あなただったのね
「ご、ごめんなさい。あの……、わたし、エリサ様みたいにお行儀良くできなくって。それに巫女として、何の仕事もできないまま死んじゃったし」
「たしかに、いまのそなたは肉体と精神が分離しているな」
アストリッドはエリサのように教養もなければ、賢くもないふつうの女の子だった。だから
「はい。自分でちゃんとわかっています。ですからどうか、不甲斐ないわたしの願いを、ひとつだけでいいから叶えてくれませんか?」
アストリッドは祈り方など知らなかったが、それが自分にできる最初で最後の仕事だと思ったのだ。
「どうかエルムトをお願いします。わたしはなにも祈ることができなかったけれど、でも怒らないで。エルムトは、この国の人々はなにも悪くないんです」
「いったい、なんの話をしている?」
いまのアストリッドは、傷みも寒さも何も感じない身体だ。
死んでしまったのなら当然だろう。しかし
「巫女は祈ることが仕事なのはわかっています。でも、それができないときだってあるんです。そういうときでも、怒らないでください。エルムトの人々はいつだって、ずっと月とマーニを愛しているんです。ですから」
「私がいつ、怒ったと?」
「へっ?」
アストリッドは目をぱちぱちさせる。
「巫女が祈ろうが祈るまいが、私にとってはどうでもいいこと」
「どうでもいいって……」
なんだか話が妙だ。
「で、でも、三年前にエルムトはひどい吹雪がつづいて、それで氷と雪に閉ざされてしまったでしょう? あれは、マーニがお怒りになったからだと」
「くどい」
ぴしゃりと言い放たれて、アストリッドは絶句する。
どういうことだろうか。
いや、疑うのはまだ早い。
でもこの様子じゃ、
「あ、あの、マーニはずっとエルムトを見守ってくださってます、よね?」
「人間の子らを見るのは飽きはしないが」
「でしたら、どうして母親から男の子を奪うのでしょう?」
「私がいつ、母親から子を奪ったと?」
アストリッドは全身が痺れるのを感じた。これは
こ、このひと、いつ怒ったのかと言ったけれど、いま怒ってるじゃない!
「ご、ごめんなさい……! 変なこと言って。でも、マーニは男が嫌いなのでしょう? だからちいさいうちにヘルヘイムに連れて行くって」
「勝手な推測だな」
「えっ? ちがうの、ですか?」
「自然界で起きる現象も、人間の子らの寿命も、私には与り知らぬことだ」
「じゃあ、ヘーニルが嘘を吐いているの?」
「人間たちは自分たちにとって都合の良いことばかりをのたまう。まあ、そうでなければ国とやらは機能しないのだろうが」
たしかにそうだ。よく考えてみれば、どれも
「そなたはエリサとちがって血の巡りは悪そうだが、一応話は通じるようだな」
血の巡りって、わたし死んでるんですけど。
「私は好きに見守っているゆえ、そなたらも好きにすればいい」
「それって、ずっと祈らなくてもいいってこと? 巫女は一晩中祈りつづけなくてはならない。その決まりも、なくなる?」
「ああ、好きにすればいいのだ。エリサもそうしていた」
「エリサ様も?」
「あの子は歌が好きだったから、月を見ながらよく歌っていた。私はあの子の歌が好きだ。まあ、あまり上手ではなかったが」
「歌ってもいいの? ずっと祈りの塔にいなくても、いいの?」
返事の代わりに
「わかったのなら、もう行け。さっきから騒がしくてかなわん」
「えっ……?」
アストリッドは振り向いた。誰かがずっとアストリッドを呼んでいる。
ロキだ。
まだ姿は見えないのに、その声はどんどん近付いてくる。
「あれはそなたの獣だろう?」
「ロキ? あなたが……?」
じわっと、涙がせりあがってくる。
ロキは人間の男の子の姿ではなく、狼の姿だった。
アストリッドは信じられない気持ちでいっぱいになる。でも、アストリッドにはわかるのだ。この狼はロキだということが。なぜならアストリッドは
「巫女の魔力に当てられたのだろう。巫女の眷属として獣の姿になる。たしかにその方が巫女を守りやすいらしいな」
皆まできく前に、アストリッドは獣を抱きしめていた。
ああ、そうか。彼は無意識のうちに獣に
たとえば、
それから、
アストリッドはあの獣をユハだと思い込んでいたけれど、そうじゃなかったのだ。
暗くて、銀の色と白の色を見まちがえただけ。ロキはもう、ずっと前からアストリッドの獣だったのだ。
「ユハさまじゃなかったのね。あなただったのね、ロキ」
獣はただ黙って、アストリッドの抱擁を受け入れていた。
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