5-2

 かたを吞んで成りゆきを見守っていた学生たちも、玲奈に関わるのはごめんだと言わんばかりに足早に教室を出ていき始める。

 誰も彼も、玲奈にはひと言もない。でも本当は、この教室にいた学生たちは少しは玲奈に感謝してもいいと湊斗は思う。講師の都合でいきなり休講となったからには、補講は授業料を納めている学生にとって当然の権利だ。それを事務局の職員に確認してくれた玲奈は、本来ならありがたいはずだ。

 だが誰一人、玲奈に声をかける者などいなかった。

 お礼を口にするどころか、こぞって玲奈を避けるように教室を出ていく薄情な学生たち──でもそれは、湊斗も同じだった。

 湊斗には、玲奈に話しかけられる勇気はなかった。

 おそらくこの教室内で玲奈に話しかければ、他の学生たちは驚くだろう。そして玲奈に話しかけたことで、きっと湊斗の方にまで目を向けてくるに違いない。

 湊斗には、それが怖かった。

 大量のテキストなどをカバンにしまってから、玲奈が足早に教室を去っていく。

 何も言えぬままその背を見送ってから、湊斗も席から立ち上がり教室の外へと出た。

 ちょっとだけ自分の情けなさに自己嫌悪しながら、肩を落として廊下を歩く。今日の講義はこれで終わりなので、このままアパートに帰ろうかと思いながら玄関口にまで辿たどり着くと、校舎の外では猛烈な雨が降っていた。

「……しまった」

 そういえば確かに今朝のニュースで、今日の午後からは雨になると気象予報士が言っていたような気がする。

 他の学生たちはちゃんと覚えていたのか、あるいはネットで調べていたのだろう。あらかじめ用意していたビニール傘や折り畳み傘をさして、地面の上で跳ねるほどに大きな雨粒が降っているキャンパス内を、最寄り駅の方面に向かって小走りで駆けていく。

 購買まで走って傘を買いに行こうかとも湊斗は思案するも、今いる文学部棟から購買までの距離はもう正門前の駅までとさして変わらない。どちらに行こうがこの雨の勢いでは下着までれるのはほぼ確実で、先週に風邪で倒れて数日も学校を休まざるを得なかった湊斗としては風邪がぶり返すのだけは勘弁だった。

「まぁ、仕方ないか」

 よって湊斗にとれる残りの手段は、雨が小降りになるのをこの文学部棟の中で待つことだ。昼休みをまるごと使って席を確保したのに休講になり、さらには雨で外に出られず同じ教室でただ過ごすとか、時間の無駄遣いにもほどがあるが致し方ない。

 それでも屋根があるところで時間をつぶせるだけマシだよなと無理に思いながらも、湊斗がきびすを返したところ、

「はい、これ使っていいわよ」

 湊斗のすぐ後ろに、高原玲奈が立っていた。しかも手には女物の折り畳み傘を握っていて、柄の部分を湊斗の方へと向けている。

 話しかけることもできず玲奈を見送った湊斗としては、玲奈側からのいきなりの声かけにフリーズしてしまう。

「困っているようだから貸してあげるって言ってるんだけど……なに? 私みたいな気味の悪い女からは傘も借りられない?」

 目を白黒させて動かなくなった湊斗を前に、玲奈の目が不機嫌そうに細まっていく。

 その冷たい視線にさらされて我に返った湊斗は、慌ててブンブンと首を左右に振った。

「……そんなことはないけど」

「そう、だったらどうぞ」

 湊斗の方へと、玲奈がさらに傘を突き出す。

 自分でも気づかぬうちにごくりとなまつばを吞んでから、玲奈の勢いに負けたように湊斗が傘を受け取った。

 ナイロン地の赤い傘を手にし、でも湊斗はすぐに気がついた。

「でもこの傘を俺が借りたら……」

 玲奈の手には他の傘はない。さらには貸してくれたのが折り畳み傘である以上、もう一本カバンの中に入っているとも考えにくかった。

 湊斗が玄関口へと再び目を向ける。激しい雨足はまだ弱まる気配がなかった。

「あぁ、私はいいの。どうせ、もうすぐ傘なんて必要なくなるから」

 ──どういう意味だろうか?

 湊斗がそう思った瞬間──会話をしている間も、ずっと玲奈の左肩に乗っていた例の女の顔が、いきなり激しくゆがんだ。

 驚き声が出そうになるのを、湊斗はかろうじて抑え込む。

 玲奈にいた女の霊はみるみるもだえ苦しみ始め、そして最初に視たときと同じように空に向かって腕を突き伸ばす。

『あぁ、ああああああああっ!!』

 湊斗にだけ聞こえるその断末魔の声を耳にした次の瞬間、なみなみと水の入ったたらいをひっくり返したような、ザッパーンという激しい水音が辺りに響いた。

 湊斗の目の前で、みずでもしたかのように玲奈の全身が水浸しになっていた。

 外では激しい雨が降り続いているものの、湊斗と玲奈が立っているのは玄関口の中だ。にもかかわらず、コンクリートの床の上に玲奈を中心とした水たまりが広がっていく。

 玲奈の前髪から水が滴っていた。裏サイトに書かれていたように突然に湧いた水は真水ではなく、玲奈の長い髪にはところどころに藻のようなものがついている。レザージャケットのすそからはボタボタと糸のようになって水が垂れ、白かったロングスカートは文字通り濡れ鼠の色となっていた。

「……ほらね。傘なんて不要になったでしょ」

 湊斗に向けて、玲奈がなんとも苦い笑みを浮かべた。

 かける言葉が見つからずに立ち尽くす湊斗の前で、玲奈が踵をめぐらせた。

 そのまま「それじゃ」と玲奈はひと言だけ口にすると、ずぶ濡れになった姿を誤魔化すかのように土砂ぶりの雨の中へと飛び出した。

 傘を差して校内を歩いている学生たちの合間を、傘も差さずに玲奈が駆け抜けていく。中には走ってくるのが高原玲奈と気がついて、逃げるように道を空ける学生もいた。

 激しい雨でかすんだ視界の向こうへ玲奈の姿が消えてから、湊斗はいまさら気がつく。

「……この傘の礼、ちゃんと言わないとだよな」

 あつにとられて「ありがとう」すら言えていなかった自分が、少しだけ恥ずかしい。

 湊斗は借りた傘をまじまじと見る。ふと目に入ったのは、傘を持つ手に着けた時計だった。今の時刻は一三時四五分──思い返せば、一昨日おとといの講義のときに玲奈に憑いた霊が悶え始めたのも、確かこれぐらいの時間のはずだった。

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