過去と未来と、そしていま③

 チャンスはもう残りわずかだ。


 いつだったか、レムから人生をたのしむためのアドバイスをされたことを、ロキはぼんやりと思い出していた。


 自分が本当に大切に想っている相手は、けっして泣かせてはいけない。ロキはもう何度もレムのアドバイスを無下にしている。


 アストリッドと約束した冬至の祭りユールにも来たのに、彼女はへそを曲げた。


 なんだ、時間がよくなかったのかと首を傾げる自分を、ロキは殴ってやりたくなった。


 この頃には、ロキのなかにいるふたりのロキがほとんど同化しているようなものだった。


「巫女になんて、なりたくない」


 本当の心の声を零したアストリッドを、ロキは抱きしめた。

 背中をやさしくたたいて、相手をとにかく落ち着かせる。師匠であるレムならそうする。ロキはそれを真似ただけだ。


 でも、このあとがよくない。


 レムは皮肉屋だからか、自分の本音を言わないたちだ。師匠を真似するのがそもそも間違いだし、アストリッドは正直な子だからストレートな言葉じゃなければ伝わらない。


 こっちはちゃんと、アストリッドの声をきいているのに。


 そう、ロキはアストリッドが与えてくれたものを全部受け取っている。ことば、うた、たべもの。大切なひと、ゆめも、愛も、全部だ。


 ロキはなにかもうひとつ声を落とそうとして、失敗した。

 アストリッドはぐずぐず泣いてばかりで、ちっとも落ち着いてくれなかったからだ。


 いや、あのときは。


 ロキはつぶやく。邪魔されたからだ。

 ユハの魔力に干渉されたロキは、あともうすこしでアストリッドを説得できたのに、中断させられた。声を奪われたのだ。


 嵐の獣ベルセルクル。ユハを憎く思ったものだが、いまならユハの気持ちがよくわかる。


 ユハもロキとおなじだったのだ。


 月の巫女シグ・ルーナに選ばれたエリサの傍らには、嵐の獣ベルセルクルのユハがいた。エリサとユハは本当に愛し合っていたから、ふたりがともに生きていくためにはそれしか方法がなかったのかもしれない。


 その代償に、エリサは自由を奪われた。


 誰の目から見ても、エリサは巫女に向いていなかった。

 エリサは、エルムトもエルムトに生きる人々も愛しているけれど、それ以上にユハを愛している。


 ユハは愛するエリサを、巫女から解放したかったのだ。

 身勝手で独善的な愛。巫女の獣は総じておなじ感情を持つものなのだろうか。




         *




「おや、ロキちゃんじゃないか。帰ってきたのかい?」


 冬至の祭りユールが終わりに近付く。

 失敗続きの上に、ヴェルネリに説教染みた声をされたロキは、ここ数日ずっと不貞腐れていた。


 ロキを呼び止めた老婆に見覚えがあった。

 アストリッドの近所に住む老婆は、十一歳のロキが寝込んでいるあいだに何度か顔を見せていた。レムが不在のあいだに卵粥を作ってくれたのも、このばあさんだ。


「よかったねえ、ロキちゃん。身体もすっかり良くなったんだねえ。アストリッドも喜ぶよ」


 きっとこのばあさんは、ロキがまた体調を崩して本土に入院していたかなにかだと、そう思い込んでいるのだろう。

 にこにこ顔のばあさんを見て、ロキの胸にちくっと罪悪感のようなものが刺した。

 

 ロキはふたたび祈りの塔に来た。これがラストチャンスだと、はっきりとわかっていた。


 アストリッドはロキに嘘を吐いていて、もうとっくに巫女を引き継いでいた。


 でも、それはもういい。ロキはアストリッドと対峙しながら、ネズミの少女を警戒していた。ひどい嵐はロキの視界の邪魔をした。きっとまた精霊たちが怒っているのだろう。


 実はこのとき、ロキもアストリッドに嘘を言った。

 

