裏切りものは
たくさんの人に会ってたくさんの人と話したせいか、アストリッドは疲れていた。
けれど、大人たちがアストリッドに詰め寄るのも当然だ。
隊長や他の仲間がどうなったのかとアストリッドは知らないし、きくのがこわかった。ヘルガは医務室に走って医者のレムを呼びに行った。しかしレムはいなかったという。
行方がわからないのは、もうひとりいる。ロキだ。
アストリッドは祈りの塔の前で、たしかに少年と会った。ものすごい吹雪のなかでロキを見つけた。十三歳のアストリッドが十一歳のロキを見つけたときとはちがう。彼はアストリッドに救われたのではなく、アストリッドを――。
「すこし、休んだら?」
上から振ってきた声に、アストリッドは力なく笑った。ヘルガだ。彼女もようやく解放されたところだろう。その顔は疲れ切っていた。
「へいき。わたし、探しに行かなきゃ」
「あなたが見たって子、もういないわよ」
寝台の上で膝を抱えていたアストリッドの隣に、ヘルガが腰掛ける。いま、なんて……? アストリッドは瞬きを繰り返す。
「レム先生もいない。だから
「そんなはずは……っ!」
「ユスティーナ様が組織の存在を指摘してる。番人たちは、それを鵜呑みにしてる」
ユスティーナは本土から来た使者だ。少女は
「さいしょに襲われたのはユスティーナとおじいさん。だったら、あの子たちの方が」
「でも辻褄は合ってる。誰が本土の人間を手引きしたのか、ちょっと考えればわかるでしょう?」
反論しようとしてアストリッドは声を詰まらせる。そんなことはわかっている。でも、問題はそこじゃない。
「ちがうの。わたしが、悪いの」
「アストリッド……?」
「わたしが話した。ロキに、言ったの。シグ・ルーナはユールに来てくれるって」
ため息がきこえた。アストリッドは大人たちに囲まれたとき、それを言わなかった。いま、はじめてヘルガの前で言った。なんて馬鹿なことを。自分でもそう思う。
「やっぱりあなた、眠った方がいいわ」
自分もそうすると、ヘルガは隣のベッドに移った。また、明日になったらふたりは呼び出されて
ほどなくして、隣のベッドからヘルガの寝息がきこえた。アストリッドは毛布に包まっているけれど、瞼は開けたままだ。
外はひどい吹雪だった。これじゃあ、きっと
だいたい、ロキは余所者なのだ。一年間の吹雪の日に、雪に埋まっていた少年。何日も高熱がつづいたせいで、彼は自分の名前と歳以外の記憶をなくした。
だいじょうぶ。どこにも行けないし、追いつける。
アストリッドはそう繰り返す。そのとき、ドアのノックする音がきこえたような気がした。アストリッドは隣のヘルガを起こさないよう、そっとベッドから離れる。
「ちょっと、話さない?」
レムだった。アストリッドは大きな声を出す寸前で、どうにか止めた。
どこまで連れて行くつもりだろうか。レムに付いて行きながら、アストリッドはとうとう医務室までたどり着いた。薬品と血が混じった嫌なにおいがするけれど、ベッドは空で誰もいなかった。
「ど、どうして? みんなは……?」
「ごめんね。追いつけなかった」
隊長も他の
「ごめんね、アスラちゃん。ロキを逃がしてしまった」
「な、なんで……」
その話をいまするのだろう。みんなを犠牲にしてまで追わなければならなかったのか。アストリッドはぶるぶると身体を震わせる。
「落ち着きなさい、アストリッド」
「と、父さん……?」
たくさんの
なにもかも放り出して、アストリッドはイヴァンの胸に飛び込みたかった。そうしなかったのは
「お前は、どこまで知っている?」
「どこまで、って?」
「組織のことは?」
「ユスティーナが、使者が気をつけるようにって、教えてくれたことしか」
イヴァンは
「きみとヘルガ以外のワルキューレたちは殺された」
「そん、な……」
「殺したのは組織のやつら。あのとき、きみを襲ったやつらも仲間だよ」
「ユスティーナと、おじいさん、は?」
