9.蛸の煮物と大津波

 慌ただしくバンリが動き出したのは、神社にお守りを届けた数日後のことだった。

 朝ご飯に触手の煮物を食べていたマリは、急いで食べ終えてバンリが篭った祈祷を行う部屋に向かった。最初の頃にここには入ってはいけないと言われていたので、入り口前の廊下に立つ。

 祈祷を行う部屋から出て来たバンリを廊下で待っていたマリは、バンリに問いかけた。


「何か起きたのですか?」

『ここから遠い場所で海底地震が起きた。その反動で津波が港町に迫っている』

「津波ですか!?」


 津波というものをよく知らないマリは、バンリの様子にそれが危ないものだとは理解できたが、細かなところはよく分かっていない。


『津波とは、高い波が来て海沿いの町を飲み込んでしまうものだよ』

「港町が危険なのではないですか!?」

『そうなんだ』


 時間に猶予はないと海に出る準備をしているバンリに、マリは触手を包む着物の袖を引いた。


「わたしも連れて行ってください」

『危険だよ。マリをそんな場所に連れていけない』

「わたしだけ安全な場所にいることはできません。バンリ様は仰ったでしょう? わたしの魔力が花咲く日が来ると」


 マリの魔力は守護に傾いているようなのはぬいぐるみ作りや小物作り、着物を縫うことや刺繍で分かっていた。バンリの力にマリの力が上乗せすれば、港町を守れるのではないだろうか。


『私一人で十分だよ』

「それならばそんなに慌ててはいないでしょう。バンリ様は津波を止める代わりに、自分が傷付くことも顧みないおつもりではないのですか?」


 わたしはバンリ様の花嫁です。バンリ様を守りたいのです。


 必死に取り縋って言えば、バンリの体から力が抜けた気がした。


『マリには敵わないね。一緒に来てくれる?』

「はい! 行きます!」


 空気の泡に包まれてマリは万里と共に水面に出た。

 水面に出るとバンリは触手を大きく広げて巨大な姿になる。マリは触手に乗せられてまだ静けさのある海面を見詰めていた。


「水神様が海に現れている!」

「花嫁もご一緒だ!」


 海に船を出していた漁師たちが急に現れたバンリに驚いて声を上げている。


『これから大津波が来る。漁師たちは海から上がって、町の者は高台に逃げなさい』

「大津波だって!?」

「水神様が大津波を起こすのか!?」


 港町を守るためにバンリは姿を現したはずなのに、バンリが大津波を起こすと漁師たちは誤解している。

 触手に乗せられて海の上に立っているマリは声を張り上げた。


「水神様は大津波を起こしたりしない! 嵐を起こしたことも、海を荒らしたことも、大雨を降らせたこともない!」

「そんなの信じられるか!」

「生贄を捧げれば荒れた海も、大雨も収まっていたぞ!」

「水神様はこの土地に来る台風という大風と大雨をもたらす気象現象を抑えてくれていたのよ! 台風というものは通り過ぎると大風と大雨がなくなるから、あなたたちはそれを水神様の怒りが鎮まったと勘違いしていたんだわ!」


 必死に声を出すマリに船の上の漁師たちがマリを見上げている。

 こんな大きな声を出したことはなかったので、マリは自分が震えているのに気付いていた。それも恐怖からくる震えではなくて、怒りから来る震えだ。


 バンリはいつも港町のことを考えて、港町を守護していた。


「神社の神主様が仰っていた。水神様は邪悪なものではないと」


 一人の漁師が神社の神主様のことを口にして、漁師たちに動揺が走る。


『私が悪かどうかはどうでもいい。早く逃げなさい。間に合わなくなってしまう』

「水神様はどうするんですか?」

『私と花嫁はできる限り津波の被害が少ないように波を抑える。それでも万が一のことがあってはいけないから、港町の者たちは高台に逃げるように言うのだ』


 こんなときでさえバンリは優しかった。

 バンリに促されて漁師の船が港に戻って行く。


「船がなくなったら俺たちは暮らしが成り立ちません。どうか、津波を抑えてください」

『分かっているよ。君たちは私が守る』


 こんなときだけ都合よく縋ってくる漁師にマリは呆れてしまったが、バンリはどこまでも善良な港町の守り神だった。


 遠くの波が盛り上がっているのが分かって、津波が近付いて来ているのをマリも感じる。バンリはマリが乗っていない触手を前に突き出して、津波を触手で抑えるような格好に入った。

