6.悩ましき蛸の唐揚げ

 マリの生活に変化が訪れたのは、秋の終わりに差し掛かった頃だった。

 その年は夏から秋にかけて訪れた台風のせいで、米の収穫量も少なく、海も荒れることが多かった。

 そのために二人目の生贄が海に落とされたのだ。


 美しい着物で着飾った少女はマリと同年代だった。

 船から突き落とされてきたためにびしょ濡れの彼女をバンリが空気の層の中にあるお屋敷に保護すると、少女は悲鳴を上げたのだ。


「いやあああ! 化け物! 汚らわしい! 触らないで!」


 その対応にバンリは慣れているようで、触手が少女に触れないようにしながら距離を取った。


『触れないから、落ち着いて聞いて欲しい。私は君を食べたり、危害を加えるつもりはない』

「その触手でわたくしにいやらしいことをするつもりなんでしょう! 近寄らないで!」

『そういう趣味もないよ。君のことはちゃんと陸に返してあげる』

「家族はわたくしを売ったのよ! 帰れるわけがないでしょう!」

『家族とはもう会えないかもしれないけれど、どこか遠い土地に逃がしてあげるよ』

「そんなことを言ってわたくしを油断させて、いやらしいことをするつもりなんだわ!」


 我が身を嘆いて泣いている少女にマリが近寄る。マリを見て少女は驚きに目を見開いた。


「あなたも捕らわれの身なの?」

「わたしは、水神様のお嫁さんなのよ」

「こんな得体のしれない生き物の嫁になっているの!?」


 完全に同情しきった憐れみを込めた目で見られて、マリは心外だった。バンリは優しくてマリに名前も居場所もくれた。姿は確かに人間とは違うが、マリにとっては人間の方がずっとバンリよりも怖かった。


「びしょ濡れだよ。まずお風呂に入って、着物を着換えましょう?」

「自分の代わりにあの化け物にわたくしを売り渡すつもりじゃないでしょうね?」

「わたしはあの方のお嫁さんでいたいの。あなたにはさっさと陸に帰って欲しいと思ってるくらいだよ」


 正直な気持ちを伝えれば、少女は目を丸くしている。


「本当に……?」

「本当よ」


 半信半疑ながらお風呂に入った少女が着替えて出て来たのを見て、マリは劣等感を覚えた。同年代ながら、少女は色が白くて、睫毛が長くて、唇がぽってりとしてとても美しい。家事をしたことのない白魚のような手をしていた。


 晩ご飯にバンリが千切ってくれた触手を唐揚げにしながら、マリはため息をつく。

 このお屋敷に来てマリは健康的になったが、肌の色は以前のままでそれなりに日に焼けていて、体付きも年相応になったとはいえ痩せて胸などないに等しかった。


「わたくしは武家の娘なのよ。主が打ち取られて、屋敷からは追い出されて、奉公先がなくて、わたくしは花街に売られる予定だったの」


 花街に売られる予定だったが、港町のひとたちが金を出し合って、美しい若い女性を水神に捧げれば、来年こそは実りを約束してくれるだろうと海に沈められたのだと少女は語った。

