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 ──その瞬間、

「……ぶはっ!」

 と、まるで五分ぐらい潜水してから水面に顔を出したかのように、みなは大きく息を吸い込んだ。

 しかし湊斗の肺は空っぽでなかったため、追加で大量の空気を吸い込んだ影響によって膨れた肺が痛み、反射的にき込む。

 ──激しい脳の欲求と、肉体状態のかい

 それは〝びとの夢〟を見た直後にはよくある、湊斗にとって当たり前のことだった。

 同時に自分が講義中に居眠りしていたことを悟った湊斗は、口の中だけで小さく「……やっちまった」とつぶやいた。

 念のため自分の首に手を添えてみて、確かに骨がつながっていることにあんする。

 それから湊斗は自分が誰だったかをしっかり思い出すため、自らの頭の中を整理した。

 そう──今は四月で、湊斗は大学二年生だ。現在は前期における履修の選択期間中であり、とるかとらないかを判断するため試しで上代文学の講義を聴講していた最中となる。現在の時刻は午前一一時手前、二限であるこの講義が始まってからまだ三〇分と経っていない。つまりこの講義がつまらず、湊斗はうたた寝をしてしまったのだ。

 湊斗は、自宅付近の交差点で暴走した乗用車に轢かれけいつい骨折と内臓破裂をしながら路上に倒れている──わけでは決してない。

 さっきのあれは──〝死人の夢〟。

 湊斗が自らそう名付けた、霊の死の瞬間を追体験する夢の出来事に過ぎないのだ。

 ではどうして、そんな夢を見たかといえば、

「ねぇ。三限がなかったらさ、部室でいっしょにお昼を食べようよ」

「……イヤに決まってんだろ。おまえの部室になんか行ったら、人轢いたっていう元彼の先輩もいるんじゃねぇの?」

 湊斗の一つ前の席に座った男女が、小声で耳打ちをし合っていた。

「そんなわけないじゃん。あんな奴、部にいられなくして追い出してやったもの。──っていうかさ、自分で事故を起こしたくせに、人のせいにすんの!」

 講義中にもかかわらず僅かに声を荒らげた女子の右横には、


 首が折れた上に腹から腸を垂らした、小太りの男の霊が立っている。


「あぁ、もうすっごいムカつく。違反を注意しなかった同乗者にも賠償義務が発生するとかさ、弁護士が何言ってようが知るかよって感じだよね。示談にするから保険で足りない分の賠償金を負担しろって言われても、私は少しも悪くないんだから払うわけないじゃん。あいつの顔なんてもう二度と見たくないっ!」

 声のボルテージが上がった女子をきようべんをとっている講師がギロリとにらみ、小太りの男の霊も九〇度の角度になっている顔を女子に近づけていっそうめつける。

 ──湊斗は男の霊に覚えがあった。といっても、自身の網膜で男の姿をたわけではない。あくまでも夢の中でただけのこと。

 もっと正確に言えば男の姿を見たのではなく、前の席の女子にいている男の霊の死の瞬間を追体験してしまったのだ。

 かつだった。湊斗は先週に手ひどい風邪を引いたため、前期に受ける講義を決める大事な履修選択期間中なのに数日にわたって休んでしまった。ゆえに取捨選択する講義を見極めるべく、ここ数日は一限からフルに講義を詰め込んでいた。

 体調もまだ本調子ではなく、加えて講師が念仏のようにテキストを読むだけのこの講義は単調で、ついつい油断してうたた寝してしまったのだ。

 こういうときのため、湊斗は休み時間を全てつぶして教室の一番後ろの角席を確保している。一番後ろの角なら背後に人がくることもなく、横も一方向だけを気にすればいいだけだからだ。最後尾の端の席ならば、霊を憑けた人間が自分の周りにいるかいないかも格段に確認がしやすくなる。

 その考え通りに、湊斗はこの講義でも教室の一番後ろにある角席に陣取っていた。だからこんな目立つ外見の霊を憑けた女が近くにいたらすぐに気がつくのだが……さすがにうたた寝してから遅刻してきた奴には気がつかなかったということだ。

「部室がイヤだったらさ、午後の講義サボろうよ」

 講義の最中なのに、ねこで声を出した女子の手が男子のももの辺りをまさぐる。

 途端に、隣に立つ霊が真横に傾いた顔を憤怒の形相へと変えた。

 その様を見て湊斗も首の折れた男の霊の末期を思い出し、猛烈な首と脇腹の痛みがぶり返す。隣の男子の方を向いた女子の横顔を見ているだけで胃がひっくり返りそうな吐き気が襲ってきて、たまらずにガタンと音を立てて口を押さえながら立ち上がった。

 音に驚いた女子が振り返り、顔を青くして嘔吐えずきそうになっている湊斗を目にすると、きたないものを見るような目つきでけんしわを寄せた。

「……やだ、こんなところで吐かないでよ」

 女子が椅子を引いて湊斗と距離をとる。その動きはしくも、横に立つ男の腹から垂れている腸を踏むような仕草となり、顔を水平に向けた男の霊の表情をいっそう憎悪でゆがませた。

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