アストリッドを見てきたから

 夜明けよりも早い時間にアストリッドは目覚めた。


 戦乙女ワルキューレの生活は規則正しく、朝寝坊なんてもってのほか。そもそも、アストリッドは寝付きが良い方だ。ちゃんと朝までぐっすり眠れるし、変な時間に目が覚めたりしない。ただし、例外を除いては。


 寝間着から戦乙女ワルキューレの隊服へ着替えたアストリッドは、こっそりと輝ける月の宮殿グリトニルを抜け出した。


 黎明れいめい前の空は暗くて、夜目が利かないアストリッドはカンテラを持ってこなかったことを、ちょっと後悔した。


 いや、正確に言えばそれさえ時間が惜しかったのだ。


 いつも早起きの母親たちもまだベッドのなかで、どの家も真っ暗。それなら、夜明け前の月の灯りを頼りにするしかない。アストリッドは先を急ぎながらも、うっかり転んでしまわないよう気をつける。


 喧嘩をしたままのヘルガはもちろんのこと、リリヤや他の隊員たち、あるいは養父のイヴァンやレムが知ったら怒るだろうか。もしかしたら、落胆するかもしれない。


 でも、と。アストリッドはつぶやく。きっとこれは、最後のチャンスだ。

 

 次の冬至の祭りユールにアストリッドは出掛けられない。広場で催されている屋台を覗くことをできないし、みんなと一緒にホットワインをたのしんだり、ユール・ログを見に行ったりもできないだろう。


 三年前に彼と交わした約束は、まだ時効じゃないはずだ。

 そう思っているのはアストリッドだけだろうか。だいたい、先に約束を破ったのは彼だし、そのあとにしても最悪だ。あの少年は大罪を犯しただけでなく、懲りずに冬至の祭りユールの前にやってくるだろう。


 予感は、当たった。


 誰もいないはずの広場に、彼はいた。

 アストリッドは意識して呼吸を落ち着かせる。律儀と言えばそうなのかもしれない。彼にだって、約束を反故ほごにした良心の呵責かしゃくはあるらしかった。


 でも、だめ。ぜんぜん、だめ。


 冬至の祭りユールにはまだ早いし、なによりこんな時間だ。ホットワインで、ほかほか良い気分になるどころじゃない。


「減点ばっかり。良いところなんて、ひとつもない」

「でも、アストリッドは来たじゃないか」


 悪びれもせずにロキは言った。アストリッドはちょっと笑った。あのときの約束を果たそうとしてくれる気持ちは嬉しいけれど、その心があるのなら、もっと別に反省してほしい。


「相変わらず警備体制がザルだな。俺たちなんかいなくても、この国危ないんじゃないか?」

「そうでしょうね」


 最後に会ったのはエルムトではなくケルムトだった。

 砂と岩と夏の国は国土も人口もエルムトの倍で、太守が統べる国にはちゃんとした軍隊も存在する。アストリッドもロキもそれを見た。比べられたらちょっと落ち込む。


「でも、ちゃんとあなたたちが来てることはわかってた。ティナ様――、ユスティーナ様に気を取られてたわけじゃない」


 ロキがエルムトにいた期間は一年にも満たないくらいだが、それでも彼の顔は割れている。本土のイサヴェルからたくさんの人間が入ってくるといえど、完全に紛れ込むのは不可能だ。


 だとしたら、本土の使者が来訪するその機に乗じて。まあ、彼の性格なら、堂々と乗り込んで来たのかも知れないが。


「その様子じゃ、怪我はすっかり良くなったんだね」

「……おかげさまで」


 暗がりでもわかるくらいに、あのときのロキの顔色は悪かった。彼の師匠は容赦がない。不出来な弟子を本気で殺すつもりだったようだ。レムらしいといえばレムらしいけれど。

 

 やっぱり最悪だ。


 アストリッドはため息を吐く。最初の再会はケルムトの雑踏のなか。しかも逃げられて追い掛けて。その次は不潔な下水道。おまけに狭い倉庫みたいなところに閉じ込められた。そして、いま。広場に屋台ひとつも出ていない上に、こんな時間だ。


「アストリッドこそ、けっこう元気そうじゃないか」

「なんの話?」


 問い返されて、ロキはきょとんとした。

 彼はアストリッドよりもふたつ年下だから十五歳だ。背丈も伸びたし、顔つきだって大人びている。そのくせ、ふとした瞬間にむかしみたいな子どもの表情をするのだからずるい。


