第三章

絵本で見たお姫様と騎士様

「おかえりなさい、アストリッド。無事に帰ってきてくださって、嬉しく思います」


 嵐の獣ベルセルクルユハとともに、アストリッドを迎えてくれたのは月の巫女シグ・ルーナだ。


 カウチに座ったアストリッドは、いつもよりずっと大人しくしている。


 テーブルにはシナモンロールとジンジャークッキー、ブルーベリーパイにキャロットケーキが並んでいる。どれもアストリッドの大好物で、おまけにユハのお手製だ。


 向かいでは月の巫女シグ・ルーナがにこにこしている。


 甘いものが大好きな彼女は、お砂糖たっぷりのミルクコーヒーを嬉しそうに飲んでいる。お相伴しょうばんに預かるのもこれが三度目、そろそろ緊張しなくてもいい頃なのにアストリッドの動きは固い。


 ヘルガがいてくれたら、よかったんだけど。

 

 お茶会に呼ばれたのはアストリッドとヘルガだった。

 けれどもヘルガは何かと理由を付けては参加しない。ひさしぶりにエルムトへと帰ってきたので実家に挨拶に行く。そう言われてしまえば、アストリッドもヘルガを止められなかった。


 コーヒーを啜りながら、アストリッドは月の巫女シグ・ルーナを見つめる。

 月の巫女シグ・ルーナのお喋りはとてもたのしい。相槌を打つのはアストリッドの役目で、ユハは給仕役に務めている。


 まるで、絵本で見たお姫様と騎士様みたい。


 ユハは辺境伯の十番目の娘だった。

 アーネルトン伯は娘を姉たち同様に本土の貴族に嫁がせようとしたが、しかしユハは月の巫女シグ・ルーナ嵐の獣ベルセルクルに選ばれた。


 巫女にもっとも近しい存在が、嵐の獣ベルセルクルになる。


 ケルムトの太陽の巫女ベナ・ソアレ嵐の獣ベルセルクル。クロエとセサルは実の姉弟だったが強い絆で結ばれていた。


 エルムトの月の巫女シグ・ルーナ嵐の獣ベルセルクル。エリサとユハは性別はおなじでも本当の夫婦に見える。


 愛には様々な形があるのだ。アストリッドは自分がすこしだけ大人になったような、そんな気がした。


「クロエ様には本当に感謝しているのです。ケルムトが助けてくださらなければ、エルムトはどうなっていたかわからないもの」


 月の巫女シグ・ルーナの皿にチョコレートケーキが追加された。きっとユハの新作だ。


「しっかりお礼を伝えてくださって、ありがとう。アストリッド」

「いえ、そんな……」

「私からも礼を言います。アストリッド、貴女方のおかげです」


 あざやかなセルリアンブルーの目に見つめられて、アストリッドはますます緊張した。容姿端麗なユハ・アーネルトンは、エルムトの娘たちの憧れの存在だ。


 アストリッドはユハを見て、次に月の巫女シグ・ルーナを見た。


 ほんとうに、よかった。


 三年前、月の巫女シグ・ルーナを庇って傷ついた嵐の獣ベルセルクル

 月の巫女シグ・ルーナは愛するユハを思って涙を流しつづけ、そのあいだ月に祈るのを止めた。


 巫女の祈りが届かないエルムトは、三年間ずっと雪と嵐に見舞われた。太陽を拝めたのはわずかな日だけ、困窮する民のために支援してくれたのがケルムトの太陽の巫女ベナ・ソアレだった。


 もう二度と、あんなことは起こさない。


 お茶会解散後、アストリッドは祈りの塔を離れて輝ける月の宮殿グリトニルをうろうろした。


 挨拶回りは一通り済んだので、ヘルガのように家に帰るべきかとアストリッドは思案した。養父のイヴァンとはちょっと話しただけだったので、アストリッドも家が恋しかったのだ。


