断んなさいよ

 どこをどう歩いてきたか、覚えていない。

 それくらいにぼうっとしていたアストリッドは、無意識のうちに医務室へとたどり着いていた。


 試しにノックをしてみても返事はなかった。レムも彼の助手を務めるリリヤも、外出中のようだ。


 ちょっとほっとしている自分に矛盾を感じながらも、アストリッドは勝手に中に入った。

 真新しいシーツが敷かれたベッドに座って、足をぷらぷらさせる。こら、お行儀悪いよ、アスラちゃん。そうやっていつもレムは、アストリッドを叱った。


 ママと言うよりも、意地悪な義母みたい。


 十七歳の普通の女の子に戻れる場所なんて、アストリッドにはない。

 養父のイヴァンの前でもレムの前でも、ヘルガやリリヤの前でも、アストリッドは戦乙女ワルキューレの顔を作ってきた。


 じゃあ、ロキは?


 アストリッドはかぶりを振る。

 なんであの子の名前が出てくるのだろう。誰かにきいてほしかったのはたしかで、レムならばいつもみたいに茶化しながら、いつもとおなじように接してくれただろう。


 父さんは、きっとだめだ。


 アストリッドは急に寂しい気持ちになった。

 壮年の番人ヘーニルは言った。これはもう決定事項なのだと。最後まで反対していたアストリッドの父さん。あの番人ヘーニルが言ったことが本当なら、イヴァンの言い分はもっともだ。


「休暇だからって、ちょっと気を抜きすぎでしょう? みっともない」


 アストリッドは膝をくっつけた。いつのまに扉が開いていたのかも気付かなかった。ヘルガは見るからに不機嫌そうだった。


「いいでしょ、べつに。誰もいないんだから」


 十四歳の少女に戻ったみたいな声をアストリッドはする。そうして、ヘルガを上から下まで眺め見た。実家に挨拶に行くと言ったくせに、ヘルガは戦乙女ワルキューレの隊服を着たままだった。


「そっちこそ、家に帰るんじゃなかったの?」

「もう用事は済んだから」


 素気ない言葉で返されて、アストリッドは肩を竦める。

 さっき会った番人ヘーニルを思い出した。金髪碧眼の色も、目鼻立ちも、性格も父娘は良く似ている。壮年の番人は一人で勝手に長話をしたくせに、そのあいだ一度だってにこりともしなかった。


「それで、なに? 用があるのはでしょ?」


 機嫌の悪いヘルガに付き合っているうちに、なんだかアストリッドも苛々してきた。


「ききたいことがあったのよ」

「ふうん」


 ケルムトからエルムトに戻るまでの道中、レムも一緒だった。つまりはレムにきかれたくない話なのだ。


「あのロキって子と、一緒にいた男の名前……、知ってる?」


 アストリッドは瞬いた。ケルムトでロキと会ったのは二度だ。パレードの最中にロキはいきなり逃げた。最初にロキを追ったのは、嵐の獣ベルセルクルであるセサルだ。セサルは孔雀に顕現けんげんして、ロキを襲った。


 そのあとは、たしか。


 アストリッドはすこし前の記憶を手繰る。レムが飛び出して行って、アストリッドも二人を追った。ロキの仲間がずっと彼の名を叫んでいたことは覚えていても、その風貌はよく見ていないし、名前だってちゃんときいたかどうか。


「覚えていないって、顔ね」


 ヘルガにため息を吐かれて、アストリッドはむっとした。廃人同然だった出っ歯の栗鼠ラタトスクを、レムとヘルガに任せてアストリッドはロキを追った。追い詰めて問い詰めて。けれども、けっきょくアストリッドはロキを逃してしまったのだ。


