王子サマじゃなくて

 明日に備えて、アストリッドは早めの就寝をする。


 あれからレムはずっと話し込んでいるらしく、けっきょく食堂には姿を現さなかった。

 仕方がないのでロキと宿の女将さんが、使者の部屋まで夕食を持って行く。黒パンと果物の詰まれた籠に、葡萄酒も入っているのをアストリッドは見た。はて、レムは酒が飲める人だっただろうか。


「ねえ、ロキくん」

「だいじょうぶ。俺が、ちゃんと見張ってる」


 アストリッドの胸の内などお見通しみたいにロキは言う。なるほど、養父のイヴァンと一緒だ。レムは酒に強くはない。


 途中でロキとは別れる。レムとロキはそのまま使者の部屋で泊まるらしい。いちおう、護衛はわたしなんだけどな。でも気を遣ってくれたのかもしれない。あのなかで女の子はアストリッドだけだ。


「なにかあったら、大声で呼んで」

「だいじょうぶ、だよ」


 アストリッドはちょっと笑う。さっきの女将さんの話だろう。この辺りで野盗が出るとか。


「だって、この国で悪さするひとなんていないもの。いるとしたら、本土から来たひとたち、でしょ?」

 

 月の女神マーニはこの国の人間をちゃんと見ている。

 悪い行いをする人間は、死んだときに黄泉の国ヘルヘイムへと連れて行かれてしまう。この国の人たちは迷信深い。なにかと騒ぎを起こすのはいつだって本土の人間だ。


「だいじょうぶ。ちゃんと見た。本土の人間はすぐわかるもの。ここにはいなかった」


 ロキを安心させるようにアストリッドは笑みを作る。大丈夫。みんなはちゃんとわたしが守ってみせる。


「わかった。おやすみ」

「うん、おやすみ」


 女将さんは先に使者の部屋に行った。ロキも早く行かないと、せっかくのシチューが冷めてしまう。


「おやすみ、アスラちゃん」


 アストリッドはびっくりして変な声を出した。


「なっ、なっ、なんで……?」

「いや……。ほら、先生がそう呼んでる、から」


 たぶん、深い意味はない。ロキはそう言うと行ってしまった。


 ばくばくと勝手に早くなった心臓を抑えながら、アストリッドは部屋の扉を開ける。そのままベッドに飛び込むと、勢いよく両足をばたばたさせた。


 アスラちゃんって……! 耳の奥でロキの声がきこえる。まだちゃんと声変わりが終わっていない少年の声。もう、変なところばっかりレムに似るんだから。


 頭から毛布を被ったアストリッドは悶えながらも、しばらくするとそのまま眠ってしまった。



      *




 風の音がする。外はずっと吹雪なのだろう。

 この国はいつもそうだ。春も夏もあっというまですぐ秋が来て、冬になる。そのうち風の精と雪の精が喧嘩をはじめる。うんざりするくらいの吹雪だ。


 鎧戸をたたきつける風の音がうるさくて、アストリッドは目を覚ました。

 どのくらい眠っていたのだろうか。そもそも寝付きの良いアストリッドである。起こされなければ朝までぐっすり眠れるのに、今夜ばかりは目が覚めた。


 では、誰かがアストリッドを起こしてくれたのかもしれない。

 はっとして、アストリッドは息を止めた。ノックはなかった。だいたいこんな時間だ。アストリッドがレムやロキとは別の部屋で、一人で眠っているのを知っているのは宿の女将さんくらい。だとしても、わざわざ部屋に入ってくるような用事なんてないはずだ。


 毛布のなかで、アストリッドは数えた。いち、に、さん。恐怖よりも勇気が勝っていた。それが、アストリッドの長所のひとつ。


「うわっ!」


 暗闇のなかで声がした。知らない男の声だった。アストリッドはベッドの脇に立て掛けてあったロングソードに手を伸ばす。


「あなた、誰っ!?」


 ありったけの声で威嚇した。暗闇で見える影はひとつ。大丈夫だ。一対一ならば、アストリッドだって戦える。


「答えなさいっ!」


 ベッドを飛び降りて、アストリッドはロングソードを男へと突きつける。相手の得物はなんだろうか。暗くてよく見えない。


「おいっ、気づかれちまったぞ」

「構うもんか。剣を持っていても、どうせまだガキだ」


 ふたりいる。アストリッドは緊張しつつも、どうにか呼吸を整える。こいつらは野盗だ。宿の女将さんが言っていたことは本当で、しかしアストリッドは見落としてしまっていたのだ。


 いや、ちがう。こういう奴らは用心深い。宿屋には入ってこずに厩舎きゅうしゃにでも隠れていたのかもしれない。


「あなたたち、使者を襲ったやつらね?」


 使者の少年と護衛のおじいさん。ただの山歩きで足を怪我したなんてアストリッドは思っていなかった。つまり、狙いはあのふたり。本土から輝ける月の宮殿グリトニルまでの長旅だ。お金だってたくさん持っている。


 たぶん、本土から付けていたのだろう。

 船では他の旅人や船乗りたちがいるから手を出せずに、ふたりきりになったところで彼らを狙った。卑怯なやつらだ。アストリッドは男たちを睨みつける。


「あいつら、とんでもなく強かったからな。こいつを人質に取れば」

「黙れっ!」


 アストリッドは激高した。そんな作戦はすぐに失敗する。こいつらは知らないのだ。アストリッドは月の巫女シグ・ルーナ戦乙女ワルキューレ


 アストリッドは手前の男を先に狙った。この男たちはアストリッドの武器を見ていたはずだが、単なる小娘だと舐めている。一気に踏み込んで、ロングソードを振りおろす。思い出せ。父さんが教えてくれた剣の動き。