「おや……? 君はアストリッド、だね?」


 呼び止められて、アストリッドは無意識に姿勢を正していた。番人ヘーニル。アストリッドは口のなかでつぶやく。壮年の男が近付いてくる。


「あなたは、ヘルガのお父さん……?」

「そう。娘がいつも世話になっている」


 世話になっているのはアストリッドの方かもしれない。壮年の番人ヘーニルは言わずともわかっていると、そんな顔をしている。


「ちょうどいい。君を探しに行くところだった」

「わたし、を? ヘルガじゃなくて?」


 問いを番人ヘーニルは笑みで遮った。


此度こたびの議会で決まった。ワルキューレの隊長である君に教えてあげようと思ってね」

「なんでしょうか……?」

「もっとも、君の養父であるイヴァンは最後まで反対していたよ」

「父さんが?」


 そういえばと、アストリッドは思い出す。


 十三人いる番人ヘーニルたちのなかで、真面に会話したことがあるのは養父のイヴァンだけだ。


 金髪碧眼の番人ヘーニル。色もそうだが、背の高いところも目鼻立ちもヘルガに良く似ている。

 アストリッドは三年前、戦乙女ワルキューレの最終試験でヘルガをこてんぱんにした。娘を溺愛する父親なら、アストリッドを敵視してもおかしくはない。


「この三年間、エルムトの民はひたすらに耐えた。雪と嵐と寒さ、そしてひもじさにも」


 アストリッドはきゅっと唇を結んだ。壮年の番人ヘーニルは口元に笑みを残しながらも、その目はぞっとするほど冷たい色を宿していた。


「すべてはシグ・ルーナが己が使命を放棄したことにある。月の女神マーニの怒りはエルムトの民を苦しめた」

「ま、待ってください! でも、シグ・ルーナは」

「エリサは心の弱い巫女であると、我々はそう判断した。ベルセルクルは巫女の眷属けんぞくだが、我々に言わせればただの獣だ。それが巫女の足枷になるとは論外だと、そう思わないか?」


 この壮年の番人ヘーニルがヘルガの父親でなければ、アストリッドは殴りかかっていた。どうにか自制で止めたのは戦乙女ワルキューレとしての意地と、ヘルガの悲しむ顔を見たくなかったからだ。


「何が言いたいんです?」

「断っておくが、これは決定事項なのだよ、アストリッド。我々は次のシグ・ルーナを所望する」

 

 それはすなわち、いまの月の巫女シグ・ルーナであるエリサを見捨てて、次の娘を巫女に据えるという意味だ。


「父さんが認めないと言った理由、よくわかりました」

「いいや、アストリッド。君はまだわかっていない。イヴァンは優秀なテュールだったが、ヘーニルとしては未熟すぎる。我々は私情を挟まない主義だがあの男は別だ」


 アストリッドは震えを止めるのに必死だった。

 月の巫女シグ・ルーナだけではなく養父まで侮辱されるとは思わなかった。怒りで頭がおかしくなりそうだ。


 冷静に、なれ。


 アストリッドは自らに言いきかせる。軍神テュールだったイヴァンなら、そうする。


「そんな顔をしないでくれ、アストリッド。私は君に頼んでいるんだ。あんな甘ったるいミルクコーヒーを好む女より、君の方がずっと優れていると」

「何を言ってるんですか?」

「巫女の儀式が終われば、以前のように本土に行くこともままならないだろう。その前に、君もコーヒーハウスに連れて行ってやろう。馴染みの店がある」

「わたしは、コーヒーは好きじゃありません」


 きっぱり断ると、痩躯の番人ヘーニルは意外そうな顔をした。


「まあ、いい。そんなことよりも、早く君の眷属けんぞくを決めなさい。君が懇意こんいにしていた悪鬼の少年なんかよしなさい」

「悪鬼……? もしかして、ロキのこと?」


 わけがわからない。

 アストリッドは無意識に後退りしていた。早くここから立ち去りたい。その気持ちでいっぱいだ。


「あれは優秀な暗殺者かもしれないが、巫女の獣には相応しくない。賢い君ならわかるだろう?」

 

 アストリッドは激しく瞬いた。

 このひとは、なにを言っているのだろう。さっきまで怒りに支配されていた頭がうまく回らない。困惑するアストリッドに、壮年の番人ヘーニルは告げた。


「おやおや? 皆まで言わねばわからないのかね?」

「言っている意味が、わかりません」

 

 頭の回転が鈍いアストリッドに失望したのか、 痩躯の番人ヘーニルはため息を吐いた。


「次のシグ・ルーナは君だ。アストリッド」

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