たった二人だけの家族

「おやまあ。良い雰囲気だったら邪魔するつもりで来てみたんだけど、……修羅場?」


 アストリッドが力任せにロキを殴ったそのすぐあと、扉はレムによって蹴破られた。


 いったい、どこをどう見ればそんな感想が出てくるのだろう。


 羞恥心よりも怒りよりも呆れが勝って、アストリッドは二発目のビンタを食らわせようとした手を引っ込めた。


「先生。こっちに来ちゃだめ」

「ああ、これ?」


 レムは砕け散った小瓶をちらと見た。さっきまで舞っていた白い粉が、ふたたび舞いあがった。


「そんなこわがらなくても大丈夫だよ。このくらいなら、まあちょっと頭がぼうっとするくらいだから」

「それって、だいじょうぶなの?」


 アストリッドの問いを笑みで躱しながらレムが近付いてくる。


 ヘルガは? 出っ歯の栗鼠ラタトスクたちは? ベナ・ソアレの兵隊たちは? っていうか、どうやって入ってきたの? 鍵掛かっていたよね?


 次々と浮かぶ疑問をアストリッドは呑み込む。レムのことだ。質問したところで真面な答えが返って来るとは思えない。


「さて。……どうしようか?」


 レムの視線はアストリッドではなく、アストリッドに引っ叩かれた少年だ。


「待って、先生」

「うん、アスラちゃん。皆まで言わなくてもわかってるよ」


 とっさにアストリッドはロキを庇ったものの、少年に押しのけられた。あ、怒ってる。ロキの左頬が早くも赤くなっている。


「ロキ君。なにか言うことは?」

「ない」


 不貞腐れたロキとは対照的にレムは笑みを崩さない。師弟関係は良好だった。少なくとも三年前までは。


「いいよ、見逃したげる」


 アストリッドははっとして、レムを見た。


「アスラちゃんを守ってくれたからね。見返りとしては十分だろう?」


 彼はアストリッドにもレムにも目を合わせずに、素直に小部屋を出て行った。


 少年の背中を眺めながら、アストリッドはあともうすこしで手を伸ばすところだった。レムはそんなアストリッドの心もお見通しだ。悔しくて、恥ずかしくて。アストリッドは項垂れた。いま、わたしは何を言うつもりだったのだろう。


 


        *




 黒インクを流したみたいな空を見て、アストリッドはため息を吐いた。

 

 どの方角を見あげても月も星も見当たらない。急に月が恋しくなって、一人になったタイミングで黄金の宮殿グラズヘイムの一番高いところまで来たのに、残念な結果だ。


 そういえば、もう何日も月を見ていない。


 ケルムトまで来るだけで大変だった。砂と岩ばかりの荒野をひたすら南へと目指して、ひと月半。着いてからも慌ただしくて、空なんて見る余裕がなかったのだ。


 ここにきてから、月よりも太陽の方が見た回数が多いのかも。

 

 アストリッドはそうぼやく。エルムトとケルムト。ふたつの国は似ているようで正反対だ。だからアストリッドは、ここの暑さにも食べものにも水にも慣れない。


「あれ~? どうしたの?」


 振り返ると、そこには意外な人物がいた。アストリッドは慌てて背筋を真っ直ぐにする。


「迷子? そんなわけないか」 

「あ、えっと……、セサル様こそ、どうして?」


 栗毛の小柄な少年は、ケルムトの嵐の獣ベルセルクルである。

 彼も太陽の巫女ベナ・ソアレも日中は祈りの塔にいるらしいが、夜は自由な時間だ。


「うん。僕はね、お仕事が終わったから。ちょっと気分転換かな?」

 