 マリは手を組み祈る。

 マリの魔力がどれくらいまで役に立つのかは分からない。

 それでもバンリの力の足しにでもなればいい。


『波に波をぶつけて相殺しようと思っているが、広範囲過ぎて難しいかもしれない』

「港町にお屋敷にかけていたような空気の膜を張るのはどうですか?」

『結界を作るのだね。悪くないかもしれない』


 しゅるしゅると触手を伸ばしてバンリが港町に結界を張っているのが分かる。

 手を組み合わせて祈りの形にして、マリはその結界がより強くなるように祈った。


 津波は迫っている。

 港町の海沿いの船が止められている港も含めて全部を覆ってしまって守ろうとするバンリ。

 バンリの結界に更に力を注ぎ込むマリ。


 高くうねる波が港町を飲み込むように覆い被さった瞬間、結界に当たって津波は泡となって消えていく。

 その様子を高台に避難していた港町のひとたちの全てが見ていた。


「水神様が助けてくれた……」

「津波が泡となって消えていった」


 港町の人々の声が響く中、マリはバンリの触手の上で座り込んでいた。

 結界に魔力を注ぎ込み過ぎて立てなくなっていたのだ。


『マリ!? 大丈夫かい?』

「安心して気が抜けただけです。大丈夫……です……」


 大丈夫だと見せようと立とうとしたマリは触手の上に座り込んでしまう。座り込んだまま動けないマリをバンリが触手で包み込む。


『マリのおかげで港町は守られたよ。マリ、ありがとう』

「バンリ様……」


 触手に抱き締められるようにしてマリはそのまま意識を失っていた。


 気が付けばマリは神社に連れて来られていた。

 神社の布団で寝かされているマリを、バンリが触手の絡まった着物を着た姿に戻って、心配そうに覗き込んでいる。

 バンリに捧げられて、水神様の巫女となった少女がマリのそばに来てマリの着物を浴衣に着替えさせてくれていたようだ。マリが体を起こすと、触手に絡み付かれて抱き締められる。


『マリ、よかった。意識が戻ったんだね』

「バンリ様、海から出てよかったのですか?」

『港町の者たちはもう私を邪神とは思っていないよ。津波から港町を守ったのを見て、心を入れ替えて私を真っ当な水神として崇めると誓ったようだ』


 心を入れ替えたのもバンリが津波を防ぐだけの力を持っているから、恐ろしかっただけに過ぎないのだろうが、それにしても、これ以上バンリの名が貶められることはないと分かるとマリは安堵する。


 触手に包まれて抱き締められているマリは、バンリに抱き付き返した。


「わたし、お役に立てたでしょうか?」

『マリの力がなければあの大きな津波は防げなかった。マリがいてくれてよかった。マリが私の花嫁でよかった』


 抱き合うマリとバンリを遠巻きに見ている少女だが、その目にもう嫌悪感がないことにマリは気付いていた。


「本当に水神様だったのですね……わたくし、失礼なことをたくさんしてしまった……」

『気にすることはないよ。私はマリと一緒にいられて幸せだし、君はそこで幸せになればいい』

「わたくしを助けてくれたのも、本当でしたのね……姿が恐ろしいからと気味悪がってごめんなさい」


 謝る少女をバンリは快く許していた。


『水神を祀るために、港町の者たちが祭りを開いてくれるそうだよ。そこで、私とマリの正式な祝言を挙げないか?』

「もうわたしはバンリ様の花嫁ですよ」

『私とマリはまだ祝言を挙げていない。遅くなったけれど、祝言の挙げ直しということでどうだろう?』


 マリの花嫁姿をきちんと見たい。


 バンリにそう言われてしまうと、マリは断るわけにはいかなくなってしまった。

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