誰のせいでこうなったのか

 その夜、アストリッドはなかなか寝付けなかった。

 冬至の祭りユールに行くのは明日、もちろんロキとの約束はたのしみでもある。でも、そうじゃない。アストリッドは寝返りを繰り返しながら父さんを待った。けれども、養父のイヴァンは深夜が過ぎても部屋に帰って来なかった。


 父さん、忙しいのかなあ。アストリッドはつぶやく。イヴァンは番人ヘーニルだ。しかしアストリッドは番人ヘーニルの仕事をよくわかっていない。

 

 月の巫女シグ・ルーナはこの国の象徴である。

 彼女は月の女神マーニの加護を受けた聖女で、夜のあいだはずっと月に祈りを捧げている。この国の人々は月と月の巫女シグ・ルーナを愛しているし、巫女もまたこの国の人々を愛している。


 それでも、と。アストリッドは思う。月の巫女シグ・ルーナがこの国を統治しているわけではないことくらい、アストリッドだって知っている。選ばれし十三人の番人ヘーニルたち、彼らが実際にこの国を動かしているのだ。


 そういえば、戦乙女ワルキューレを作ったのも番人ヘーニルだっけ。

 アストリッドがまだほんの子どもの頃には、戦乙女ワルキューレは存在していなかったし、この国を守っていたのは男の戦士たちだった。

 父さんは、そのうちのひとり。養父のイヴァンもアストリッドの本当の父さんも戦士だった。過去形なのは、いまは男の戦士たちがいないからだ。


 でも、父さんはあんなに強いし、話しておきたかったのにな。アストリッドはもう何度目かもわからないため息を吐いた。

 本土から来た使者の少女――ユスティーナは言った。あれは野盗ではなく組織の人間だと。組織って、なんだろう。アストリッドはつぶやく。良いことじゃないことだけはたしかだ。だから、今日のうちにアストリッドはイヴァンに伝えたかった。


 あ、でもあの子はレムにも伝えたって、そう言っていたな。

 だとしたら、きっとレムからイヴァンにも伝わっているはず。段々と強くなってくる眠気に負けて、アストリッドは瞼を閉じた。イヴァンはけっきょく、会えずじまいだった。


 ここ数日の疲れが溜まっていたせいか、アストリッドは朝寝坊した。

 慌てて顔を洗って身支度を調えて、それから食堂へと滑りこんだものの、余りものしか残っていなかった。朝からきっちり食べないと力が出ないアストリッドである。根菜のスープを胃の腑に収めると、今度は戦乙女ワルキューレたちの宿舎へと向かった。


 各自与えられた部屋の掃除はもちろんのこと、洗濯も自分たちで行う。養父のイヴァンとの暮らしでは、家事のほとんどをアストリッドが担っていた。得意か不得意かといえば前者でも、まだ戦乙女ワルキューレになったばかりのアストリッドはこの生活に慣れていない。まずは溜まった洗濯から片付けようと、自分の部屋へと戻ったアストリッドはそこでヘルガと出会した。


「……なに?」

「あ、ええと……、わたしも洗濯に」


 せっかくの休みなのに、ふたりとも考えることは一緒だったらしい。なんとなく気まずい空気を無視して、アストリッドとヘルガは洗濯場へと向かう。石鹸を泡立てて肌着を洗っているあいだに、アストリッドの手は真っ赤になった。冬の洗濯は大変だ。冷たい水にも我慢しなければならないけれど、外が吹雪だと何日も洗濯できない。


 よかった、今日はお天気も良さそう。

 洗濯物を干し終えたアストリッドはひさしぶりの青空にほっとした。そこで視線に気づいたアストリッドはヘルガを見る。物言いたそうにしているのは、気のせいだろうか。


「ヘルガも冬至の祭りユールに行くの?」

「行かないわよ」

「そう、なんだ……」


 隊長に言われたとおり、アストリッドとヘルガはずっと一緒にいた。寝食も風呂も排泄もぜんぶだ。それなのに、アストリッドはヘルガのことを名前以外知らない。


「じゃあ、家に帰るの?」

「帰らない。言われたでしょう? 輝ける月の宮殿グリトニルからあまり離れてはいけないって」

「そうだけど……」

「それにみんな緊張してる。隊長だけじゃないわ。先輩たちも、他の子も。この張り詰めた空気、あなたにもわかるでしょ?」


 それはアストリッドも感じていた。たぶん冬至の祭りユール月の巫女シグ・ルーナが姿を見せるから。大切な巫女を守るために戦乙女ワルキューレたちがいる。


 でも、ずっと気負ってばかりだと疲れちゃう。これがアストリッドの本音だ。それにヘルガのことを思う。輝ける月の宮殿グリトニルには養父のイヴァンの部屋がある。他にも医務室に行けばロキやレムにも会える。アストリッドが寂しさを感じずに済んだのは、そのおかげだ。


