月の女神

 ふと目を覚ましたとき、アストリッドは自分の身体が、信じられないくらい軽くなっていることに気がついた。


 あれ? おかしいな。


 ずっと長いこと眠っていたはずだ。

 こんなにだらだら寝たあとは、身体が重くてだるくなる。それにあまり朝寝坊をしてしまうと、養父のイヴァンに叱られてしまう。

 

 どうして、父さんは起こしてくれなかったのだろう。


 不思議に思って、アストリッドはそこで気が付いた。ここは自分の部屋でもなければ、自分のベッドでもなかった。


 そろりと、爪先を床へと落としてみた。裸足で冷たいはずの足は何の温度も感じなかった。


 アストリッドはぐるりと辺りを見回す。

 大きなベッドとテーブルとクローゼット、あとは本棚もある。見知らぬ空間なのに、どこか月の巫女シグ・ルーナの部屋に似ているような気がした。


 アストリッドは裸足のまま、歩き出した。

 物音もなく、誰の気配も感じられないそこは、世界で一人きりになったみたいだった。


 おっかなびっくりと部屋を一周して、今度は上の階へと行ってみる。螺旋階段だ。ではやはり、ここは祈りの塔なのだろうか。


 でも、月の巫女シグ・ルーナ嵐の獣ベルセルクルもいないのに?


 アストリッドは急にさみしくなった。人恋しい気持ちでいっぱいになって、とにかく上を目指した。そこへ行けば会えると思ったのだ。


 祈りの間へと来た。しかしそこにも誰もいなかった。

 アストリッドはため息を吐きたい気持ちを堪えて、月が見える窓まで近寄った。

 

 よかった。今宵は満月だ。


 アストリッドは月が好きだった。

 たぶん、エルムトの人間はみんな月が好きだ。月は夜の闇のなかでも導いてくれるし、エルムトのみんなを守ってくれる。極夜カーモスのあいだ、ひと月も姿を見せないような太陽よりも、月の方がずっとみんなの味方。


 そのまま何時間と飽きもせずに月を眺めていたアストリッドは、はたと気が付いた。


 いったい、いつからそこにいたのだろうか。


 振り返れば、一人の少女が立っていた。

 いや、少女という表現はおかしいのかもしれない。白皙はくせきはだ、床まで付きそうなくらいに長い白金の髪、眼は金色だろうか。なんとも神秘的な雰囲気の女性だった。


「あなたは、だれ?」


 問いながらも、アストリッドはその人物を知っている気がした。

 そうだ、彼女は月の女神マーニ。エルムトの人々が愛してやまない女神。


 あれ? でもどうしてわたし、月の女神マーニに会えたの?


 嬉しさと驚きで胸がいっぱいになりつつも、アストリッドは素直な疑問を抱く。月の女神マーニはただアストリッドを見つめている。


「私の声が聞こえるのも、見えるのも、限られた人間だけだ」

「それって、わたしが特別……ってこと、ですか?」

「どう解釈しようとかまわない」


 声は鈴を鳴らしたように可愛らしいのに、ずいぶんと素っ気ない返しだ。がっかりしつつも、アストリッドはいま一度彼女に問う。


「あなたは、マーニ?」

「いかにも」


 にこりとも笑わない女神だったが、アストリッドはすぐ彼女が好きになった。

 

 夢から覚めたらみんなに自慢しよう。

 ヘルガとリリヤは信じてくれる。養父のイヴァンは困ったような顔をして、レムなんかは笑うかもしれない。エリサやユハならにこにこしながら、アストリッドの話をきいてくれる。


「そなた、何も覚えていないのか?」

「えっ?」


 問われ、アストリッドはまたたいた。

 覚えているもなにも、ここは夢の世界だ。目が覚めたら元どおり。


 あれっ? でもわたし、どこに帰ればいいの?


「ええと、わたし。わたしは、なんだっけ?」


 どうにも頭がぐるぐるする。いろんなものが混じって自分が誰だかわからなくなる。記憶をなくしたロキも、そうだったのだろうか。あの頃のロキは本当に可愛かった。


「そう、わたしはワルキューレ。みんなの隊長で……、でもそのあとは?」


 ヘルガと喧嘩してリリヤに心配されて、養父のイヴァンを不安にさせた。ロキもアストリッドを止めてくれたような気がする。


「そうだ。わたし、シグ・ルーナになったんだっけ」


 戦乙女ワルキューレの自分と月の巫女シグ・ルーナの自分とどうちがうのか、何が変わったのかわからないままアストリッドは祈りの塔を出た。ロキを迎えるためだ。


「それからロキと会って話せた。そのあと、は――」


 とっさにアストリッドは自身の腹部を押さえた。傷もなければ血も流れていないし、当然痛みも感じなかった。


「もしかしてわたし、死んじゃった、とか……?」


 渇いた笑いが出てくる。なんて脳天気なのだろうか。でもそのくらいあっというまの出来事だったのだ。そして気が付いたら夢の中。ここは死後の世界。


 じゃあ、このひとは月の女神マーニじゃなくて、黄泉の国ヘルヘイムの遣い?


 アストリッドはじろじろ彼女を見た。


「あの、じゃああなたがヘルヘイムまで連れて行ってくれるの?」

「そなたたち人間は、マーニをなんだと思っているのだ?」


 あ、やっぱり月の女神マーニなんだ。


 アストリッドは急に姿勢を良くした。

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