「ふたりはあやうく人質にされるところだった。でも、あのじいさんはしぶといから」
言って、レムはちょっと笑う。アストリッドは自分が悲しいのか怒っているのか、だんだんわからなくなってきた。
「組織の狙いはシグ・ルーナ。……ここまでは、いい?」
「はい」
「やつらはシグ・ルーナの命を奪おうと、もう何度も
「なん、で……。そんなことを?」
「さあ? シグ・ルーナはこの国じゃ、神とほとんどおなじ扱いだからね。邪魔なのかもしれないね。本土は……、組織のやつらはこの国の人ほど迷信深くないから」
「ずいぶん、詳しいんですね」
「僕もあそこにいたから」
イヴァンがいなかったら、アストリッドはレムの顔を殴っていた。養父に止められながらもアストリッドは荒い呼吸を繰り返す。
「落ち着いて、アスラちゃん。まだ話は終わっていないよ」
「裏切り者は、あんたでしょ?」
「そうだよ。でも、昔の話だ。いまは……」
苦しそうな声をする。こんなレムははじめてだ。
「僕とおなじようなやつが現れないようにと、あいつらを監視してるつもり」
「そんなの、うそだ」
アストリッドはイヴァンを見た。父さんは、どうして黙っているのだろうか。
「ロキは僕にちょっと似ている。だからすぐにわかった」
「ロキは組織のやつらじゃない。あの子は、わたしが見つけた」
「きみは、それが偶然だとでも?」
「わからない。でも、風の精と雪の精が教えてくれた」
イヴァンが深いため息を吐き、レムは頭を掻いた。子どもの妄想だ。十三歳のアストリッドはまだ子どもで、それでも十四歳のアストリッドは一年前ほど子どもじゃない。
「ロキはきみになんて言った?」
アストリッドは応えたくなかった。だんまりを決め込んでいたら勝手に解釈してくれる。
「そうか……。ロキはね、きみを連れて行きたかったんだよ」
「そんなことは」
「でも、アストリッドは差し伸べられた手を受け取らなかった。……そうだよね?」
その場にいたわけでもないくせにレムは言う。当たりだ。祈りの塔の前で、ロキと対峙した。風と雪の精霊たちが暴れ回っていたから、アストリッドの声なんてまるで彼には届かなかった。
「レム。もう、いい」
「イヴァンは相変わらず娘に甘いね」
ふたりがアストリッドになにを伝えたいのか、ぜんぜんわからない。もうどうだっていいから、早くロキを探しに行きたかった。
「ロキはもう帰って来ないよ。戻るとしたら、シグ・ルーナを確実に殺すとき」
やめて。アストリッドの心はそれ以上の声を拒んでいる。
「失敗したんだよ、ロキは。でも、きっとまた戻ってくる」
寒くて、こわくて、震える。アストリッドを落ち着かせようと、イヴァンはずっと抱きしめてくれている。
そうだ。アストリッドは見たのだ。ロキは剣を持っていた。その剣は血に塗れていた。それから、月の巫女と嵐の獣。動かないユハを抱えてシグ・ルーナは泣いていた。
「見てごらん、外を。ひどい吹雪だ」
鎧戸をたたく強い風は、風の精の怒りかもしれない。絶え間なく降りつづく雪は、雪の精の嘆きかもしれない。
「シグ・ルーナを庇ってベルセルクルが深手を負った。ユハは嵐の獣だからちょっとやそっとじゃあ死なない。でもシグ・ルーナは、エリサの心は壊れる寸前だ。この吹雪はずっとつづく。長い冬になるだろうね」
「きみはどうする? アストリッド」
選択を委ねられている。アストリッドはレムを見た。
「ロキは、戻ってくる?」
「この吹雪が終わったら、きっとそのときにね」
息を深く吸う。長い冬が明けたあと、アストリッドはもうただの少女ではなくなっている。そうだ。アストリッドは
「じゃあ、そのときは……わたしがロキを殺す」
止めるではなく、はっきりと声にした。
「良い答えだ」
レムは笑って、でもイヴァンはアストリッドから視線を外した。まるで、その日が来ないことを願うように。
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