長生きするのも悪くないものだね

 アストリッドとヘルガは同時に振り返った。

 所用があるから、君たちふたりだけで行きなさい。たしか、そう言わなかったか?


 たぶん、アストリッドもヘルガもおなじ顔をしている。

 ふたりとも口のなかで愚痴愚痴文句を言いながら、そこらを這うネズミに怯えながら進んでいたものだから、とっくに追いつかれていたのかもしれない。気配をまるで感じなかったのも、レムなら納得できる。


「ほんっと、意地悪なんだから」

「うん?」


 レムはにやにやしている。アストリッドはまたため息を吐きたくなった。


「先生はネズミのアジトを見つけてたんでしょ? でもすぐ始末しなかった。それって、わたしたちに見せるためでしょ?」


 アストリッドの横で、ヘルガもおなじ目をしている。戦乙女ワルキューレになる前のヘルガは良家のお嬢さまだった。こんな不衛生な場所なんて死んでも行きたくなかったはずだ。声に出さなかったのは彼女の意地かもしれない。


「半分正解ってところかな?」

「それで? こいつらを、殺せばいいの?」

「ああ、ちがうちがう。早とちりしないで」


 問いながらもレムが「はい」と答えたらどうしようかと、アストリッドは不安だった。なにしろ、ふたりは人を殺したことがない。人が殺されたところなら見たことはあるけれど。


「ベナ・ソアレは、そいつらを生かして連れてくることをお望みだよ」

「ベナ・ソアレが……?」


 アストリッドはそこらに転がっている出っ歯の栗鼠ラタトスクを見る。


「ネズミはちゃあんと駆除しないとね」

「じゃあ、こいつらはグラズヘイムに連れて行かれて、殺されちゃうの?」


 言ったあとで、失言だったとアストリッドは認める。感傷的になってはいけない。同情してはならない。この三年間で、アストリッドは自身の精神も鍛えた。そのつもりだった。


「そんな顔しなくてもいいよ、アスラちゃん。まあ、もうほとんど死んでるような奴らだけど……そうじゃない。ベナ・ソアレは、ちゃんとそいつらを最期まで人間として生かしてくれる」

「この人たちはもう治らない。そういうことですか?」


 アストリッドはヘルガを見た。彼女は挑むような目をレムに向けている。


「そうだよ、ヘルガ。こいつらはみんな助からない」

「そんな……! でもまだ、ちゃんと治療を受ければ」

「病気じゃない。もっとひどいものさ、こいつらを蝕んでるのは。それがね、組織のやり方なんだよ」


 いつものようにレムは淡々と声を紡いでいく。けれどもアストリッドはたしかに見た。レムの目には彼らを憐れむような色が宿っている。


「最初は少量。報酬とはまた別のご褒美さ。でも自分でも気付かないうちに、どんどん薬に依存してしまう。あれはね、禁断症状。薬は一時的に身体を楽にしてくれるけれど、それだけ症状も進んでいくんだ。不眠、過眠、不安、頭痛、嘔吐、幻覚、幻聴、震え。苦しいなんてものじゃない」


 人間には見えない。アストリッドは彼らを見て、そう思った。

 それは正しい表現なのかもしれない。呻き、もがき、苦しみ。口から涎を垂らしっぱなしの彼らの目は、侵入者であるアストリッドたちを映していない。


「もう、助からないのね……?」

「そうだよ、アスラちゃん。ヘルガも、ふたりともやさしいね」


 そんなんじゃない。アストリッドはかぶりを振る。組織の奴らは悪い人間ばかりの集団だ。出っ歯の栗鼠ラタトスク月の巫女シグ・ルーナの命を狙っている。何度も、何度も。失敗しても奴らは懲りもせずにエルムトにやってくる。


「こいつらを救えるのは薬だけだよ。あるいは死か。早く楽になれるのは後者だけど、人間って生きものは愚かだからね。こんなになっても死にたくないって思うものなんだよ。でも、仕方ないよね。組織ってのはそういうところなんだ。こいつらだってわかってる」

「でも、そんなの……。じゃあ、」


 の名を出そうとして、アストリッドは思い留まった。レムもヘルガも、気の毒そうな目でアストリッドを見ている。


「先生、も……?」


 ずっと引っ掛かっていた。レムが出っ歯の栗鼠ラタトスクにやたらと詳しいのは、むかし組織にいたからだ。

 さっきの台詞にしてもそうだ。レムはあいつらに同情しただけじゃない。自分もその苦しみを知っているからこそ、出てきた言葉だったのだ。


 アストリッドはまじまじとレムを見た。白髪頭のレム。むかし喧嘩したときにアストリッドは彼の髪を馬鹿にした。あとで養父のイヴァンにたっぷり叱られたけれど、レム本人は笑っているだけだった。歳を食うとね、こうなるんだよ。


 そうじゃなかったのだ。組織に与して薬漬けになった奴らは総じて髪が白くなっている。あれは薬の影響なのだ。


「レム先生も、そうなの……?」


 きくのが怖かった。けれども、ここでチャンスを逃したらきっとレムは答えてくれないだろう。


「そうだよ」


 ほら、やっぱり。アストリッドは拳を硬くする。レムがアストリッドたちをこんなところへ連れてきた理由がわかった。


「でも僕は医者だからね。自分で薬を調合して、どうにかこうにか生きてる。このとおり」


 大仰に両手を広げてみせるレムは、いつもと何も変わらないレムだ。


 飄々としてアストリッドを小馬鹿にする。揶揄われているのがわかるから、アストリッドはレムが大嫌いだった。おまけにレムはイヴァンの大事な人だ。養父を取られた気持ちになるから、アストリッドはレムの前では素直になれない。


「ごめんね、先生。わたし、もっとレム先生に、やさしくなればよかった……」


 十四歳のアストリッドよりも、十七歳のアストリッドはずっと大人になったつもりだった。

 でも、レムにはやっぱり敵わない。アストリッドは大嫌いなレムの胸に飛び込んで、子どもみたいに泣いた。


「長生きできない身体だけど、こうして長生きするのも悪くないものだね」

「なによ、それ……」

「だって、僕はママだからね」


 アストリッドの背中をやさしくたたきながらレムは言う。なんだか腹が立ってきて、アストリッドも笑った。


「誰が、ママよ」

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