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 いよいよ限界を迎えた湊斗は手で口元を覆いながら、教室のドアへと急ぐ。廊下に飛び出ると、そのままトイレに向かって走った。

 走っていてやたらと視界が横にぶれるのは、さっきの夢で見た男の首が折れていたからだろう。あるいは片側から腸がはみ出ていたせいで、身体の左右のバランスが狂っているのかもしれない。どちらにしろまだ脳と心が錯覚していた。

 とにもかくにも講義時間中で無人のトイレに辿たどり着いた湊斗は、個室に入ってかぎをかけるなり、のどもとまでせりあがっていたものを全て吐き出した。

 さらには吐いたものの中に朝食で食べたウィンナーの欠片かけらを見つけ、はみ出した腸を思い出してもう一度吐いた。

「……これだから、〝死人の夢〟を見るのは嫌なんだよ」

 ようやく少しだけ落ち着いた湊斗は、個室のドアに内側からもたれかかりながら、ずるずると座り込んだ。

 そのままタイル張りの床に腰を落とすと、ひざを抱えて胎児のように丸くなる。

 ──湊斗が自身の特異体質を認識したのは、いつのことだったか。

 自分にだけ視えている人がいるらしいと感じたのは、おそらく幼稚園の頃だったと思う。同じクラスの園児たちからは噓つき呼ばわりをされ、先生からはれ物扱いをされて散々だった記憶があった。

 それでも小学生のときはまだ誰かがわかってくれるんじゃないかと、必死に訴えた。

 でも無駄な努力だったので、中学生のときはひたすら視えないふりをした。

 高校生になるとそれにも無理が出てしまい、もうぼっちでいいやと開き直った。

 というのも霊が視えるだけでも十二分に異常な体質なのに、湊斗にはもっと奇怪で奇妙な体質が存在していたからだ。

 それが──〝死人の夢〟。

 できるものなら記憶に留めたくないその夢を見るとき、湊斗は霊の死の瞬間を追体験するはめになってしまう。

〝はめになってしまう〟と表現するのは、それが湊斗の意思などお構いなしに強制的に襲ってくる怪異だからだ。決して見たくて見るのではない。知りたくなくても現実と似た密度で、まざまざと一人の人間の死の瞬間を味わわされてしまう。

 今回の夢のように、ときには引きられて身体に痛みが出ることもある。気がって、半日立つこともままならなくなることだってざらだ。

 しかしそれも当然だろう。なにしろ生きた人が命尽きて無念にも彷徨さまようことになる、死霊となった瞬間を味わう夢なのだから。

 まだ生者である湊斗が、心にダメージを負わずに平然としていられようはずがない。

 その〝死人の夢〟を湊斗が見るときは、必ず二つの条件が重なっている。

 ──一つは死の瞬間の夢を見せる霊が〝人にひようしている霊〟であること。

 ──もう一つは〝その霊に憑依された者の近くで、湊斗自身が眠っている〟こと。

 理由は湊斗自身にもわからない。人に憑依する霊はとかく何か言いたいことがある場合が多いので、近くにいる湊斗の夢を使って自分の死の苦しみを主張してくるのではないかと思っているが、今一つこの理由もに落ちてはいない。

 だが理由はどうあれ二つの条件がみ合ったとき、自らの身に起きたのと同じ生々しさでもって、湊斗が夢の中で他人の死の瞬間を体験することになるのは確かだった。

 ぶり返してきた吐き気のままに、湊斗はたび嘔吐する。さすがに三度目ともなると、もはや胃液しか出なかった。

 胃の中が空となって少し楽になった湊斗は、口元をぬぐいつつ天を仰ぐ。

「……ほんと、人が一番厄介だよな」

 ──同乗した彼氏の車でき殺した男がすぐ隣にいるとも知らずにしれっと他の異性を誘惑する、生きた人。

 ──運転していた彼氏の隣に座っていかがわしいことをしていたのに「私は少しも悪くない」と主張する女を睨み続ける、死んだ人。

 そのどちらのも、湊斗は得意ではなかった。

「とりあえず、上代文学の講義は切りだな」

 湊斗はそう独りごちながら、上代文学が必修科目でなくてよかったと心底から思った。

 あの霊の恨みは相当だ。たぶん憑いた相手から簡単に離れたりはしないだろう。あんな強烈なモノを憑けた女子が受講しかねないのに、眠気を誘発する講義なんてされたら湊斗としてはたまったものじゃない。

 憑かれた女子は霊の存在にまるで気がついていなかったが、あんなのが憑いていて何もないわけがない。いずれは何かしらの影響が、彼女の身にも起きるはずだ。

 憑いた死者の想いが生者に障りを起こす、俗に言う霊障というやつだ。

 とはいえ湊斗にできるのは視ることだけ。

〝死人の夢〟を含め、湊斗には見ることしかできない。

 あれはよくない霊だと感じても、湊斗には霊をのぞける力なんてない。

 だがもし仮に湊斗にそんな力があっても、加害者側なのに怒るだけの女子と、憎しみしか残っていない男の霊と、そのどちらとも関わりたくはないと感じるだろうが。

 ──やっぱり、人はどっちも嫌だよなぁ。

 生者は湊斗の体質のことなど少しもしんしやくしてくれず、死者は自分の存在をわかってくれと夢を通じて湊斗に訴える。

 この体質のつらさをわかってくれる人など生きた人間にも死んだ人間にもいないわけで、世界には自分一人だけがいればいいんだと、湊斗はしみじみ思い直した。

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