アストリッドが行きたいのなら
山麓の村までは大人の足でも半日は掛かる。
履き慣れた編み上げブーツを履いてコートを羽織り、耳までしっかりと被って手袋も忘れない。アストリッドの持ち物といえばあとは腰に
ロキとレムはリュックを背負っている。本土から来たという使者は足を怪我して動けないという。あのリュックのなかには薬とか包帯がたくさん入っているのだろう。
それにしても、と。アストリッドはため息を吐きそうになった。いくらなんでもレムのリュックは大きすぎる。仕事道具の他に何を詰め込んだらこうなるのか。こんなにたくさんの荷物を背負って、歩きにくくはないのか。
山歩きには慣れているアストリッドである。
ロキとたのしくお喋りをしながら時には休憩を入れて、それでも村へとたどり着いたときには正直に疲れていた。普段は医務室に籠もりきりのロキも、いつもよりすこし口数が減っている。一番元気だったのは、重たいリュックを背負ったレムだった。
「なんなのよ、あの人……」
「まあ、先生だから」
見るからに貧弱そうなレムである。アストリッドよりもたくさん喋っていたくせに、どこにそんな元気を残して置いたのか。ちょっと納得がいかない。
思わず愚痴を零したアストリッドに、ロキもよくわからないことを言う。医者は体力勝負ってことなのかしらと、アストリッドは自分を無理やり納得させる。
本土から
まず北の島国であるこの国に来るためには、海を渡らなければならないのだとか。
川や湖ならともかく、海なんて見たことのないアストリッドは想像するだけでちょっとこわい。船というものが水の上に浮かぶだなんて、考えるだけでぞっとするのだ。
海を渡って港町へと着く。季節が冬のあいだは船は月に二回しか行き来しないので、これを逃すと大変だ。港町を離れると山越えがはじまる。冬の登山など危険しかないのだが、
じゃあ、使者の人たちはふた月以上も前から旅をしているんだ。
本当はとっくに着いているはずが、慣れない山道で足を怪我したために動けなくなってしまったのは、なんとも気の毒な話である。
「ちょっと腫れていますが、このくらいなら大丈夫。歩けますよ。念のために痛み止めを渡しておきましょう」
山麓の村に宿はひとつだけだ。医者が来るのをずっと待っていたのだろう。宿の主人はレムを見て、すぐ使者の元へと案内してくれた。外で待っているのも寒いのでアストリッドたちも中に入れてもらった。ベッドに横たわっていたのは
どちらが使者なのだろうと、アストリッドはふたりを観察する。
おじいさんと孫。そんな関係にも見えるふたりだが、一人は使者でもう一人は護衛だ。ベッドの脇にはロングソードが立て掛けてある。それから少年の腰にはレイピアが。
ううんと、アストリッドは頭を悩ませる。
この辺りには野生の狼も猪も棲息している。レイピアはせいぜい護身用といったところ、だとしたらあの男の子が使者でおじいさんが護衛だろう。
でも、護衛役が足を怪我するなんて間抜けというかなんというか。それに使者があの少年というなら若すぎる。
「さすがはレム先生だ。待っていた甲斐がありましたよ」
人好きのする笑みで老爺は応える。やっぱり変だ。アストリッドは違和感に気づいていた。だいたい、この村にだって医者はいたはずだ。それをわざわざレムを呼ぶなんて。
「いえいえ。ですが、長旅は大変でしょう? あまり無理をするものではありませんよ?」
「おやおや、レム先生はなかなか手厳しい。そう年寄り扱いせんでくだされ」
まるで三文芝居を見ているような気分になる。レムも老爺も笑っているはずなのに目はぜんぜん笑っていない。アストリッドは背中がぞくぞくした。
「アスラちゃんは先に休んでいていいよ。僕はもうすこし話をしているからね。ロキくんも、ご飯を食べておいで」
アストリッドとロキは目を合わせた。あまり仲の良さそうなふたりには見えなかったので、お言葉には甘えさせてもらう。部屋から出て行くとき、少年がちらっとこちらを見たような気がした。
*
「ね。どっちだと、思う?」
根菜と兎の肉で煮込んだシチューを食べながら、アストリッドは問う。ロキは黒パンをちぎって、ちょっと考えるふりをした。
「じいさんの方だろ」
「あ、やっぱり? そうだよねえ」
アストリッドはうなずく。レムが手当てをしているあいだ、ロキはその動きをひとつも逃さないようにずっと見ていた。使者と護衛のこともしっかり観察していたらしい。
「じゃあ、あの子が使者ってことだよね? ちょっと若すぎない?」
「そういうもんじゃないのか? それか、見た目よりも歳を食ってるとか?」
「う~ん。そうなのかなあ?」
「それに使者は喋っちゃいけないんだろ? あいつ、一言も喋らなかった」
たしかにそうだ。
「でも、あのおじいさんの足。もう大丈夫なのかな?」
「大丈夫じゃなかったら、俺がおぶっていく。先生に背負わせるわけにはいかないし」
「ええっ、大丈夫なの? あのおじいさん、けっこう大きかったよね?」
「だから護衛なんじゃないのか?」
それはそうだけど。アストリッドは閉口する。そこでテーブルに皿が足された。デザートのキャロットケーキ、ホイップクリーム付きだ。
「心配しなさんな。使者さんたちはここから馬車に乗ってもらうからね」
宿の女将さんだ。見つめ返すとウインクしてくれた。
「宿代は十分すぎるくらいにもらったからね。ちゃあんと
白い歯を見せる女将さんにアストリッドも笑う。たぶん、キャロットケーキは女将さんのサービスだ。他のお客さんに呼ばれて行った女将さんの背中にアストリッドは感謝を告げる。
「知り合い、なのかな?」
「ああ、そうみたいだよな。先生とあのじいさん、親しそうだったし」
「じゃあ、本土で知り合ったってこと?」
「たぶん」
実のところ、アストリッドはレムをよく知らない。
「本土って、どんなところなんだろう? ね? ロキくん」
「ごめん。俺、覚えてないんだ」
「あっ……」
失言をしてしまった。ロキはあの雪の日にアストリッドが救った。凍傷になりかけていたところをイヴァンとレムが助けてくれた。一週間も眠ったままで、ようやく目が覚めたかと思えば、彼は記憶のほとんどを失っていた。
「あの、ごめんなさい。わたし……」
「いいよ。気にしないで」
ロキはあんまり笑わない。いつだってアストリッドの話をきいてくれるけれど、笑顔で返してくれたのは数えるくらいだ。
「それよりさ、決めた? ほしいもの」
「えっと……」
アストリッドはずっと考えていた。この一年間、アストリッドの夢は
「ユール」
そうだ。もうすぐ
「
ロキはすこしだけ驚いた顔をした。一年前にこの国に来たばかりのロキは
「いいよ。アストリッドが行きたいのなら」
笑って、いたと思う。少なくともアストリッドの目に、ロキはそう映っていた。
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