第3話

「are……」


 舌がつんと痺れた。何気ない発音、意味のない発声であり、声がどうなるか試したい、だけのようにも見えまた本当に、「なにかを戻したくて」呟いたようにも感じた。


 ただ舌先が冷え、口内の粘膜の動きはぎこちないとわかっただけであった。それでも一先ず満足したように、歩を進める。


 氷のなかに落ちたように、静かで真昼だというのにどこか暗く仄白い空間、通りすがりに机に触れれば氷のように冷たかった。


 確かに彼女はここにいた。



 本当はあの時、わたしはキスすべきだったのだ。一緒に行ってあげられない自己嫌悪で彼女と平行線下の床を見つめているのではなく……

 遠く焦がれるような自責の念に揺られているくらいなら……



「ルクセンブルクの空はどんな色かな」


 彼女は言った。そこってどこなのと尋ねると「知らない」と返ってきた。知らないところだと、そしてだからこそ行きたいのだと、


「知らないところの空は、知らない色をしてるのかな」


 そう言うとすっと目を閉じた。白いまぶたに青の静脈がうっすらと浮いていた。

 一緒に見に行こう、と言えなかった。のどの奥でつっかえて胸を圧して苦しくてただ彼女のアーチ状のまつげを、薄い雨の日のさくら色、所々噛まれて梅色に変じた唇を、顔の中心を白い滝のようにすっと通る鼻筋を、遠くの窓越しに重ねて見ていた。吹奏楽部の誰かがたてたfaという間の抜けた練習の音が耳に届いた。

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