巫女の眷属

「はい。もう動いてもいいよ、アストリッド」


 アストリッドは鏡が苦手だ。

 最初に赤褐色の髪が目に付く。同世代の女の子たちはみんな綺麗な金髪なのに、アストリッドは赤髪だ。カッパーブラウンだとか銅色だとか、だいたいその名前からして可愛くないし、癖毛だってひどい。


 次に目立つのは雀斑そばかすだ。

 養父のイヴァンはそんなものを気にするなというけれど、年頃の娘にそれはあんまりな言い草だ。色白だからこそ目立って仕方ないし、やっぱり他の子と比べてしまう。赤褐色の髪も雀斑も、本当の父親の遺伝らしい。


 父さん譲りなのは、目の色もなんだけど。

 アストリッドの目は綺麗なブルーの色をしている。これは他の子たちと一緒だ。白皙はくせきの膚、目はブルーかグリーン、男女ともに長身で痩躯そうく、これがこの国の人々の外的特徴である。


 十四歳のアストリッドは成長過程にあるので、他の女の子とたちと比べるとちょっと背は低い。それにみんなはほっそりとしているのに、アストリッドはがっちりといった表現の方が正しく、けれどもそれはここ一年の訓練のためだと思い込んでいる。

 だって仕方ないじゃない? 剣の稽古を付けてもらうと、お腹がすごく空いちゃうんだもの。


 つまるところ、アストリッドは自分の姿を自分で見たくないのだ。

 でも、今日ばかりは我慢するしかない。友達のリリヤに来てもらって、綺麗に髪を結ってもらった。いつもはポニーテールがトレードマークのアストリッドだから、髪をおろしているだけで、なんだかそわそわしてしまう。


「うん。すっごく可愛いよ、アストリッド」


 リリヤが嬉しそうに言う。アストリッドは鏡に映る自分をまじまじと見た。

 サイドを編み込んだハーフアップ、うしろはミントグリーンのリボンで結ばれている。唇にはピンクの口紅をちょっとだけ塗ってくれた。ドレスは持っていなかったので、誕生日に着るお気に入りのワンピースを引っ張り出した。


「すごい……。なんだか、わたしじゃないみたい」


 全身鏡の前でアストリッドは大人しく座っていた。動くとリリヤに叱られてしまうからだ。ひとつ年下のリリヤは、普段は大人しいのに怒るとすごくこわい。


「ふふふ。照れてるアストリッドも可愛いね」

「もう、リリヤったら茶化さないで」


 それはまるで魔法みたいだった。アストリッドはリリヤみたいに自分の髪をちゃんと結えないし、お化粧だってよくわからない。本当はコンプレックスの雀斑を白粉で隠してほしかったけれど、リリヤに却下されてしまった。ぜんぶ隠してしまうよりも、ありのままのアストリッドの方が素敵だって、そう言われて。


「じゃあ、行ってきます」

「はい。行ってらっしゃい」


 後片付けはリリヤがしてくれるというので、素直に甘えることにした。アストリッドの家から輝ける月の宮殿グリトニルまで歩いて一時間掛かる。

 お抱えの馭者ぎょしゃがいたならば、アストリッドだってドレスを借りただろう。けれども馬車なんて乗ったこともないアストリッドだ。ちゃんと自分の足で歩いていかなれけばならない。


 今日は朝からずっと太陽は分厚い雲の下に隠れている。風も冷たくて雪もちらついているから、帰る頃には吹雪になっているかもしれない。

 アストリッドは普段使っている編み上げブーツ、それからコートを着込んできてよかったと思った。青いワンピースの下にはしっかりタイツも履いている。今日は特別な日だから本当はドレスに袖を通したかっただなんて、考えは捨てておいて正解だった。