 リボルバーに弾はもうひとつだけ残っていた。最初は威嚇、二発目はメルヴィを誘い出すため、ラスト一発でネズミを仕留めるつもりだった。


 アストリッドの唇がロキの唇に重なる。


 すぐさま押しのけてメルヴィに狙いを定めた。銃声が鳴り響くなかで、ロキは信じられないものを見た。ロキに胸を撃たれたアストリッドが、目を開けたまま死んでいた。




         *




 何度も何度も失敗したが、これが一番堪えた。


 ロキはどこかのベッドにいるらしかったが、目を開けるのも億劫で、惰眠だみんむさぼっていた。


 ひどい頭痛と悪寒と吐き気がする。薬が切れる時間をとっくに過ぎていたのだろう。でも、もうどうでもよくなったロキは、ふたたび過去に戻ろうとして、夢と現実の境で自分がどこにいるのかがわからなくなった。


「おい、起きろ」


 そのうち、上から男の声が振ってきた。


「いつまで寝ている? とっとと起きろ」


 二度目の声もロキは無視した。男の声はひどく不機嫌で、ロキを苛立たせた。


「うるさいおっさんだな」

「礼儀を知らないクソガキだな。お前もじきにそうなる」

「ならない。俺はどうせ長くない」

「だからガキなんだよ、お前は」


 いったい、何だと言うのだろう。

 もういいからとにかく放っておいてくれ。ロキは頭から毛布を被ろうとした。


「ちょっと、ねえ。無理に起こさないであげて」


 そこで声がもう一人増えた。命令口調の男よりもずっと優しく、あたたかなその声はロキを懐かしくさせた。


「どっかのガキが、勝手に俺たちのベッドを使ってる」

「まだ子どもだから。許してあげよう?」


 喧嘩をはじめられるのも煩わしかったので、渋々ながらにロキは起きた。


 仏頂面の男は黒髪だったが、元の色は黒ではないとすぐわかった。もうひとりの赤毛の女は、ロキと目が合ってにっこりした。

 

 彼女の名を呼びかけて、ロキは唇を閉じる。そんなはずはない。アストリッドはもっと髪が短かったし、こんなドレスみたいに長いスカートを好まなかった。


「いっぱい旅をして疲れちゃったんだよね。もうすこし、ここにいてもいいよ」

「いや、駄目だ。こんな生意気なガキは追い出した方がいい」

「もう、いじわるなんだから」


 ロキはぼんやりとふたりを観察する。赤毛の女にたしめられた黒髪の男は不貞腐ふてくされたらしく、そっぽを向いた。するとどうだろうか。次にロキが瞬きしたときには、男の姿はなく代わりにそこにいたのは白い狼だった。


「嵐の、けもの?」

「そう。巫女の眷属。わたしの、大事なひとなの」


 ロキは急に胸が苦しくなった。


 物心ついたときには、もう組織の一員だった。親の顔も知らず、誰に育てられたかもわからない孤独な子どもがロキ。


 ロキにはじめて愛を教えてくれたのが、アストリッドだ。


 雪のなかからロキを引っ張りだして、それから十四日間ずっと看病してくれたアストリッド。


 ミルク粥を食べさせてくれて、他にも洋梨やら石榴ざくろやら、チーズに蜂蜜漬けのナッツ瓶やら、シナモンがいいにおいのキャロットケーキやら、バター飴にチョコレートを、次から次へとロキの口に放り込んだアストリッド。


 養父のイヴァンやレム。ちょっとだけ覚えている本当の父さん。氷と雪と冬の国エルムト。そこに住まう人々、アストリッドの大切な人たち。月の巫女と嵐の獣。月の女神。好きな本に好きな歌に好きな食べもの、他にもたくさんきかせてくれた。


 ロキはいつのまにか泣いていた。


 頬を伝う涙をアストリッドが指で拭ってくれた。ロキの知るアストリッドよりも、もうすこし大人のアストリッドだった。


「だいじょうぶ。きっとまた、会えるよ」




         *




 夢から覚めたロキは、すぐさまアストリッドに駆け寄った。

 眠ったままの彼女を取り囲む人々の表情は、陰鬱いんうつで暗かった。ロキはイヴァンを見あげたが、アストリッドの養父は首を振った。


「だめだ。アストリッドは、戻らない」


 アストリッドの死という現実を目の当たりにして、ロキは自身が失敗したことを認めた。

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