あなたを憎んだ
一緒に暮らした十四日間をアストリッドはよく覚えている。
正確には七日間。灰色の世界でアストリッドは少年を見つけて、どうにか雪のなかから引っ張り出した。風の精と雪の精が暴れ回っていたおかげで、家出したアストリッドも遭難するところだった。
翌日目覚めたアストリッドは、養父のイヴァンにこっぴどく叱られた。
気もそぞろなアストリッドは曖昧な返事を繰り返してはイヴァンを呆れさせ、レムを苦笑いさせた。
隣の部屋では、半分雪に埋まっていた少年が眠っていた。
色の白い少年だった。
少年は七日間も眠りっぱなしだった。
高熱が下がらないので、レム特性のくそ不味い薬を無理やり飲ませた。
妹や弟がいたなら、おなじことをしていたのかな?
一人っ子のアストリッドはぼんやり考えつつも、胸に宿る感情がそれとはちがうとなんとなく気付いていた。
八日後にようやく目覚めた少年が、名前と年齢以外の一切を忘れていたから不憫に思った。
それも正しい感情だろう。ロキはアストリッドの半分も声を返してくれなかったけれど、この家でレム以外の客人を迎えるのはたのしかった。
ミルク粥ばかりじゃ飽きるからと、アストリッドは並々注いだ冷たい牛乳と黒パンをロキに食べさせた。
病みあがりだからかもともと食が細いのか、ロキは二口かじってそれきり。ホットミルクなら、もうすこし美味しかったのだけど。でも、それでは父さんに知られてしまう。
性懲りもなく、アストリッドは台所を物色する。
見つけたのはいろいろ。洋梨と
まるで
レムがそう言った。遠からず当たっていたけれど、大っ嫌いなレムに指摘されたのが癪に障って、アストリッドは無視した。
たくさんお喋りをした。十四日間――七日間が七年くらいにたくさん。
養父のイヴァンやレムのこと、ちょっとだけ覚えている本当の父さんのこと、エルムトのこと、近所のおばあちゃんのこと、友達のリリヤのこと、月の巫女と嵐の獣のこと、月の女神のこと、好きな本に好きな歌に好きな食べもの、他にもたくさん。
ロキはどれだけ覚えているだろうか。
ひょっとしたら、ぜんぶ忘れているのかもしれない。
晴れの日が来たらサンドイッチをこしらえてピクニックに行こう。約束したのに行けなかった。外は吹雪、または氷雪。灰色の世界はアストリッドに意地悪で、ちっともお天道様を拝めなかった。
十五日目には、ロキはレムに引き取られて
アストリッドは自分が思いつく限りのぜんぶをロキにあげた。
ことば、うた、たべもの。お気に入りのヒヨコのぬいぐるみとかミントグリーンのリボンとか、差し出そうとしてやっぱりやめた。ロキはすごく綺麗だけども男の子だ。女の子のものを欲しがらないよね。
愛を与えていた。そんな気持ちになっていた。
好きという素直な気持ちを、たぶんアストリッドは持て余していたのだ。はじめて好きになった人だから、自分の手で幸せにしてあげたかったのだ。それを傲慢とは知らずに。
愛していた。残念ながら過去形だ。
世界のすべてが、あなただったらよかったのに。
でも、そうならない。アストリッドには大切にしているものがたくさんある。一緒に過ごした十四日間、ロキはアストリッドからきかされていたはずだ。
だからそれは裏切りだと、思う。
ロキはアストリッドが大切にしているもののひとつを奪おうとした。エルムトの人間は月を愛し、
なぜ、奪おうとするのか。アストリッドには理解できない。だからアストリッドは彼を憎んだ。ロキを憎んだ。
「ざまあみろ」
呪いの言葉をきいたあと、彼はちょっと首を傾げた。
悪いことをしたロキが悪い言葉を知らないとは思えない。ただしペリドット色の眼は正直で、戸惑っているようにも見えた。
「アストリッドは、もっと真面な嘘が吐けると思ってた」