 アストリッドは目をぱちぱちさせる。人目を忍んで一人になりたいときだって、嵐の獣ベルセルクルにもあるのだろう。


「ええと、君がアスラちゃん、だね」

「えっと……、はい」


 レムに呼ばれ慣れているとはいえ、会って間もない人にそう呼ばれるとなんだかくすぐったい。セサルは持っていたカンテラを近づけながら、アストリッドをまじまじと見る。


「うん。いい目をしてる」

「あ、ありがとうございます」


 妙にどきどきするのはどうしてだろうと、アストリッドは自問自答した。


 アストリッドが知っている嵐の獣ベルセルクルといえばユハ。物静かな彼女とこんなに喋ったことがないのに、余所の嵐の獣ベルセルクルとお喋りするのはなんだか変な気持ちだ。


「ありがとね。あいつら、捕まえてくれて」

「いえ、わたしたちは、なにも……」

「ベナ・ソアレがめずらしく機嫌良かったからね。僕も嬉しいんだ」


 出っ歯の栗鼠ラタトスクたちはベナ・ソアレの預かりとなった。

 廃人同然だった組織の奴らに同情するつもりはなくとも、人間らしい死を迎えられるのならアストリッドも安心できる。


「あの、ベナ・ソアレも、いつも狙われているんですか?」

「ん~? どうかなあ? この国で暴れようなら、太守が黙っちゃいないけどね。あいつらは多分、本土にいられなくなって、それでこっちに来たんじゃないかな?」

「そう、ですか……」

「うん、そう。ああ、そっか。エルムトは大変なんだよね。あいつらはシグ・ルーナを狙ってるんだよね」


 アストリッドはうなずく。


「あいつらの目的なんて、どうだっていいんです。シグ・ルーナを傷つけるなんて、ぜったい許さない」


 エルムトの祈りの塔から月の巫女シグ・ルーナは滅多に出てこない。

 夜は月と月の女神マーニに祈りを捧げる。それが、月の巫女シグ・ルーナの役目。


 エルムトでは冬至の祭りユールは大事な行事だ。

 この日だけは月の巫女シグ・ルーナも外出が許されて、でもそれもエルムトの人たちを喜ばすために。


 自由なんて、ほとんどない。

 

 たしかに祈りの塔にいれば月の巫女シグ・ルーナは安全だ。

 だからといって、あそこに篭もりきりでは、彼女が不憫でならない。アストリッドの知っている月の巫女シグ・ルーナは甘いお菓子が大好きで、歌や花や空が大好きな普通の女の子だった。


 気晴らしのために外に出ては命を狙われるなんて、許せない。

 アストリッドは自分の意思で戦乙女ワルキューレになった。だから今度こそは、ちゃんと使命を果たさなければならない。


「うん、わかるよ。僕も似たようなものだもの」

「セサル様も……?」


 問いに、嵐の獣ベルセルクルはにこっとした。


「僕はね、クロエの代わりなんだ。ケルムトの太守は変態でね。美しいものに目がないんだ。姉さんは、ちいさい頃からあいつの玩具おもちゃだった」


 アストリッドは絶句する。ケルムトの太守の娘が太陽の巫女ベナ・ソアレだ。アストリッドだってもう子どもじゃないから、セサルが言っている言葉の意味だってわかる。


「そのうちあいつは僕に目を付けたんだ。姉さんは庇ってくれてたけど、でも僕は本望だった。これで、クロエを守れるからね。いまじゃ僕はあいつの一番のお気に入りさ」

「じゃあ、あなたたちは」

「うん、姉弟。たった二人だけの家族。……血で繋がってても、僕も姉さんもあいつを親だなんて一度も思ったことないよ」


 巫女と嵐の獣ベルセルクルは強い絆で結ばれている。


 ああ、そうか。アストリッドはやっとわかった。愛にもいろんな形がある。 

 

「お互い大変だけど、がんばろうね。アスラちゃん。生きていたら、良いことだってたくさんあるよ」


 セサルはアストリッドの肩をぽんとたたいた。栗毛の小柄な少年は、見た目だけならアストリッドよりも年下に見える。


 そんなに落ち込んでいたように見えたのかな?


 アストリッドはちょっと反省する。明日にはケルムトを経って、また荒野を旅する。ひと月半掛けてようやくエルムトに帰れるのだ。

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