誰がママよ
「アストリッド……?」
カップを持ったままぼんやりしていたのだろう。養父にのぞき込まれて、アストリッドは残りのホットチョコレートを流し込んだ。
「疲れているだろう? 今日は早く休みなさい」
「ううん、だいじょうぶ。夕食の準備、しなくっちゃ」
イヴァンのカップも持って、アストリッドは立ちあがった。食事の用意をするのはアストリッドの役割だ。
ところが、台所のドアを開けた途端、アストリッドは固まった。
そうだ。ホットチョコレートで鼻がすっかり甘いにおいになったけれど、台所から他のにおいもしていたのだ。
「おかえり、アスラちゃん」
「なんでいるのよ」
声を掛けられる前から、アストリッドは唇をピクピクさせていた。白髪の男が洗い物をしていたところだった。
「おやあ? ご機嫌ナナメだね、アスラちゃん。ははん、さては負けたな?」
「ちがうわよ。わたし、勝ったから。ちゃんとワルキューレになれたんだから」
「そう思ってさ。ほら、アスラちゃんの好物、作っておいたよ」
じゃがいもとキノコのグラタン、ベリーとマッシュポテトを添えたミートボール、塩漬けのサーモンからはハーブの良い香りがする。
そこへちょうど焼きあがったのはシナモンロールだ。白髪頭がオーブンからパンを取り出す。アストリッドのお腹がぐうと鳴った。
悔しいけど料理上手なんだよね、この人。
アストリッドはどうにかしてこいつを台所から追い出そうと考えたが、目の前のご馳走には負けそうになる。
「なんだ? また喧嘩しているのか、お前たちは」
そこへ養父のイヴァンもやってきた。アストリッドはぶんぶんと頭を振って、白髪頭も目をぱちくりさせた。
「レム。お前もいい歳なんだから、アストリッドを揶揄うな」
そう、この白髪頭はイヴァンの同世代なのだ。
身長はアストリッドよりもちょっと高いくらいで、おまけに顔は童顔。白金色が抜けた白い髪は野暮ったいくらい伸ばしっぱなしで、ときどきイヴァンが切っているのだとか。ルビーレッドの目も合わせて、彼の呼び名は白兎のレム。声さえきかなければ女の子のように可愛らしい顔立ちなのだが、アストリッドはとにかくこの男が苦手なのだった。
「ええ~、僕はべつに揶揄ってなんかないんだけどな。ねえ? アスラちゃん」
アストリッドはべーっと舌を出してやる。だいたい、馴れ馴れしくアスラちゃんなんて呼ぶのはこの男だけである。
「アストリッドも、いちいち相手にしなくていいから。ほら、夕食を作ってもらったんだから。ちゃんとお礼を言いなさい」
「……ドウモアリガトウ」
不本意ながらもアストリッドは養父の言うことに従う。レムはにやにやと笑っている。
「アスラちゃんは、パパを取られて悔しいんだよねえ? ママは悲しいなあ」
「誰がママよ! ふざけないで」
やっぱり礼なんか言うんじゃなかった。レムの性別は一応は男である。しかし男ではなかったとしても、ママなんてアストリッドは認めない。
「はいはい。もういいから。アストリッド、テーブルにフォークとナイフの用意を」
「あ、僕の分はいいからね。ちょうど帰るところだし」
「えっ? そうなのか?」
どう見ても三人前の食事だった。アストリッドはともかく、イヴァンはそのつもりだったのだろう。
「そうだよ。そもそも僕はきみに薬を届けに来ただけだから」
「こんなにたくさん作っておいて?」
「それはアスラちゃんへのご褒美だよ」
イヴァンとアストリッドに向けて、レムはウインクした。
やっぱり、悔しい。アストリッドはふたりにきこえないようにつぶやく。イヴァンやロキも綺麗だけれどレムは格別だ。
「それに今日は泊まっていくつもりもなかったからさ。ロキに仕事を押しつけたままだからね」
それはきっと嘘なのだろう。医務室のロキは片付けに大変そうだったけれど、嫌そうではなかった。
颯爽と去って行くレムのうしろ姿を見送りながら、アストリッドはちくっと胸が痛くなるのを感じた。
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