ざまあみろ

 誰かに頭を殴られつづけているみたいな頭痛がする。

 鈍器で思いっきり、ガンガンと嫌な音がきこえるくらいの頭の痛さは何なのか。


 寒いのを我慢しているせいか、緊張しっぱなしだったせいか、廃人同然の組織の奴らを見てショックだったせいか、はたや大っ嫌いだったレムの胸でわんわん泣いたせいか。


 ともかく、自分一人だけ気付くのが遅れたのを、アストリッドは体調不良のせいにしたりしない。


 レムもヘルガも、扉の向こうを睨んでいる。

 下水道の奥にはネズミの住み処があるときいていた。だからアストリッドたちは、こんな不潔なところまでのこのこやってきた。


 あの子も、ロキもきっとここにいる。


 アストリッドは確信していた。なにしろ、彼は怪我をしているのだ。手当てしなければならないし、身を隠す必要だってある。


 アストリッドはレムをちらっと見た。愛弟子を痛めつけたというのに、良心の呵責かしゃくはまるでないらしい。目が合ってにやっとしたレムに、アストリッドはあきれた。


「さあて、アスラちゃん。汚名挽回だよ」

「それを言うなら、名誉挽回でしょ」


 レムは先生のくせに、ときどき変な言葉を使う。本人曰く、僕は文系じゃなくて理数系だから。だそう。


「そうとも言うね。でも、君にチャンスをあげるよ。ここの奴らは僕とヘルガに任せて。きっともうすぐ、ベナ・ソアレが寄越した兵隊たちが来るはずだから」


 アストリッドはうなずきで返すと、すぐ部屋を飛び出した。


 白熱灯の明かりで慣れた目が暗闇に引き返した途端、使いものにならなくなった。そもそも鳥目のアストリッドだ。この下水道だってヘルガが一緒でなければ一人では歩けなかった。


 でも、いまそんなこと言ってられないよね。

 

 元来た道を辿るくらいならできるし、足音を追っていくのだって簡単だ。頭痛を忘れるためにわざといろいろ考えてみる。


 たとえば、これは罠。そもそもは単独行動ではなかった。もう一人の中年の男、アストリッドは顔を思い出そうとして、それこそ余計な考えだと頭から追い払った。


 暗闇のなかを延々と歩いているような錯覚に陥る。


 それもいいかもしれないと、アストリッドは思った。


 追いついて、追い詰めて。それから何を喋ろうか。レムみたいにべらべら喋りながら戦うのは不可能だ。あれこれ考えながら戦うのは性に合わないし舌を噛みそう。


 それなら、何も話さずに殺そうか。


 アストリッドは笑った。きっと無理だ。だいだい、彼はアストリッドが追い掛けてくることをわかっているし、追いつかれるようにわざと足音を残している。


 奥の倉庫にたどり着く前に扉はいくつかあった。

 それらをぜんぶ無視してアストリッドとヘルガはただひたすら奥を目指した。レムがそう言ったから。


 とうとう追いついて小部屋へと入った。ロキ。アストリッドは声に出さずに口のなかだけで言う。


 白熱灯に目がちょっと眩んだ。

 何度か瞬きを繰り返してからアストリッドはロキを見る。少年は背が伸びていた。


 前はおなじくらいの身長だったのに、頭ふたつぶんくらいは彼の方が高い。アストリッドはなんだか笑いたくなった。三年だ。変わっていても当然の月日が流れた。


 アストリッドはそれとなく視線を逸らした。


 変わっていないのは肌の白さと硝子玉を埋め込んだみたいな綺麗なペリドット色の眼。でも、そうじゃない。アストリッドが知らない色が、いまの彼には見える。


「髪、染めたんだね」


 あれだけ考えて最初に出てきた言葉がそれだった。意外な声だったのかもしれない。ロキはちょっと変な顔をした。


 理由はわざわざ説明してもらわなくてもわかっている。

 あいつらと一緒だ。出っ歯の栗鼠ラタトスク。組織の人間は薬の過剰摂取によって髪の色が抜ける。以前のロキはホワイトブロンドの髪をしていた。隠さなければならないくらいに、この少年は薬に依存しているのだ。


「べつに。ただの気分転換」

「ふうん」


 アストリッドは口を尖らせる。まるで下手な嘘。黒髪なんて似合ってないよ。言えば彼は怒るだろうか。


「あいつらの仲間って見られたくない? でも、残念。ここはネズミの住み処でしょ?」

「よく知ってるな」


 しばらく会わなかった知人でも話し方は昔のまんま。三年なんてなかったみたいにアストリッドとロキは会話する。


 なんだか笑えてきた。前のロキはもっと可愛かったのに。思い出補正だと、アストリッドは思い込む。


「ネズミの始末は俺たちがする。あんたたちは、無駄足だったってわけだ」

「始末、ね。あのひとたち、あなたたちの仲間でしょ?」

「仲間?」


 ロキがはじめて笑った。あ、むかしのまま。なんだか胸が苦しくなって、誤魔化すみたいにアストリッドも笑った。


「残念。もうすぐここに、ベナ・ソアレの兵隊たちが来るの」

「知ってる」

「計画は、失敗?」

「まあ、そんなところだ」

「尻尾巻いて、逃げるんだ」

「だいたい合ってる。俺は、先生に二度と会いたくない」


 逆の立場だったら、やっぱりアストリッドもそうする。痛い目に遭わされるくらいの理由があったとしても。


「逃げても先生は追っかけてくるよ。きっと、どこまでも」

「だろうな」


 それはわたしもだけど。


 アストリッドは言わなかった。

 戦乙女ワルキューレのアストリッドはエルムトを離れられない。いまケルムトにいるのは仕事だから。終われば元どおり。月の巫女シグ・ルーナを守って、エルムトの人のために働くのがアストリッドの仕事。


「べつに、どうだっていい。俺だってあいつらと変わらない。ほっときゃ、そのうち死ぬのにな」


 ついさっき、出っ歯の栗鼠ラタトスクの奴らを見ていなかったらアストリッドはロキを引っ叩いていた。


「あいつらみたいに、さいごは廃人みたいになって、あなたも死ぬの?」


 返事はない。たぶん、答えはイエスだ。


 急に静かになった。アストリッドもロキも黙り込んだ。嫌になるくらいに長い沈黙のせいで、忘れていた頭痛も寒さも汚臭もぜんぶ思い出した。


「ざまあみろ」


 呪いの言葉をアストリッドは吐いた。

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