 あるいは、戦乙女ワルキューレ同士で仲良くなった子もいるのかもしれない。

 ヘルガはそうは見えなかったので、アストリッドは勝手に同情してしまった。それはたぶん大きなお世話だ。


「このあと、どうするの?」

「隊長のところに。すこし、確認したいことがあるから」

「じゃあ、わたしも行く」


 アストリッドの申し出にヘルガは露骨に嫌な顔をした。そんな目をしなくてもいいじゃない。正直、アストリッドはヘルガが苦手だ。きっと向こうもアストリッドをそう思っている。


 ひょっとしたら、ヘルガは隊長に直談判するつもりなのだろうか。だからアストリッドの同行を嫌がった。そんな我が儘が通ると思うなんて、やっぱりヘルガはお嬢さまだ。なんだか胸がむかむかしてきた。


「待って。……なにか、きこえない?」


 ヘルガに言われるまでアストリッドは気づかなかった。次を左へと曲がったら隊長の部屋だ。アストリッドとヘルガは顔を見合わせる。ふたりは同時に走った。


 最初は何が起こっているのかわからなかった。

 戦乙女ワルキューレたちが集まっているのが見えた。喧嘩でもしているときみたいな大きな声で、みんなが騒いでいた。いや、そうじゃない。あの動きはちがう。アストリッドは仲間たちが戦っているのを見た。


 あいつらだ。アストリッドは瞬時に理解した。少女たちが戦う相手は大人の男たちだ。こんな回廊の真ん中で剣を振り回すような馬鹿は他にいない。そうだ。あれは本土の奴らだ。


 野盗。組織。ユスティーナ。混乱する頭でいまは何を考えても答えなんて出てこない。アストリッドとヘルガが駆けつけても間に合わなかった。戦乙女ワルキューレたちが凶刃に倒れていく。


「隊長! しっかりしてくださいっ!」


 ヘルガが懸命に呼びかけている。アストリッドはばくばくと暴れる心臓を落ち着かせようと、意識して呼吸をする。なんで、どうして。誰も答えなんて教えてくれない。戦乙女ワルキューレたちを襲った奴らの姿はない。みんな傷つき倒れて苦しんでいる。


「……って」

「隊長っ!」

「行って、月の巫女シグ・ルーナの、ところ、に!」


 涙が溢れる。もしかしたら隊長は助からないかもしれない。他のみんなだってひどい怪我だ。


「アストリッド!」


 ヘルガの声は怒っていた。当然だ。アストリッドはこの惨状を見て、ただただ動揺するばかり。


「行って! ここには私が残る」

「……っ! 医務室ならわたしが行った方が」

「あなたの方が足が速い! だから、早く行って!」


 弾かれたようにアストリッドは走り出した。向かうのは祈りの塔。あそこには月の巫女シグ・ルーナがいる。彼女を守るユハがいる。だけど、いまはまだ昼だ。嵐の獣ベルセルクルは夜じゃなければ獣になれない。


 頭のなかがぐちゃぐちゃだ。

 冬至の祭りユールにはもう行けない。ロキは待ちぼうけを食らって、アストリッドを嫌いになる。いや、ロキならきっとわかってくれる。だってアストリッドは戦乙女ワルキューレだ。


 いま、そんなことを考えている場合じゃないだろう。

 アストリッドは自分を殴りたくなる。そうだ。冬至の祭りユール月の巫女シグ・ルーナは人々の前に姿を見せる。普段は祈りの塔にいるから誰も巫女に近づけないし、彼女を害するような手段がない。


 じゃあ、どうしていまだったのだろうか。

 アストリッドは呼吸が苦しくなる。全速力で駆けている。月の巫女シグ・ルーナがまだ祈りの塔にいることを、祈っている。


 月の巫女シグ・ルーナを狙う者が現れたのは、これがはじめてではなかった。アストリッドはそう、父さんからきいたのだ。だから巫女を守る戦士が必要なのだと。


 目的なんて、知らない。でも、月の巫女シグ・ルーナの命を狙っている者がいることはたしかで、巫女が外へと出ることを知っていた者がいる。


 巫女に近しい者たちが漏らすとは思えない。そこで、アストリッドは息を止めた。わたしだ。急に血の気が引いて、眩暈がした。もつれそうになった足を止めることは許されずに、アストリッドは必死に走った。


 悪い想像が頭から離れない。だいじょうぶだと、誰かに言ってほしかった。この国の人々は月と月の巫女シグ・ルーナを愛している。巫女を傷つけようとするものがいるとしたら、それは外部の人間だけだ。


 アストリッドは祈りの塔へとたどり着いた。

 前に来たときみたいに、そこには先客がいた。ヘルガじゃないことだけはたしかだ。アストリッドを送り出したのはヘルガ自身だったのだから。


 つい半刻前までは青空が見えた。ここは氷と雪の冬の国。綺麗な空が見えるのなんて幻みたいなものだった。


 アストリッドの頬を冷たい風がたたいている。視界が白くてよく見えないのは雪が降っているせいだ。それでも、アストリッドは見た。見てはいけないものを見たと、アストリッドはそう思った。


 アストリッドを呼ぶ声がきこえる。でも、アストリッドは応えることができない。白い髪の少年が見える。あのときみたいだと、アストリッドは思う。


「ロキ、くん……?」


 震える声で、アストリッドは彼を呼んだ。

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