 気位が高くて、マリが料理をしていても手伝う素振りも見せず、出された料理を当然のように食べ始める少女の皿に、マリは触手の唐揚げを分けなかった。


「わたくしの食事はご飯と野菜とお汁だけなの? お前は何を食べているの?」

「あなたは嫌がると思って」

「わたくしにも食べさせなさい!」

「これは、水神様の触手だよ? いいの?」

「お前、そんなものを食べているの!? 汚らわしい!」


 意地悪のつもりでマリが言えば、少女は案の定バンリの触手を嫌がって食べようとしなかった。

 マリは下味をつけて唐揚げにした触手をたっぷりと食べる。コリコリとして味がしっかりとついていてとても美味しい。柑橘類を絞って食べるとさっぱりとして更に美味しい。


 美味しそうにマリが触手の唐揚げを食べているのを、少女は気味悪そうに見て、ご飯と味噌汁だけ食べて、野菜にも手を付けなかった。


『明日になったら私の知り合いのいる土地に連れて行ってあげるから、今日はこの屋敷で休みなさい』


 少女が怖がるので夕食のときも顔を出さなかったバンリが扉越しに声をかける。少女はバンリが来るのが怖いのか、マリから離れなかった。


「あの触手で何かされるんじゃないかと思うと気が気じゃなくて眠れないわ。お前が見張りをしなさい」

「わたしは自分のお布団で寝るよ」

「わたくしに布団を譲るのは当然でしょう?」


 押し切られてしまって、マリは仕方なく床で寝る。少女はマリの布団に入ると、すやすやと寝息を立て始めた。

 眠っている少女の顔をマリは覗き込む。


 大きな目は瞑っていて長い睫毛が伏せられている。肌は白く、頬はあどけなさをまだ若干残すように丸く、唇はぽってりとして赤い。

 高貴な印象すらある少女の顔に、マリは自分の頬に手をやる。もう頬はこけていないが、丸くはなく唇も色が薄くてマリは髪が短ければ少年と間違われるような姿をしていた。


 ちくちくとマリの胸が痛む。


 こんな風に美しければバンリの花嫁として胸を張っていられたのかもしれないが、マリは華やかさとは無縁の顔立ちをしていた。


 翌朝、バンリが朝食の用意をしているマリにお願いしてきた。少女はまだマリの部屋で眠っている。


『あの子を陸地に送ってあげたいんだけど、私が触ると嫌がりそうだから、マリに手伝ってもらえないかな?』

「何をすればいいですか?」

『私がマリの手を握って、マリがあの子の手を握って、一緒に来て欲しいんだ』

「それくらいだったら喜んでさせてもらいます」

『港町のひとたちも、生贄はいらないって分かってくれると嬉しいんだけどね』


 困り果てた様子のバンリに、マリは解決策を思い付いた。

 バンリにそれを提案してみる。


「あの子を港町に返せばいいんじゃないですか?」

『港町に返すと、もう一度売られるか、海にまた鎮められるだけだよ?』

「水神様の命令で、以後は大事にするように言えばいいんじゃないでしょうか?」

『でも、それじゃ根本的な解決になってないよね?』


 触手の絡み合った首に当たる場所を傾げるバンリにマリは更に言う。


「そのときに、バンリ様はわたしを連れて行ってくれて、『自分の嫁は既にいるからもういらない』と宣言されればよいのでは?」


 これはマリにとってもバンリにとっても利益のあることだった。

 バンリはもう不幸な女性を海に沈めて来られたくない。

 マリはバンリの花嫁として認められたい。


 バンリが港町のひとたちの前に姿を現して、落とされた少女を返し、すでに嫁がいるのでもういらないことを示せば、港町のひとたちももう女性を沈めてはこないだろう。


『それは、私に都合がよすぎないかな?』

「わたしはバンリ様の花嫁です。それを宣言されたところで、何も変わりません」

『君を縛ってしまうことになる。君は本格的に陸に帰れなくなるんだよ?』

「陸に帰りたいと思ったことは一度もありません。バンリ様のおそばに一生いさせてください」


 少女を返すときにマリを連れて行くかどうか、バンリは悩んでいるようだった。

 マリは何度も確認された。


『マリはそれでいいの? このお屋敷で捕らわれて一生を過ごすことになってもいいの?』

「捕らわれてなどいません。バンリ様はわたしに自由に好きなことをさせてくれるし、買い物にも連れて行ってくれる。少しも不自由なことはありません」

『今はいいかもしれない。マリがもっと大人になったときに後悔するかもしれによ?』

「後悔することはないと思います。わたしはバンリ様が好きです」


 真正面からはっきりと告白するとバンリが困っているのが分かる。


『これまでの子たちはみんな、あんな反応だったんだよ。あれが普通と思っていた。最初怖がっていても、後から打ち解けてくれる子はいたけど、マリみたいな子は初めてだ』

「もう子どもではありませんよ。十六歳はお嫁に行ってもいい年です」


 この世界では女性も男性も十六歳くらいから自分で働きだして、一人前と認められる。結婚するのもそれくらいの年齢からだった。

 十六歳になったのだからマリもバンリに花嫁と認めてもらっていいはずだと考えていた。

 マリの中ではとっくの昔にバンリの花嫁になったつもりだった。


『マリを利用するようで気が引けるな……』

「わたしがバンリ様の花嫁なのは事実なのですから、いいではないですか」

『マリは変わっているね』


 それが嫌なことではないように、バンリがマリに笑いかけたような気がした。実際には顔の辺りで絡まる触手が蠢いただけだったが。

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