せっかく助かった命は大事にしなければならない
「ちょっとは落ち着いたらどう?」
コーヒーを
「もうすぐ夕暮れだ。ここには寄って帰りなさいと言ったのに、忘れているのかもしれない」
「夕暮れって。子どもじゃあるまいし」
十八歳の娘にする約束かと、レムはあきれた。
ついでにいうならば、イヴァンはついこないだまで三十路の妹を案じていたくらいの心配性である。
しばらく旅に出ると言ったエリサに、面と向かって反対はしなかったものの、内心では不承不承にといったところだろうか。
「ほら、座って。コーヒーが冷める」
「あ、ああ……」
まるでいつもと逆だ。
本来ならば、いつもあれこれと口煩く説教するのはイヴァンの役目、レムは叱られる役である。
押しかけ女房さながらに、アストリッドのいなくなったこの家にレムは住み着いた。
アストリッドが
イヴァンらしくないと思いつつも、レムは何も口を挟まなかった。たぶん、巫女になった娘に過干渉しないためだろう。
とはいえ、イヴァンは
レムが制裁を加えた――と言っても、相手は勝手に気を失っただけで正当防衛――
あれはヘルガの父親である。
まあ、クビだろうねえ。
あの日も、レムはコーヒーを啜りながらイヴァンと会話した。
だからだろうか。アストリッドは、あっさり痩躯の
イヴァンの娘だけあって、アストリッドも人に甘いところがある。要は、未熟な自分をこれからも支えてほしい。そういう意味なのだ。
「アスラちゃんは大丈夫だよ。ロキがいる」
冷めたコーヒーを飲むイヴァンの眉間に皺が寄った。
「だからさ、いい加減認めてあげなよ。おとうさん」
「結婚は駄目だ。まだ早い」
「それ、ユハにもおなじこと言ったよね?」
こんな面倒な男が
「ロキには長生きしてもらわないといけない。彼はもう、大丈夫なのだろうか……?」
「大丈夫じゃない? ロキはなんたって、
「まあ、お前の薬をちゃんと飲んでいるみたいだし、心配は要らなさそうだが」
「ああ、あれ? いまロキに飲ませているのはね、ただの砂糖水」
イヴァンは急に咳き込みだした。
「ど、どういうことだ! レム!」
「ほら、ロキは
「答えになっていないだろう!」
「そうだねえ。巫女も獣も、人間とは似て非なるものって思われてるけど……なんのことはない、彼女たちも僕たちとおなじ人間だよ」
「じゃあ、ロキは」
「ちゃんと自分の意思で克服したんだよ。あの子は強い子だからね。僕とはちがって」
あんまり自虐的なことを言うと、またイヴァンに説教されてしまう。レムは微笑して、それから話題を変えた。
「僕はむしろヘルガの方が心配なんだよね」
「それなんだが……どうして、彼女は隊長を辞退したのだろうか?」
レムは苦笑する。ヘルガは父親の悪事をなにひとつ知らないだろう。
あの痩躯の男は、愛娘のヘルガに知られることをひどく恐れていた。でも、ヘルガは聡い娘だから、薄々気付いているのかもしれない。これはレムの勘だ。
「いろいろ思うところでもあるんじゃないかな? ヘルガだって、年頃のお嬢さんだしね」
「お前が逃がした組織の男のせいじゃないのか?」
これは心外だ。レムはため息を落とす。
「あのね、僕をなんだと思っているわけ? あっちもこっちも、ぜんぶ片付けるなんて無理。それにあいつ――ヴェルネリ、だったかな? 頭は悪くなさそうだし、なにもしでかさないと思うけどね」
だいたい、ヴェルネリという男はレムを見るなり、一目散に逃げ出したくらいだ。
「まあ、悪い男に引っ掛かるのも、良い女になるにはいいんじゃないかな?」
「俺がヘルガの親なら、お前を殴ってるぞ」
くすくす笑っていると、そのうち上から物音がした。
「ああ、メルヴィ。よく眠れた?」
銀髪の少女が瞼を擦りながら、階段からおりてきた。
二階にはアストリッドが使っていた部屋があるが、いまはメルヴィが使っている。
すっとイヴァンが立ちあがり、台所へと行った。
子どもにはコーヒーはまだ早いので、ホットチョコレートでも作るのだろう。あれを飲んでいるときのメルヴィは本当に可愛らしくて、レムもイヴァンもむかしのアストリッドを思い出した。
「もうすぐアストリッドとロキが帰ってくるからね。いっしょに晩ごはんを食べよう」
少女はこくんとうなずいた。
会ったときからメルヴィは喋れなかった。
そういう風に教育されたせいなのか、声の出し方を知らないせいなのか。けれども、少女はいつか喋るだろう。自分の感情に気付いたときに、きっと。
メルヴィはちょこんとレムの向かいに腰掛けた。
こうして大人しくしていれば、怒鳴られないし殴られない。
組織でどれだけひどい目に遭っていたのか、レムにはよくわかる。ロキとちがってメルヴィはまだ幼いせいか、薬の投与はされていなかったようだが、その代わりに理不尽な暴力は日常だったのだろう。少女はまだ、大人たちを警戒しているのがよくわかる。
アストリッドを殺そうとした少女だ。
イヴァンはメルヴィとの接し方を考えあぐねているようだが、せっかく助かった命は大事にしなければならない。
ロキから
この子は
メルヴィはそう組織に命令されていたし、自分が殺されそうになったそのときには、自害を選ぶように教育されていたのだ。
組織で育った子どもは相手の強さと恐ろしさがわかる。
エルムトにレムがいるので、最初から逃げられないとメルヴィは悟っていたのだろう。ただ、恐怖が少女を
もう怯えなくてもいいよ。君を傷つける悪いやつは、ぜんぶやっつけたからね。
少女ははじめて笑った。
ロキよりも幼い子どもだから、まだふつうの子どもに戻れるかもしれない。そう考えて、レムはメルヴィを引き取ることにしたのだった。
「さて。晩ごはんまで、もうすこし時間があるからね。本を読んであげよう」
かつてネズミと呼ばれた少女は本が好きだった。
レムに言われる前から、お気に入りの一冊を抱えていた。
いまよりもっと素直だったアストリッドを思い出して、レムはちょっと笑う。
「うん? これは、前に読んであげた本だよね? 本当に好きなんだねえ」
最初のページを
レムはゆっくりと、子どもにもきき取りやすい声を心掛けて、読み進めていく。この本は、アストリッドが好きだった本だ。これを見て、あの子はエルムトを守る
いろんなことを教えてあげよう。メルヴィは言葉は喋れなくとも賢い少女だ。そのうちリリヤのように、レムの助手となってくれるかもしれない。
「この国はね、太陽に嫌われているんだよ。だって、そうだろう? みんなが大事にして崇めているのは、一ヶ月も姿を見せない太陽よりも、夜の闇でもあたたかく見守ってくれる月なのだから」
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