「ラタトスクはなんでも知ってる」

「ああ、そのこと。あなたたち、耳聡すぎない?」


 月の巫女シグ・ルーナに関する一切は一部の人間のみ知る事実で、他には秘匿ひとくである。それなのにロキは、誰が巫女を継ぐのかまで知っているらしい。


「言っておくけれど、エリサ様は表に出てこないわよ。継承の儀式は祈りの塔で行われるの。終わったときにはただの女の子。あなたたちは手が出せない」


 指をくわえて見ているしかできないのに、のこのこエルムトまでやってきたロキ。アストリッドが彼に気付いたのなら、レムはおろか番人ヘーニルたちだって気付いている。


 どうしてそこまでするのだろうと、アストリッドは思った。


 自ら罠のなかに飛び込んで、今度は肩を刺されるだけでは済まなくなる。レムはきっともう、ロキを逃さないだろう。


「ねえ、もうやめよう?」


 考えなしにアストリッドは言葉を吐いていた。

 このあいだ会ったときに、アストリッドはロキに酷い声をした。後悔している。謝りたかったけれど、半分は本当だから言えない。


「やめるって、なにを?」

「組織の言いなりになることを。組織を辞めるの」

「簡単に言うんだな」

 

 くだらない冗談をきかされたときみたいに、ロキは笑った。


「できない。俺はもう、薬なしじゃ生きられない。だから組織を抜けられない」


 はじめからわかりきっていた答えだった。がっかりなんてする必要ない。


「ちゃんと任務を完遂すればご褒美をもらえる。そうやって、他の奴らも生きてる」

「でも、あのひとたちは」


 言いさしてアストリッドはやめた。あれは失敗した人間の末路だ。組織に消される前に逃げ出したとしても、その先に明るい未来なんて待っていなかった。


「やめるのはアストリッドの方だろ」

「わたし?」

「ワルキューレのままなら、また次がある。俺、来年も来るよ。ユールに。これが約束にカウントされないなら、ちゃんと祭りの日にくる」


 アストリッドは笑うのを失敗した。たぶん、ロキは本気で言っている。


「ずいぶん勝手なことを言うのね」

「アストリッドが嘘吐いているからだ」

「うそなんて、吐いてない」

「でも、俺の目を見てない」


 はっとして、彼の目を見た。硝子玉を埋め込んだみたいな綺麗なペリドット色。ロキは嘘つきだけど、ちゃんと目を見て話すときは正直だ。


「やめろよ、巫女なんて。アストリッドには似合わない」

「なによ、それ」

「巫女になったらアストリッドじゃなくなる。……そうだろ?」


 二人分空いていた距離がなくなっていた。ロキはアストリッドの手をしっかり捕まえている。痛い。訴えようとして声が出なかった。ロキは本気なのだ。


「巫女になんてならなくていい。アストリッドじゃない他の誰かがやればいい」

「勝手だよ、ロキくん……」


 繋がった手をすり抜けようとして、またロキに掴まれた。思わず涙が零れた。たぶん、混乱していたのだ。憎むべき敵であるはずの彼に、思いがけない言葉を掛けられたから。


「でも、わたし」

「俺の前で嘘なんか吐くなよ」

「なんで、分かんのよ」

「アストリッドを見てきたから」


 なによ、それ。


 嗚咽のせいで上手く声が出てこない。

 なんだちゃんと伝わっていたんだ。最初の十四日間――、アストリッドがロキと過ごした大切な時間。


 ことば、うた、たべもの。すきなもの、すきなひと、たいせつなもの。ぜんぶ。彼には伝わっていた。


「わたしは……」


 途切れたあとの長い沈黙も、ロキは黙って待ってくれた。


「なりたくない。……なりたく、ないの。ほんとうは」


 ヘルガにもリリヤにも、養父のイヴァンにもレムにも、月の巫女シグ・ルーナやユハにも言えない本音をロキにだけは言える。その意味を、アストリッドは知っている。


「わかってる」


 ただ、それだけ。


 気の利いた声のひとつも、大事な愛の告白も、なにひとつだってくれないのがロキだ。


 減点どころかマイナスだね、ロキ君。


 きっとレムが見たらそう言う。でもロキはレムの弟子だから、いつかレムがしてくれたみたいに、アストリッドを抱きしめて背中をやさしくたたいてくれた。それだけで、よかった。


 子どものようにぐずぐず泣くアストリッドは、もうひとつ心のなかにある声をいってしまおうかと思った。

 けれどもそのとき、びゅうっと強い風が吹き付けた。はっとしてロキから離れたアストリッドの前に、銀の狼がいた。嵐の獣ベルセルクルだ。


「ユハ、さま?」


 嵐の獣ベルセルクルは夜のあいだに人ならざるものへと姿を変える。銀の狼はアストリッドにすり寄った。迎えに来てくれたのだろうか。


 いつだったか、輝ける月の宮殿グリトニルで迷子になったアストリッドを助けてくれたのも、おなじ狼だった。


「だいじょうぶだよ、ユハ様。わたしは、ちゃんと帰るから」


 ロキの姿は消えていた。

 嵐の獣ベルセルクルは彼を見ただろうか。あるいはこれはアストリッドの夢で、ロキは幻だったのだろうか。


 その方がよかったのかもしれない。

 アストリッドは、自分の弱い心に蓋をした。獣は黙ってアストリッドに寄り添ってくれていた。

 

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