彼女の隣で、今夜も死人の夢を見る

竹林七草/角川文庫 キャラクター文芸

1章 彼女の隣で、水死者の夢を見る

    1


 その夜は、確かに酔っていた。だが酔っていたとはいっても、そこそこだ。意識はしっかりしているし、足どりだって問題ない。

 だから、信号を見間違えるはずなどなかった。

 そのとき間違いなく、俺が渡っていた横断歩道の歩行者用信号は青だった。

 にもかかわらず、その車はほとんどスピードを落とさぬまま交差点を左折してきた。ウィンカーも出さぬまま、ショートカットの内回りでもって、狙ったようにまっすぐこっちにやってくる。

 ブレーキ音はなかった。視界は上向いたライトのせいで全て真っ白になり、どちらに動いていいかもわからずに足が止まってしまう。

 ──そして。

 次の瞬間、猛烈な衝撃とともに身体が飛んだ。健康診断ではBMI値の高さを指摘され「せろ」と書かれていたのが噓だと思うほどに、軽々と真横へと飛んでいった。

 最初にアスファルトに着地したのは首だった。首の骨と肩の骨が同時に砕け、続いて背中で滑っている最中に脇腹が破けた。人間は中身の詰まった袋だなんてたとえを昔の小説では良く見かけたけれど、それを実感した。破けた腹から、中に詰まっていた何かが重力に負けてドサリと地面に落ちる。

 不思議と感触はあっても痛みはない。それが自分で思っているよりもずっと多くの酒を飲んでいたせいなのか、はたまた首が折れると同時に神経も切れていたからなのかはわからない。

 でもそのせいで、俺の頭はどこか客観的に自分の身体の状況を把握していた。

 手足はもう動かない。首も動くわけがない。心臓はまだ動いているものの、脈動するたびにボトリ、ボトリと裂けた脇腹から血がこぼれ落ちていく。その度に体温も抜け落ちていき、どこまでも身体が冷たくなっていく。

 あぁ……寒い、寒い。

 もはやピクリともしない首で俺が見上げるのは、自宅からわずか二〇〇メートルの場所の交差点の景色だった。

 ──こんな何の変哲もない場所で、俺は死ぬのか?

 娘はまだ小学校二年生だ。家のローンもまだ二五年は残っている。嫁と娘は、これからどうやって生きていくことになるのか。それを思えば、こんな状況なのに二人のために涙しそうになった。

 もはや目玉すら動かなくなりつつある俺の視界に、一組の男女の顔が映る。男は日に焼けて少し浅黒い肌をしているが、顔色は真っ青だった。激しく唇が震えていて、あごの輪郭がぼやけて見えるのが少しだけ不思議だった。女もまた血の気が引いた顔をしていて、目を潤ませながら首を左右に振り続けていた。どちらも若い。二十歳かそこらの年齢だと思う。

 察するに、この二人が俺を車でいたのだ。

 こいつらが──間もなく俺を殺す、犯人どもだ。

「わ、私は関係ないからねっ! 運転中なのに……あんたが勝手に変なところを触ってきて、勝手に人を轢いただけだからねっ!」

 はだけた肩からずり落ちた下着のひもを直しつつ、女がギャンギャンと自分の無罪を主張する。対して男は声が出ないようで、ただただ俺の惨状を見ながら歯の根をカチカチと鳴らし続けていた。

 ──いいから助けろよっ!

 そう叫ぼうとするも、のどが動かない。ただ口だけが緩慢にパクパクと開いては閉じる感覚があり、その様を目にしたカップルが「ひぃ」と悲鳴を上げてあと退じさった。

 ──助けろ! 助けろ! 助けろっ!

 さっきから、もう寒くて仕方がない。今頃になってから、かすかに痛みも感じ始めてきた。照明の調光を落としたように、視界はどんどんと暗くなっていく。

 二人は俺を介抱するどころか、触れもせずにただがくぜんとし震えているだけだ。サイレンの音も聞こえてこない。救急車を呼んですらいないのだろう。

 きっと、もうすぐ終わる。

 どう考えたって、助けが間に合うはずがない。

 ──頼むよ! 死にたくねぇんだ、おまえら俺を助けろよっ!!

 既に自然と呼吸することをやめた肺を振るわせて、渇望と絶望がぐちゃぐちゃに混じった最後の声をわめこうとする。

 でも無情にも喉が動くことはまったくなく、断末魔どころか泣き声の一つもあげることさえできずに──こうして俺は死んだ。

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