサもなかなかだ。もっとも、エリサの中身を知っているのは、彼女に近しい者たちだけ。


「なあに? ずいぶん機嫌が良さそうね」

「いえ。それはたのしみだと思いまして」

「ふうん。半分嘘ってところね。ユハって、嘘吐くとき、不自然に目を逸らすもの」


 まさにいまがそうだった。ユハは咳払いでこの場を乗り切ることにする。ただし、エリサはそんなに甘くない。


「このあいだもそう。私、本当は怒っているのよ?」

「ええ。存じております」

「あの坊やにも、あなたにもよ?」

「ええ。それも、存じておりますとも」


 たちまちエリサの眉間に皺が刻まれた。


「本当かしら? でも、まあいいわ。あなたの願いは私が叶えてあげたの」

「おっしゃるとおりです、エリサ」


 エリサは目顔で三杯目の紅茶を要求する。老齢の執事よろしくユハはエリサのカップに紅茶を注いだ。喉が渇いているのは、こんなに長く歩いたのがひさしぶりだったからだ。


「あのロキって子に、あなたわざと刺されたでしょう? あなたの傷を癒やした私の魔力はすっからかん。もう魔女でも巫女でもないわ」


 これはイヴァンにもレムにも告げていないふたりだけの秘密だ。

 とはいえ、勘の良いレムは気付いているかもしれないが。


「それでも、アストリッドを助けたではありませんか?」

「アストリッドは可愛いもの。なけなしの魔力、あれが最後よ」


 エリサの言葉に偽りはない。

 

 エリサとユスティーナの魔力だけでは足りずに、アストリッドは自分の魔力で自身の身体を治した。


 しかし、それだけではアストリッドが助かる見込みはなかった。現に、あのロキという少年はした。わざわざ過去にまで行ったのにかかわらずだ。


「坊やが失敗して過去から戻ったとき、あなたって、思ったでしょ?」


 意地悪な問いかけに、ユハはにっこりとする。


 ロキを誘導したのはユハだが、協力したわけではない。

 なぜならあの子どもは、白鬼のレムの弟子で悪鬼の少年だ。エリサを暗殺対象にするなど、ユハは許さない。


 すでに体内に回っていた毒、それがアストリッドを黄泉の国ヘルヘイムへと連れて行こうとした。

 つまりアストリッドは半分死んでいたようなものだった。では、なぜ月の巫女シグ・ルーナは助かったのか。


「愛よ」


 ユハはまじろいだ。エリサはもう一度、言う。


「坊やの愛が、アストリッドに届いたの。過去まで行って、もう一度おなじ体験をしたのは、けっして無駄じゃなかったの。彼は愛に気づいたのよ。泣かせるじゃない」


 どこまでが本心だろうか。エリサはけっこう現実主義者だ。でも、そういうものを、信じてみたくなる気持ちはユハにもわかる。


 アストリッドの獣が、彼女をへと呼び戻した。他の誰でもなく、ロキでなければアストリッドを迎えに行けなかった。


 なぜなら、ロキはアストリッドの嵐の獣ベルセルクルだから。


「やっぱりあなた、たのしそうだわ。グリトニルから出られたのが、そんなに嬉しかったのね」

「いえ、それもありますが」

「なあに?」

「アストリッドの前ではあんなに慎ましくしていたのに、と」

「猫被っていたのよ。アストリッドったらうぶだし、いちいち反応が可愛いもの」


 それには同意見である。とはいえ、エリサの本性を知っているユハは、笑いを噛み殺すのが大変だった。


 そして、暢気のんきに笑っていられるのもここまでだ。


 エルムトではエリサの存在が知られているため、出会った人々は良くしてくれたものの、さすがに山麓までくれば別だった。


 ここの女将がまさにそうで、いきなりエリサをお嬢さん呼ばわりしたのだから、ユハは内心で冷や冷やした。エリサ当人は気にしていないようで、むしろ年齢不詳っていかにも魔女っぽいと喜んでいた。


 そのうち、やはり歩き疲れていたのかエリサは眠ってしまった。

 

 愛しいひとの寝顔を見つめながらユハは思う。ふたりはこれからも一緒に生きていける。けれど本土のイサヴェルやケルムトはエルムトほど治安が良くないだろう。エリサを守れるのはユハだけだ。


 魔力のなくなったエリサ。ユハが獣の姿になれるのもたぶん限られている。

 

 だとしても、何があってもエリサを守る。


 そう、つぶやくとユハは愛しいエリサの頬に口付けた。

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