 責められる謂われは、あるよね。


 わかってはいても、なんだか胸がむかむかしてアストリッドはヘルガから目を逸らした。


「もういいでしょ。どうせあいつら、冬至の祭りユールの前には来るんだし」


 そう、組織の狙いは月の巫女シグ・ルーナだ。

 絶対に手は出させない。エリサとユハは、アストリッドたち戦乙女ワルキューレで守る。


 いまさら怖じ気づいたのだろうか。そんなわけない。ヘルガもアストリッドとおなじ戦乙女ワルキューレだ。


「断んなさいよ」


 アストリッドは目をしばたかせた。 


「なんの話?」

「とぼけたって無駄。父さん……、ヘーニルからきいたわ。あなた、あの人からなんて言われたの?」


 ヘルガは番人ヘーニルの娘だ。アストリッドよりも先に話をきいていてもおかしくはない。


「でも、決定事項って言われた」

「まだあなたの父さんが反対してる。それに、私だって反対」

「なぜ?」


 ヘルガは賢い娘だ。アストリッドなんかよりもずっと。だから一度決まった番人ヘーニルたちの議会が覆らないことだって、ちゃんとわかっているはずだ。


「あなた、本気で言ってるの? ワルキューレは……どうするつもり?」

「べつに心配してないよ。ヘルガがいるじゃない。次の隊長はヘルガだよ。なんにも問題ないのに、どうして?」


 みるみるうちにヘルガの表情が強張った。あのとき、組織の廃人たちを見たときとおなじ顔をしていると、アストリッドは思った。


「あなた、おかしいわよ」

「おかしいのはヘルガだよ。隊長になれるんだから、喜ばなくちゃ」


 平手打ちが飛んできたのは、そのときだった。

 痛いよりも先に音にびっくりした。たぶん、ヘルガもおなじだったのだろう。手をあげるつもりなんてなかったのだ。


 扉の向こうにはリリヤがいて、とっさに駆け出したヘルガを追って行った。リリヤと一緒だった子どもは、きょとんとした顔をしながらも医務室へと入ってきた。


「ごめん、びっくりしちゃった、よね?」


 アストリッドは子どもに向けて微笑んだ。ケルムトで、ロキたちに見捨てられた少女だ。


 黄金の宮殿グラズヘイムでセサルがお風呂に入れてくれて、少女の蓬髪ほうはつも綺麗に整えてくれた。おばあさんみたいな白髪も、ちゃんと櫛を入れたら綺麗な銀髪だった。


 乞食みたいにぼろぼろだった少女は木綿のワンピースを着て、いまはもう普通の女の子みたいに見える。


「えっと、メルヴィ……だっけ?」


 本土のイサヴェルには、メルヴィのような孤児がたくさんいるという。

 メルヴィは組織に売られた子どもの一人なのだろう。他にもこんな子どもはたくさんいるのだと、レムは言った。


 声は返ってこなかったものの、メルヴィはこくんとうなずいた。

 少女は言葉が喋れずに、しかし文字はわかるらしかった。はじめこそは酷く暴れていた少女も、レムに抱っこされてからは大人しくなった。

 

 そのままエルムトに連れて帰ったのはレムだが、アストリッドにはレムが何を考えているのかわからない。

 レムが不在のときは、リリヤがメルヴィの面倒を見てくれる。もともと世話好きなリリヤは、妹ができたみたいだと喜んでいた。

 

「喧嘩、しちゃった。悪いのはやっぱりわたし、かな?」


 アストリッドは左頬を触った。段々痛みが強くなってきた。そうか、たたかれたらこんなに痛いんだ。


「あのね、エルムトでは巫女に選ばれることは、すごく光栄なことなんだ。ワルキューレみたいに、努力したらなれるってものじゃないの」

「……」

「なりたいとかなりたくないとか、そういうのじゃなくて。ええと、なんて言えばいいのかな?」


 子どもに説明するのはむずかしい。ましてや、この少女はエルムトの生まれではない。


「わたし、運命とか都合の良いときにしか信じないんだけど……。でも、これって義務付けられたこと、なんだよね」

 

 アストリッドは膝の上で拳を作る。どうしてだろうか。手が震えるのを押さえられずに、気を抜けば涙が零れてしまいそうだった。


 メルヴィの青い眼がアストリッドをじいっと見つめていた。はっとして、アストリッドは笑った。今度は自然に笑えたような気がする。


「ね、ここでわたしとヘルガが喧嘩したこと。レム先生には内緒にしてくれる、かな?」


 メルヴィは喋れないし笑わないし驚かない。でも、すこしだけ少女がにこりとしたような、そんな風にアストリッドには見えた。

 

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