 余裕を持って家を出たつもりでも、輝ける月の宮殿グリトニルに着いた頃には昼を過ぎていたので、アストリッドはすこし慌てた。

 なにしろ輝ける月の宮殿グリトニルは広い。約束の時間には間に合いそうでも、迷子になって遅刻しましただなんて笑えない冗談だ。


 アストリッドはゆっくりと回廊を進んでいく。

 普段出入りするのは演習場と医務室くらいで、宮殿の奥になんて近付いたこともなかった。

 祈りの塔には月の巫女シグ・ルーナがいる。アストリッドが目一杯のお洒落をしてきたのは、月の巫女シグ・ルーナに呼ばれたからだ。


 夜のあいだ、月の巫女シグ・ルーナはずっと月に祈りを捧げている。

 神聖なる祈りの塔へは誰も近づけずに、月の巫女シグ・ルーナの傍にいるのは嵐の獣ベルセルクルだけだ。


 ついに、会えるんだ。

 家を出たときからアストリッドは緊張していた。この国の娘たちは月の巫女シグ・ルーナ憧憬どうけいしている。娘たちだけじゃない。国民すべてに愛されているのが月の巫女シグ・ルーナだ。


 でも、わたしが憧れているのは嵐の獣ベルセルクル

 月の巫女シグ・ルーナ月の女神マーニの加護を受けた聖女である。夜のあいだ、眠らずにただ月へと祈りを捧げる月の巫女シグ・ルーナを守っているのが嵐の獣ベルセルクル。この国の人々はベルセルクルを巫女の眷属けんぞくと呼ぶけれど、アストリッドは嵐の獣の方が好きだった。


 そのふたりに、いよいよ会えるのだ。

 どくんどくんと高鳴る心臓に、落ち着けとアストリッドは繰り返す。とうとう祈りの塔へとたどり着いた。水晶クリスタルでできたその塔には入り口は見当たらずに、時間になれば迎えがくるはずだった。


 すこし早かったのかもと、アストリッドはひとまず塔の周りを一周する。そこではたと足を止めた。なんと、先客がいたのである。


 アストリッドは激しく瞬きを繰り返した。相手にとってはアストリッドの態度が不快だったのだろう。きつい眼差しでまず睨まれた。


「なにか……?」


 じろじろと無遠慮に見つめていた自覚はある。そう、三日前だ。あのときの長く美しい金髪はばっさりと切られていた。


「あ、あの……、髪は?」

「切ったの。邪魔だったから」


 嘘だと、アストリッドはそう思った。

 枝毛ひとつ見当たらない綺麗な金髪、きっと彼女の家は金持ちで、使用人か誰かに髪を梳かしてもらっているのだろう。そして彼女自身も、美しい金髪が自慢だったはずだ。


 他にもききたいことがあったのに、アストリッドは声が出なかった。

 金髪のお嬢さま。トーナメントの最終相手、アストリッドがたたきのめしたのが彼女だった。


 なぜ、その金髪のお嬢さまがここにいるのか。深く考えずともアストリッドはすぐたどり着いた。彼女は本当に金持ちの家の子のようだ。父親は番人ヘーニルなのかもしれない。となれば、最終候補に残ったもう一人を追加で戦乙女ワルキューレにするのもきっと容易い。


 アストリッドはかっとなりかけて、けれどもすぐ冷静になった。

 彼女が髪を切った理由、それは彼女自身がその事実を認めていないからだ。その証拠に金髪のお嬢さまはアストリッドみたく洒落込んでいない。コートの下からのぞくのは男物のズボンで、上もチュニックにベストという簡素な装いだろう。


 自分が浮かれていたことが恥ずかしくなって、アストリッドは逃げ出したくなった。でも、もう遅い。アストリッドの前に燕尾えんび服姿の女性が現れた。養父イヴァンと変わらないくらいの長身、切れ長の目はセルリアンブルー、薄い唇といい、中性的な面立ちをするその人を女性だと認めたのは、誰であるか知っていたからだ。


「ベルセルクル……」

「お待たせしました。どうぞ、こちらへ」

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