ふつうの女の子

「またしくじったな、お前さん」


 嘲るような声はしかし、どこかたのしんでいるようにもきこえる。

 ロキはヴェルネリを無視した。ケルムトとおなじく、組む相手はこいつだった。


「いまじゃない」


 ロキは独りごちた。声がヴェルネリに届いていたかなんて、どうでもいい。


 東の空に、朝焼けが滲むように広がりはじめていた。

 あの子は輝ける月の宮殿グリトニルに帰れただろうか。


 伸ばした手が振り払われることなんて、想定済みだ。

 ロキもアストリッドの手を受け取らなかった。嘘は言っていない。組織で育ったロキは他では生きられない。薬がなければ、そのうちロキは狂ってしまう。


「そういや、あのじいさん。長くないらしいぞ」


 つと、ロキは足を止めた。車椅子のじいさん。たしかに死にかけのジジイにロキには見えた。


「ボスが死んだら、どうなる?」


 きいてどうなるわけでもない。ヴェルネリはにやにやしている。


「俺たちは解体されるのか?」

「さあな。知らんよ」


 忘れていた殺意が込みあげてきた。こいつは殺そう。薬の運び屋はヴェルネリだが、こいつのせいで依存が急激に進んだ。


「まあ、皆まできけ。そもそもなんだって奴らがシグ・ルーナを殺したがってるのか。お前さん、知らないだろ?」

「知らない。興味がない」


 ヴェルネリがくくっと笑った。


「じいさんの初恋の相手だそうだ。拗らせちまったもんは、厄介だぜ」


 ロキは目をしばたかせる。他人の恋愛事情などどうでもよかったが、不快に感じたのは事実だ。


「悪趣味なじいさんだな。エリサはまだ少女だっただろうに」

「ちがうちがう、先代だよ。あのじいさんよりちょい年上だっていうから、とっくにくたばってる。んで、その女は性悪だ。器量良しだが性格は最悪、おまけに癇癪持ち。じいさんは袖にされたってわけだ」

「つまり、逆恨み?」


 ヴェルネリは黙って煙草に火を付けた。

 振られた相手はとっくに墓の下だが、プライドをへし折られた少年の恨みは根深い。あるいは、惚れた女が死んだことも理解していないくらいに、耄碌もうろくしているのか。


「くだらない理由だな」

「そう言いなさんな。互いの利害は一致してる」


 目をすがめたロキから、不自然にヴェルネリは目を逸らした。


「おっと、口が滑っちまった。忘れてくれや」

「協力者がいることくらい、俺だって知ってる」


 そうでなければこんなに堂々と輝ける月の宮殿グリトニルに近づけなかった。ご丁寧に宿も手配されていたし、本土の使者であるユスティーナ来訪の日にちも把握できた。


 ロキは急にアストリッドが気の毒になった。

 あの子が一生懸命守ろうとしているもの、それを内側から壊そうとする奴がいるのに、守れるはずがないのだ。


 でも、もうすぐアストリッドは守る側から守られる側になる。あの子にそんなものは似合わなくとも、それでいいのかもしれない。


 ロキは月の巫女シグ・ルーナを殺す。

 エリサと面識はないから躊躇う必要もない。それですべて終わり。組織は月の巫女シグ・ルーナを殺すように求めていても、アストリッドを殺せとは言っていない。


「やめとけ。……どうせ、ろくなことにならない」


 心の声を読んだみたいにヴェルネリが言う。


「お前さんは馬鹿じゃない。まあ、長生きはできんだろうが、自ら早死にを選ぶことはない」

「巫女なら、なんだっていいのかよ」

「俺たちゃ、命令に従うだけでいいのよ。余計なことを考えんなさんな。組織に消されたくなければな」

「誰が誰を消すって?」


 ヴェルネリは片目をつむった。なるほど、監視役はこいつというわけだ。




         *




「おはよう、アストリッド。ずいぶんと早起きだな」


 輝ける月の宮殿グリトニルに戻ったアストリッドを待ち構えていたのは、養父のイヴァンだった。


 アストリッドはとっさに言いわけを口にしようとして、やっぱりやめた。朝の散歩には早すぎる時間だし、父さんはすぐ嘘を見抜くだろう。


「おいで。紅茶を淹れてあげよう」


 イヴァンはそれほど怒っていないようで、アストリッドはちょっとほっとした。

 イヴァンの自室はいつも綺麗に整っている。机と本棚とベッドがあるだけのちいさい部屋だ。


 ときどきレムが泊まっているらしく、医者であるレムはいろいろ資料を持ち込んでは投げっぱなし。そのたびにイヴァンが説教をしながら片付けさせる。なんだかその光景が目に浮かんだ。


 椅子はひとつしかなかったので、所在なく立ち尽くすアストリッドに、イヴァンはベッドを勧めてくれた。

 いつも医務室のベッドに勝手に座るアストリッドだが、どうしてか妙に緊張していた。


 きっと、父さんが怒っているからだ。


 素直に謝罪の声を吐き出せばいいのに、アストリッドは黙りこくっていた。

 父さんが淹れてくれる紅茶が大好きだったのに、今日はいつもより苦く感じたのも気のせいじゃない。


「お前が望むなら、私は反対しないよ」

「とうさん?」


 アストリッドは急に不安になった。イヴァンらしくない。きっと、ここにレムがいてもそう言う。


「お前が本当になりたいもの、したいこと。それを選べばいいんだ」

「待って、父さん。わたしは」


 喉の奥で声がつっかえた。

 ロキの前だけで言えた本音は父さんには言えなかった。アストリッドは紅茶の入ったカップを両手で抱きしめる。琥珀色の水面に映るアストリッドは、みんなとおなじふつうの女の子だ。


「わたしは、なるよ。月の巫女に」


 イヴァンの顔は複雑そうだった。娘を嫁に出すときよりももっと辛そうで、でも止められないといったそんな表情をしている。


「アストリッド。無理してないか? お前は、」

「だいじょうぶだよ、父さん」


 アストリッドは微笑む。

 大丈夫。父さんの前で作った笑みなんてしない。


 イヴァンは何かを言いかけて、途中で唇を閉じた。前もそうだったのだろう。イヴァンの妹エリサ。妹を説得しようとして、やっぱりイヴァンは失敗した。


「わたしもね、欲しいものがあるんだ。だからちゃんと、自分の手で掴む」


 月の巫女シグ・ルーナであるエリサは、巫女の眷属としてユハを選んだ。それがふたりが一緒に生きられる未来だったのだろう。アストリッドの嵐の獣ベルセルクルが誰かなんてまだわからない。きっと、彼ではないことはたしかだ。


 でも、それでも。


 月の巫女シグ・ルーナになれば、アストリッドにだってできることがある。


 そう。アストリッドはロキを許すつもりだ。

 アストリッドは出っ歯の栗鼠ラタトスクになんか負けないし、ロキに殺されない。だからアストリッドは彼を赦す。エリサに刃を向けたこともユハを傷つけたことも、ぜんぶなかったことにする。


 きっと、番人ヘーニルたちは大騒ぎするだろう。

 だとしても、アストリッドは番人たちの声をきかない。これは月の巫女シグ・ルーナとしての初仕事だ。ふつうの女の子には、もう戻れない。


 アストリッドは飲み干したカップをイヴァンに返した。

 イヴァンの目の下にうっすら隈ができていた。ずっと心配してくれていたのだろう。アストリッドは養父を抱きしめた。

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