「うそなんかじゃない」
ロキはため息を吐いた。
「じゃあなおさらだ。思ってもいない声を外に出してはいけない。……そう、先生から教わらなかったか?」
とっさにアストリッドは下唇を噛んだ。
あなたを憎んだ。
声に出そうとして、生唾と一緒に
「嘘つきなのは、あなたでしょ?」
ロキは表情を変えない。心当たりがないと言ったように。
嘘つき。アストリッドは彼を睨む目をやめない。
「記憶も何もないって、そう言った。でも嘘」
「嘘じゃない」
「じゃあ、どうして?」
「あいつらが来るまで忘れてた」
「あいつら?」
声の途中でアストリッドも思い出した。本土から来た使者ユスティーナを襲ったのは組織の奴らだった。いつのまにかロキと接触していたのだろう。
いや、考えるだけ無駄だ。だって、ロキは嘘つきなレムの弟子なのだから。
頭痛のせいでアストリッドの機嫌は最悪だった。でも、彼の方がもっと不機嫌そうに見える。
「もう、いいでしょ? 抵抗する気がないなら、大人しくして」
アストリッドはもうすこしだけロキに近付く。相手がレムでなければ逃げられる。だから、彼はアストリッドをここに誘い込んだ。これは、罠。ロキは一人じゃないし、もう一人がいる。
ロキはアストリッドではなく扉を凝視していた。
少年がレムに刺されて肩を負傷したのは七日前、あのレムのことだから手加減はしていないはずだ。アストリッドはそっと剣へと手を伸ばす。こんな小部屋でロングソードは扱いにくいが、そうも言ってられないし、相手が怪我人だからといって手加減するつもりもさらさらない。
「アストリッド、動くな!」
彼に怒鳴られるまで気付かなかったのは、完全にアストリッドの失態だ。
アストリッドは振り返った。小部屋の扉は開けっ放しだった。アストリッドとロキとのあいだはわずか数歩ほどの距離。彼がもうふたつほど足を動かせば壁にぶつかるくらいの狭い部屋。
投げ込まれたのは小瓶だった。思い切り投げつけられた小瓶は砕け散り、中から白い粉が舞いあがった。
ロキに腕を掴まれ、そのまま壁へと押しつけられたと同時に扉が閉まった。外から鍵を掛けられたのだ。
「くそっ、ヴェルネリのやつ」
毒突くロキにアストリッドは目をしばたかせる。
「それって、あなたの仲間でしょ?」
「最初から、俺もここで始末するつもりだったんだ。あいつ」
今度は、ざまあみろなんて言えなかった。彼を気の毒に思う一方で、自分も危険だと気付いてアストリッドはぞっとした。
「吸い込むなよ。少量でも、ろくなことにならない」
さっき見た薬漬けにされた可哀想な人間を思い出した。
白い粉が舞っている。ロキはアストリッドへと届かないよう、自分の身体で庇っている。アストリッドはしばらく動けなかった。
白い粉が床へと落ちていくまで、アストリッドはロキの胸のなかにいた。
息を止めているにも限界がある。目で訴えつづけて、ようやくロキは気付いてくれた。
少年は瞬きをひとつ落として、身を離そうとした。
アストリッドはとっさに彼の腕を掴んで、ふたりをもとの距離へと引き戻す。視線がぶつかった。まじまじと見つめるアストリッドに、ロキは眉を寄せた。
「アストリッド」
「な、なに?」
「……近い」
少年を突き飛ばそうとして、失敗した。なにしろあれから三年経っている。アストリッドよりちいさかったロキは、背も伸びて力だって強くなった。
知らない男の子じゃないはずだけど。
顔が赤くなるのを感じてアストリッドはロキから目を逸らした。何が面白いのだろうか。ロキはにやにや笑っている。
「キスしようと思った?」
アストリッドは少年の頬を引っぱたいた。
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