もう二度と、裏切らない

「すこしは落ち着きなよ。イヴァンらしくもない」


 いつも小言を言われるのはレムの方だった。


 でも、付き合いが長いからこそ知っている。

 イヴァンはアストリッドを引き取ったあと、穏健な父親を演じているだけで、本当のイヴァンとは別人だということを。


「落ち着いていられるわけがない」


 イヴァンは部屋のなかをうろうろしている。ああ、悪い癖がはじまったとレムは思った。


 軍神テュール時代のイヴァンは頭脳明晰で優秀、おまけに人望も厚く非の打ち所のない人間だった。


 ただし、彼に近しい人間は本当のイヴァンを知っている。


 頑固で不器用で、おまけに人の心の機微に疎い。お互い三十路になったいまでこそ落ち着いたが、普段冷静な分、一度感情が爆発すると手に負えない厄介な人間がイヴァンという男なのだ。


 まあ、僕も似たようなものだけど。


 真面目一徹のイヴァンとは対照的に、レムは軍神テュールの訓練をすっぽかすことが多かった。仮病を使って医務室を占領したり、イヴァンの部屋を勝手に使ったり。とはいえ、このくらいの悪行は可愛いものだろう。


 むかしをすこし思い出したのは、ひさしぶりにこの部屋に入ったからかもしれない。


 輝ける月の宮殿グリトニルの一室であるイヴァンの部屋は、いまはほとんど使っていないらしいが、きちんと整頓されている。今日みたいに番人ヘーニルの仕事が嫌気がさしたときに、ここでさぼっているのだろう。


「嫌になったのなら、辞めたら?」

「そういうわけにはいかない」


 即答だった。レムは失笑しそうになる。


「でも、君一人が騒いだって覆らない。そこがヘーニルの嫌なところだよね」

「そうじゃない」


 レムはため息を吐いた。別に慰めるつもりではなくとも、不貞腐れた三十路男の相手は疲れるのだ。


「どうしようもないんじゃないかな? きっともう、アスラちゃんにも伝わってるよ」

「お前は冷たい奴だな」


 さすがにその言葉は心外だ。レムはちょっと首を傾げて見せた。イヴァンがものすごい眼をして睨んでいる。


「あれだけママだと言い張っていたくせに、妙に物わかりが良いじゃないか」

「逆だよ。パパが混乱してるからこそ、ママが落ち着いていないと」


 もっとも、に一度だってママと認められたことはないのだけれども。


「アストリッドは責任感の強い子だから、きっと断ったりはしないよ」

「……っ! だからこそっ、」


 イヴァンは途中で声を止めた。そもそも饒舌な人間ではないイヴァンだ。頭で理解しようとも感情が追いついていないのかもしれない。


「俺は、もう家族を犠牲にしたくはない」


 いかにも独善的な考え方にレムは苦笑する。むかしからイヴァンはそうだった。


「エリサがきいたら、怒るんじゃないかな? あの子はちゃんと自分の意思で、シグ・ルーナになったんだよ」


 ふわふわピンクの髪のお姫様。大事に大事に育てられた夢見がちなお嬢さまは、巫女に選ばれたとき喜んでいた。


「エリサは変わってるんだ。それに、ユハといられるなら……、迷う必要なんてなかったからな」

「そういえば、婚約が破談になったんだっけ? どっちとも」


 番人ヘーニルの娘であるエリサと辺境伯の娘であるユハ。


 政治的な結婚を望まれていたものの、二人はそれを嫌がった。あのまま無理強いしていたら、本土かケルムトかどちらかに駆け落ちしかねない勢いだった。笑い話で済んでよかったじゃない。そう言えばイヴァンは怒るだろう。


「エリサだけじゃない。俺は、また家族を巫女に差し出さなければならないのか……」


 正直に言えば、レムはイヴァンのこういうところは嫌いだった。

 もっとも、喧嘩をすれば勝てないので余計な声は引っ込めておく。それにわざわざイヴァンに嫌われたくないからだ。


「兄さんがいつまでもこんなだと、エリサも大変だよね。自分はいつも狙われてるのに」

「俺がいまでもテュールだったならと、時々そう思うよ」

「無理言っちゃいけない。君はもう戦えない身体なんだからさ」

「お前だって、似たようなものだろう。レム」


 イヴァンの手がレムの頬に伸びる。ほだされてはだめだ。いつだったか、レムはそうやって自分を戒めた。それはまるで意味がなかったけれど。


「いいや? 僕は意外と長生きすると思うよ?」

「ばか」


 こんなに弱っているイヴァンを見るのはひさしぶりだった。やれやれ、これではアストリッドのところには帰せない。


「アストリッドは強い子だよ。きっと、大丈夫。それにいつかこんな日が来るって、君だってわかっていたはずだろ?」

「あの子は、精霊が見えていた」

「そう。人には見えないはずのものがアストリッドには見える。雪原でロキを見つけたとき、風の精と雪の精が大暴れしてたって言ってたね。子どもの戯れ言だとばかりに思ってたけど」

「いや……、あの子には視えているんだ。一度だけじゃない。三年前、祈りの塔の前でも」

「巫女の資格には十分だ。マーニの声もきっときこえる。アスラちゃんなら」

 

 レムは外を見た。鎧戸をたたく強い風はきこえずに、空を覆う灰色の雲も見えなかった。

 あと十日もすれば冬至の祭りユールがはじまる。きっとまた外は大荒れの天気になるだろう。


「レム。お前、何考えてる?」


 レムはきょとんとした。

 イヴァンはいつもむずかしい顔ばかりしているから、眉間に跡が残っている。


 ああ、ほら。子どもの前ではそんな顔してはいけないよ。怖がらせてしまうから。


「そうだねえ……。リリヤに薬棚の整理を頼むのを忘れてたとか、メルヴィに勉強を教えてあげようとか、先生の墓参りはいつ行こうとか、エリサのお茶会に僕もお呼ばれしようとか、ユールの前に花を摘みに行かないとだとか、ロキ君になんて説教しようだとか、アスラちゃんに美味しいもの作ってあげようとか、今日の晩ごはんは何食べようだとか。いろいろ、かな?」


 思いつく限りを口にしたところで、イヴァンのこわい顔は変わらなかった。


「それだけやることがたくさんあるんなら、大丈夫……だよな?」

「大丈夫って、なにが?」


 皆まで言われなくともちゃんとわかっている。レムは笑った。


「大丈夫だよ、イヴァン。僕はもう二度と、君もエリサも裏切らないから」

「お前は、嘘つきだから」

「まあね。あ、でも。アスラちゃんに余計なこと吹き込んだのはイヴァンだろ?」

「本当のことを教えただけだ」


 ちょっと娘を溺愛しすぎじゃない? 


 指摘すればたぶんイヴァンは怒るだろう。でも、本当に大丈夫。レムはそう言って微笑む。僕はもう二度と、裏切らない。

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