月の女神の祝福を
ユハは辺境伯の十番目の娘だ。
北の島国であるこの国には王と呼ばれる者がいない。そんな存在がなくとも国は成り立っているし、この国の人々が敬愛するのは
とはいえど、本土はこの国とは比べものにならないほど大きく強い。
この北の島国なんて本土の一部なだけで、監視役として本土から遣わされたのが辺境伯だった。
アーネルトン伯は息子たちに自分の仕事を手伝わせて、娘たちは本土の貴族たちに嫁にやった。ユハ・アーネルトンも例外なくそうなるはずだった。
「アストリッド……?」
呼ばれて、アストリッドは自身がぼうっとしていたことに気が付いた。
ユハはアストリッドの憧れの女性である。彼女は
あざやかなセルリアンブルーの目にじっと見つめられると、わけもなくどきどきしてしまう。いつもは元気いっぱいのアストリッドが大人しくなるくらいに。
いや、嫌に大人しくしているのはアストリッドの隣にもいる。金髪のお嬢さま。なるほど、このお嬢さまもまたユハに憧れた一人なのだ。
少女たちの初々しい反応にユハはくすっと笑った。こういったことは日常でよくあるのだろう。
ユハに誘われて、アストリッドたちは螺旋階段をのぼっていく。
備え付けのランプがなくともほんのり明るい。どこから光が入っているのだろうか。外は雪だし、太陽の光なんて届かないはずなのに。
「これも
アストリッドの心を読んだみたいに、ユハはそう言った。
最上階へとたどり着いたアストリッドは、そこへと足を踏み入れるのにちょっと躊躇った。ユハがとんと、アストリッドの肩を押してくれる。入っても良いのだと、そう言っているのだ。
アストリッドはおっかなびっくり進んでいく。円形に広がった部屋の真ん中でたたずんでいる女性こそ、
「お待ちしておりましたわ。ワルキューレたち」
「新たなワルキューレの誕生を、心から嬉しく思います。貴女方に、
アストリッドの額にやわらかいものが触れた。
*
「それでね、すっごく素敵な方だったの!」
この日も医務室にはアストリッドとロキの二人しかいない。
ベッドが空なので、アストリッドはそこに腰掛けている。ここの主に見つかったら怒られそうだけど、今日のアストリッドはすこぶる機嫌が良いのでそんなことは忘れて、足をぷらぷらさせながら語りつづけている。
「ふわふわのストロベリーブロンドの髪、透き通ったアイスブルーの目。ああ、もうどれも素敵! お化粧なんてしているように見えなかったけど、すっごく肌も綺麗だったし睫毛もすっごく長くって。頬はほんのり赤くって、唇も赤いの。でもね、それがすっごく可愛らしくって。わたし、ついじろじろ見てしまったの」
今日のロキは羊皮紙の束とにらめっこしている。
このあいだまで雑然としていた薬品棚は綺麗に片付いているので、今度は書類の整理をしているのだろう。
「でもね、シグ・ルーナはすっごくやさしい人で、目が合うたびににっこり笑ってくれるの。ねっ? 素敵でしょう?」
興奮しきりのアストリッドに、ロキはちょっと苦笑いした。
「よかったな。お茶会にも誘われて」
「そうなの! わたし、誘われるなんて思ってもいなかったから、緊張しちゃって」
「お茶を零してしまった、とか?」
「ううん。さすがにそんなドジはしなかったけど」
アストリッドは小一時間前を思い出す。あれは夢だったのではないかと思うほど、素晴らしい時間だった。
「ユハ様がね、紅茶を淹れてくれたの。びっくりするくらいに美味しかった! それにケーキもタルトも」
「ついつい食べ過ぎた?」
「ちがうの、その逆。緊張し過ぎたせいで、あんまり食べられなかったの」
そのせいで二人には口に合わなかったのかと、余計な気遣いをさせてしまった。
「せめて、一人じゃなかったら、あんなに緊張しなかったかなあ」
「お茶会、断って帰ったんだっけ? もう一人は」
アストリッドはうなずく。儀式が終わったあと、お茶会に招かれたのは金髪のお嬢さまもだった。こんなに光栄なことは二度とないだろう。それなのに、金髪のお嬢さまは固辞してすぐに帰ってしまった。
「まあ、残念だったな。ケーキもタルトも、そのユハって人のお手製なんだろ?」
「うん、そう。あのね、シグ・ルーナって甘いものが大好きなんですって!」
「ふうん。アストリッドと一緒だな」
さすがに
「わたし、シグ・ルーナって、もっと厳しくってお堅い人なんだと、思ってた」
美しく聡明な人だとはきいていた。近所のおばあちゃんたちがいつもそう話していたからだ。
「でも、実際に会ってみるとぜんぜんちがってた。すっごく素敵なふたりだった。おふたりが隣に並ぶとね、まるで夫婦みたいだなあって」
「へえ……」
この国では同性同士の結婚は認められているし、けっしてめずらしくはない。なにしろ、女よりも男の方が圧倒的に数が少ないからだ。
「その例えは合っているよ、アスラちゃん」
いきなり声を掛けられて、アストリッドはベッドから飛び降りた。
「げっ、レム!」
「ずいぶんとお行儀が悪い子だね、アスラちゃん。パパに言いつけるよ?」
いったい、いつのまに帰っていたのだろう。さっきまでのたのしい気分が一気に台無しになってしまった。
「あのね、ここは僕の部屋だよ?」
「知ってるわよ、そんなこと。でも、こんな早く帰って来るなんて、思わなかったんだもん」
「ふふん。それは僕がきみに気を遣ってあげたからだよ」
「もー、そういうとこがイヤっ!」
アストリッドは力任せにレムを殴りつける。うしろでため息が落ちた。ロキだ。
「先生。帰ってきたなら、手伝ってくれ」
「それはきみに任せた仕事だからね」
アストリッドの攻撃なんて痛くも痒くもないといった風に、レムはにやにや笑っている。こういうところが嫌い。ほんと嫌い。
「シグ・ルーナとユハは、本当に愛し合っているからね。だから、僕らがちゃんと守ってあげないと……ね?」
笑いながら両手を掴まれたアストリッドは攻撃手段を失った。となると足しかない。いや、さすがに行儀が悪すぎるか。
「いい? アスラちゃん。ワルキューレはね、
「うん……、わかってるわよ。そんなの」
説教は苦手だ。それも苦手なレムにされるのは余計に。
「よろしい。では、早く帰りなさい。夜は吹雪になりそうだから」
アストリッドはうなずく。吹雪の日には外に出てはいけない。でも、
この国の天候は
彼女を支えるために、
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