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 玲奈のことを知りたい──なんて思っていたからだろう。

 次に玲奈の姿を目にしたとき、湊斗は思わず目をみはり固まってしまった。

 それは玲奈と初めて同じ講義になった日から二日後のことだった。

 やはり三限の講義で、五〇人規模の教室の最後尾の角席を陣取り、湊斗は第二外国語の候補にしているドイツ語の講義が始まるのを待っていた。

 そこに引き戸の大きな音をガラリと立てて、玲奈が教室内に入ってきたのだ。

 教室に一歩踏み入るなり、小さめのレザージャケットにロングスカート姿の玲奈がギロリと教室内をへいげいする。

 それだけで三〇人弱の学生たちがみんな談笑をやめて、いっせいに玲奈から目をらした。

 驚きで反応の遅れた湊斗だけが目を背けそびれ、玲奈と目が合ってしまう。

 瞬間、玲奈は目を細めてから、不快そうにフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 ──たぶん一昨日おとといの比較文化人類学の講義で湊斗と会話したことなど、覚えてもいないのだろう。玲奈にとってじろじろ見られることはたぶん日常茶飯事で、湊斗のことも興味本位で自分を観察してくるじつひとからげの男子の一人としか思っていないはずだ。

 ちなみに玲奈の背中には、先日と変わらずずぶれの女がべったり張りついていた。その様子も変わらずで、もがいてこそいないもののうつろな目で天井を見つめている。

 ──そんな霊を玲奈が憑けているなどとは、誰も知らぬまま。

 玲奈が引き戸を閉めて教室内を歩き始めると、途端に空気がピンと張りつめた。それは自分のほうに来るなよと、誰もが緊張している気配ゆえのものだった。

 あらためて、裏サイトの書き込みの通りだと湊斗は感じる。やはり誰も彼も、玲奈のことを快く思っていない。大教室と違って小さな教室だからか、先日のように陰口こそ飛び交っていないものの、それでも玲奈と関わり合いになることを誰もが言外に拒んでいた。

 針のむしろと称していいような教室の雰囲気の中──しかし玲奈は、いたって涼しい顔だった。湊斗以外の全員が無言で向ける悪意などまるでそよ風とでも言わんばかりに、玲奈は背筋を伸ばし、つんとあごを上げて教室の中をかつする。

 目が合わぬよう誰もが顔を伏せている中で、机と机に囲まれた教室のど真ん中の通路を一人で歩む様はまるで女王だった。

 そして一昨日と同じ黄色のトートバッグを玲奈が置いた席は、最後列の端っこに座る湊斗からはもっとも距離がある、教卓の真ん前の席だった。

 先日の比較文化人類学の講義であれば他に空席はなかったから仕方がない。でもこの講義では、まだ半分近く空席がある。それなのに玲奈が座ったのはもっとも目立ち、周りからの視線も受けることになる席だった。最前列は元から空席も多いので、玲奈と距離をとるために移動するような者も別にいない。

 あえて一番目立つ席に座る理由がわからず、湊斗が遠目から観察をしていると、玲奈が一際分厚い辞書を机の上にゴトリと置いた。他にも教本にノート、それから参考テキストと次々バッグから取り出して積み上げていく。

 その量の多さに、湊斗はちょっとだけ驚いた。

 今日の湊斗はノートしか持ってきていない。第二外国語の講義は選択必修のため、履修変更をする可能性もある今はまだ購入する必要がないからだ。

 だが仮に履修を決めても、湊斗は辞書まで買うつもりはなかった。単純にスマホにドイツ語辞書のアプリを入れ、それで代用するつもりだった。というのも本は重いからだ。特に辞書は重くて荷物になる。講義のときに、いちいち辞書を持ち運びたくはない。

 その考えは他の学生もおおむね同じようだ。教室内のほとんどの学生がノートだけか、あるいはそれすら机の上にはない学生さえいる。

 それなのに玲奈は一番前のもっとも講義を聴きやすい席に座って、テキストと辞書を一人で山のように積み上げている。その姿は、湊斗にはただ真面目に講義を受けようとしているだけに見えた。

 ……玲奈がもっとも目立つ教卓前に座る理由とは、ひょっとして誰よりも真剣に講義を受けようとしているからではないのか?

 湊斗がそんなことを思っていると、教室の前のドアがすーっと開いた。

 ドイツ語の講師が教室に入ってくる──と思いきや、入ってきたのは学生事務局の制服を着た女性職員だった。

「えー、ドイツ語の講義を履修予定のみなさん。さきほど講師の先生から事務局まで連絡がありまして、きゆうきよで申し訳ありませんが本日は休講となります」

 黒い丸眼鏡が特徴的な職員が教壇の上に立って声を張り上げたのとほぼ同時に、一三時半の三限開始を告げるチャイムが鳴った。

 同時に教室内が、ガヤっとざわめいた。無駄足を踏まされぼやく声と、講義が急に自由時間に変わったことに気もそぞろとなった声が半々というところだろう。

 ちなみに角の席を確保するため、昼休みをこの教室で過ごした湊斗としては前者だ。もう少し早く言ってくれよと思いながら筆記具をカバンにしまっていたところ、談笑が始まっていた教室内で、座ったまますっと手を挙げた者がいた。

 玲奈だった。積み上げたテキスト類をまだ机の上に出したまま、玲奈が事務局の女性へと発言の許可を求めるように、真上にピンと右手を伸ばす。

 玲奈のいきなりの挙動に再び教室がしーんとなり、職員も動きが止まる。

 面食らった職員が何も言わないため、玲奈は手を下ろすと勝手に口を開いた。

「本日の休講のことはわかりましたが、補講の予定は決まっていますか?」

 そこまでは想定していなかったのだろう。生真面目なその質問に、職員の目が丸くなった。しかし質問してきた学生の顔をまじまじと確認すると、丸眼鏡の向こうにある目に妙な光が宿る。

「あなた……高原玲奈さんね?」

 脈絡もなく名前を呼ばれ、玲奈のけんしわが寄った。それでも努めて冷静な声で、玲奈が「そうです」と答える。

「あなたに関しては、何人もの教授や講師の先生方から講義妨害をされたとクレームが上がってきています。あなたがいきなり水をかぶって、先生方の貴重な講義に水を差すことを事務局は由々しくとらえています」

 壇上に立った職員が、一番前の席に座る玲奈を鋭い目で見下ろした。

「あなたは自分が何をしているのかちゃんとわかっていますか? これ以上講義妨害を続けるのであれば事務局としても会議にかけて、学校側から正式にあなたに処分を出しますよ。それでもいいんですか?」

 ここぞとばかりに職員がまくし立てるが、しかし玲奈の返答はどこまでも冷静で淡々とした口調だった。

「……すみません。今は私が先に質問をしていたはずなのですが。告知もない突然の休講ですが、補講の予定はないのでしょうか?」

 職員の目が一気にり上がる。そのまま感情にまかせて口を開こうとするが、しかし寸前でかろうじてみ込むと、いっそう強くキッと玲奈をにらみつけた。

「補講の有無に関しては、講師の先生と話をしてから掲示をだします!」

 まるで捨て台詞ぜりふのごとくそう言い捨て、職員はドスドスと大きな足音を立てながら教室を出ていった。

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