「ぎゃっ!」


 右腕をアストリッドに斬られた男が悲鳴をあげた。狙うのは首か肩。しかし、小柄なアストリッドでは十分に届かない。それに力だって弱い。切り落とすつもりで斬ったものの、男の腕はまだ繋がっている。


「こいつ……っ!」


 もうひとりの男が襲い掛かってきた。想定内。アストリッドは一旦間合いを取るために飛びさがる。得物が見えた。三本刃のダガーだ。これなら、負けない。


 金属がぶつかる音がつづいた。男の動きはただの野盗とは思えないほど素早く、受けるのがやっとのアストリッドは、それ以上の詮索などできなかった。そもそも一人用の客室は狭く、ロングソードを振り回しているアストリッドが不利なのだ。それに気づいたところでもう遅い。


 それにアストリッドは三本刃のダガーの男と戦うのに必死で、もうひとりを失念していた。アストリッドに右腕を斬られてのたうち回っていた男。そいつがアストリッドの足を思い切り引っ張った。


「あ……っ!」


 片足では踏ん張りきれずにアストリッドはうしろに転び、床へとしたたかに頭を打ち付けた。目の前で火花が散る。傷みは遅れて来たがそれどころじゃない。慌てて起きあがろうとしたアストリッドの口を、三本刃のダガーの男が塞いだ。


「うぐっ!」

「やれやれ、やっと大人しくなったか」


 アストリッドはとにかく暴れた。しかしもがけばもがくほど、苦しみが増す。男の大きな手はアストリッドの鼻から口を覆っている。


「ワルキューレってのも、たいしたことないな。……おい、起きろ!」


 三本刃のダガーの男がもうひとりを呼ぶ。アストリッドに斬られた男は、腕を押さえながら近付いてくる。


「待てよ。オレはこんなガキでもやられたんだぜ? このままでは腹の虫が治まらない」

「おいおい……。悪趣味だな」


 アストリッドは瞬時に理解した。たとえようもない嫌悪感、どうしようもない恐怖。足をばたつかせてもがいても無駄だ。悲鳴は出せない。三本刃のダガーの男は、アストリッドの口をしっかり塞いでいる。腕を斬られた男がアストリッドに馬乗りになる。いやだ。こわい。アストリッドのロングソードはすぐそこにあるのに、届かない。


「ほんっと悪趣味。そういうのを、ロリコンって言うんだよ? おじさんたち」


 上から振ってきたもうひとりの声に、アストリッドは激しくまたたいた。


 息ができる。そう思ったときにはアストリッドは解放されていたし、もうぜんぶ終わっていた。いったい、なにが? たしかめるよりも早く、彼はアストリッドの前で跪く。


「大丈夫? アスラちゃん」


 レムだった。アストリッドは信じられない思いでいっぱいだった。


「な、なん、で……?」


 声にするのがやっとだった。輝ける月の宮殿グリトニルの医者のレム。白兎のレム。でも、いま彼は剣を持っている。アストリッドの持つロングソードよりもすこし大きく、鎌形の刀剣はファルシオン。


「う、うそ……だろ、あいつ……」

「冗談、じゃねえ! こいつは、白鬼の……レムだ!」


 うしろで男たちが叫んでいる。アストリッドはまだ何が起きたのか、理解していない。それでもこれだけはわかる。レムはアストリッドが目を瞑っているあいだ、息を止めていたそのあいだに、あのふたりの男を斬った。


 足音が遠ざかっていくのを、アストリッドはぼんやりときいた。ああ、あの男たちは逃げたのだ。


「いやあ、失敗失敗。殺しちゃあ話が聞けなくなるからねえ。腕が落ちたかなあ」


 レムは頭を掻きながら笑っているが、アストリッドにはわかった。腕が落ちたなんてとんでもない。殺すよりも殺さない方が何倍もむずかしい。


「ごめんね、アスラちゃん」


 ぽんぽんと、レムがアストリッドの頭をたたく。


「ほんとは、もうちょっと早く助けに行くつもりだったんだけど」


 苦笑するレムの声、その言葉の先がアストリッドは読める。こんなにも戦えないなんて、思わなかった。レムはそう言っているのだ。


「大丈夫? 怪我はなかった?」


 いつもだったらその手をアストリッドは振り払った。人を小馬鹿にするようなこの声が嫌いだった。でも、ちがう。そのとおりだ。レムの言うとおりだ。


「うっ、うっ……。うわあああんっ!」


 大嫌いなレムの前でアストリッドは泣いた。悔しさと恥ずかしさと安堵と、ともかくぜんぶがない交ぜとなって、感情を抑えきれなかった。


「こ、こわかったよう! ううっ、こわかったの、わたし」

「うん、うん。ごめんね、アスラちゃん」

 

 レムはアストリッドを抱きしめながら、背中をぽんぽんとたたいてくれる。ちいさい頃、養父のイヴァンがアストリッドを寝かしつけてくれたみたいに。


「ううっ、わたし。だめ、だったの。できなかった、の」

「うん、うん。よく、がんばったね」


 レムが本当に意地悪でイヤな奴だったなら、酷い言葉でアストリッドをなじっただろう。ごめんなさい。ほんとうは知っていたの。レムは悪い人じゃない。だって、父さんが好きなひとだもの。


「ごめんね。助けに来たのが、きみの王子サマじゃなくて」


 だけども、この台詞は余計だ。アストリッドはレムの胸のなかで泣きじゃくりながら、そう思った。 

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