あなただったのね

「ご、ごめんなさい。あの……、わたし、エリサ様みたいにお行儀良くできなくって。それに巫女として、何の仕事もできないまま死んじゃったし」

「たしかに、いまのそなたは肉体と精神が分離しているな」


 アストリッドはエリサのように教養もなければ、賢くもないふつうの女の子だった。だから月の女神マーニは、アストリッドにもわかるように言ってくれているのだろう。


「はい。自分でちゃんとわかっています。ですからどうか、不甲斐ないわたしの願いを、ひとつだけでいいから叶えてくれませんか?」


 月の女神マーニは怪訝そうに眉を寄せる。

 アストリッドは祈り方など知らなかったが、それが自分にできる最初で最後の仕事だと思ったのだ。


「どうかエルムトをお願いします。わたしはなにも祈ることができなかったけれど、でも怒らないで。エルムトは、この国の人々はなにも悪くないんです」

「いったい、なんの話をしている?」


 いまのアストリッドは、傷みも寒さも何も感じない身体だ。

 死んでしまったのなら当然だろう。しかし月の女神マーニ気色けしきばんだ途端、急に室温がさがったような気がした。


「巫女は祈ることが仕事なのはわかっています。でも、それができないときだってあるんです。そういうときでも、怒らないでください。エルムトの人々はいつだって、ずっと月とマーニを愛しているんです。ですから」

「私がいつ、怒ったと?」

「へっ?」


 アストリッドは目をぱちぱちさせる。


「巫女が祈ろうが祈るまいが、私にとってはどうでもいいこと」

「どうでもいいって……」


 なんだか話が妙だ。

 月の女神マーニは慈悲深い女神でも、不義理な人間には厳しく、その怒りは凄まじい。アストリッドも身を以て知っている。


「で、でも、三年前にエルムトはひどい吹雪がつづいて、それで氷と雪に閉ざされてしまったでしょう? あれは、マーニがお怒りになったからだと」

「くどい」


 ぴしゃりと言い放たれて、アストリッドは絶句する。

 どういうことだろうか。番人ヘーニルたちが間違っているとしか思えなくなってくる。


 いや、疑うのはまだ早い。番人ヘーニル月の巫女シグ・ルーナも、アストリッドが生まれるよりずっとずっとむかしから存在してきたのだ。理に叶っているのは、彼らの発言が正しいから。


 でもこの様子じゃ、月の女神マーニは人間たちに、あまり干渉していないような……?


「あ、あの、マーニはずっとエルムトを見守ってくださってます、よね?」

「人間の子らを見るのは飽きはしないが」

「でしたら、どうして母親から男の子を奪うのでしょう?」

「私がいつ、母親から子を奪ったと?」


 アストリッドは全身が痺れるのを感じた。これは月の女神マーニの魔力である。


 こ、このひと、いつ怒ったのかと言ったけれど、いま怒ってるじゃない!


「ご、ごめんなさい……! 変なこと言って。でも、マーニは男が嫌いなのでしょう? だからちいさいうちにヘルヘイムに連れて行くって」

「勝手な推測だな」

「えっ? ちがうの、ですか?」

「自然界で起きる現象も、人間の子らの寿命も、私には与り知らぬことだ」

「じゃあ、ヘーニルが嘘を吐いているの?」


 月の女神マーニがため息を吐いた。こうしてみると人間みたいに見える。


「人間たちは自分たちにとって都合の良いことばかりをのたまう。まあ、そうでなければ国とやらは機能しないのだろうが」


 たしかにそうだ。よく考えてみれば、どれも番人ヘーニルにとって都合の良い解釈ばかりではないか。月の巫女シグ・ルーナ月の女神マーニを悪者にするための方便。


「そなたはエリサとちがって血の巡りは悪そうだが、一応話は通じるようだな」


 血の巡りって、わたし死んでるんですけど。


「私は好きに見守っているゆえ、そなたらも好きにすればいい」

「それって、ずっと祈らなくてもいいってこと? 巫女は一晩中祈りつづけなくてはならない。その決まりも、なくなる?」

「ああ、好きにすればいいのだ。エリサもそうしていた」

「エリサ様も?」


 月の女神マーニはさっきよりもすこしやさしい目で、アストリッドを見つめている。


「あの子は歌が好きだったから、月を見ながらよく歌っていた。私はあの子の歌が好きだ。まあ、あまり上手ではなかったが」

「歌ってもいいの? ずっと祈りの塔にいなくても、いいの?」


 返事の代わりに月の女神マーニは微笑んだ。


「わかったのなら、もう行け。さっきから騒がしくてかなわん」

「えっ……?」


 アストリッドは振り向いた。誰かがずっとアストリッドを呼んでいる。


 ロキだ。

 

 まだ姿は見えないのに、その声はどんどん近付いてくる。


「あれはそなたの獣だろう?」

「ロキ? あなたが……?」


 じわっと、涙がせりあがってくる。


 ロキは人間の男の子の姿ではなく、狼の姿だった。

 アストリッドは信じられない気持ちでいっぱいになる。でも、アストリッドにはわかるのだ。この狼はロキだということが。なぜならアストリッドは月の巫女シグ・ルーナで、巫女の眷属は彼しかいなかったのだから。


「巫女の魔力に当てられたのだろう。巫女の眷属として獣の姿になる。たしかにその方が巫女を守りやすいらしいな」


 皆まできく前に、アストリッドは獣を抱きしめていた。


 ああ、そうか。彼は無意識のうちに獣に顕現けんげんしていて、アストリッドを守ったり導いたりしてくれたのだ。


 たとえば、輝ける月の宮殿グリトニルで迷子になったアストリッドを迎えに来てくれたとき。

 それから、冬至の祭りユールで会ったとき。


 アストリッドはあの獣をユハだと思い込んでいたけれど、そうじゃなかったのだ。

 暗くて、銀の色と白の色を見まちがえただけ。ロキはもう、ずっと前からアストリッドの獣だったのだ。


「ユハさまじゃなかったのね。あなただったのね、ロキ」


 獣はただ黙って、アストリッドの抱擁を受け入れていた。

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