5.初めての買い物は蛸のマリネ

 商人のところに行く前にマリは和布の端切れでぬいぐるみを作っていた。

 丸い頭に触手の足を付けて、蛸のぬいぐるみも作る。

 狐のぬいぐるみ、犬のぬいぐるみ、猫のぬいぐるみとマリの作ったぬいぐるみは大量になっていた。


「バンリ様、これをもらってください。色々作ってみました」

『狐と犬と猫……それに、これは私かな?』

「バンリ様を作ってみました。頭の部分が巾着になっているので、小物入れとしても使ってください」

『嬉しいな。マリには私がこんなに可愛く見えているんだね』


 蛸のぬいぐるみを触手で持つバンリはにこにことしてとても嬉しそうだった。

 バンリの部屋は寝台が置いてあるのだが、そこにぬいぐるみを乗せて、囲まれて眠っているのを見ると、マリも嬉しくなってしまう。

 触手で一個一個向きを整えて、バンリはぬいぐるみをとても大事にしてくれた。


 商人の店に行く日は、バンリがマリの手を引いてくれた。

 お屋敷を包み込む空気の膜を抜けると、マリの体を新しい空気の膜が包み込んで着物も体も髪も濡れないようにしてくれる。

 地上に出たバンリは着物を頭から被り、触手をできるだけ短くして姿を隠していた。


 地上には小雨が降っていた。

 バンリに守られてマリは濡れなかったが、商人の店に行くと戸の前に「本日休業」の看板が掛けられていた。それを無視してバンリが店の戸を開く。


「急に天気雨が降り出したので、来られると思っていましたよ」

『いつもすまないね。ありがとう』

「天気雨は水神様が訪れる先触れですからね祖母からも、父からも言われています」


 来るときには天気雨を降らせるのが合図になっているらしい。

 そうでなければ他の客と鉢合わせして、バンリが恐れられてしまうだろう。

 合図に従って商人は今日は臨時休業にしてバンリを待っていたようだ。


『私のところに捧げられた子が、素晴らしいものを作るだろう? 新作があるんだよ。買い取りをしてくれるかな?』


 風呂敷包みをバンリが解いて見せると、商人は中に入っているマリの縫ったものを鑑定していく。


「このぬいぐるみには守護の術がかかっていますね。こっちの着物にも強い守護の術がかかっている。お高く買い取らせてもらいますよ」

『それで、この子の欲しいものを売ってあげてくれるかな?』

「分かりました。どうぞ、店内を見ていってください」


 店内をマリが見せてもらうと、異国の本や布や小物がたくさんある。

 美しい模様の描かれた異国の取っ手付きの湯飲みを手にしていると、商人がマリに説明してくれる。


「それはティーカップという異国でお茶を飲むときに使うものです。下に敷いてあるのがソーサーというティーカップを乗せる皿です」

「ティーカップとソーサー……異国のお茶もありますか?」

「紅茶がありますよ。ティーポットで三分くらい蒸らして淹れるのが普通です」

「異国のお茶の淹れ方や、料理の仕方の本がありますか?」

「たくさんありますよ」


 ティーカップはバンリとお揃いのものが欲しくて、綺麗な水色のティーカップとソーサーの組み合わせを二組買う。その他にも異国の料理の本や異国の調味料などをマリは買えるだけ買った。


 大荷物になっている買ったものを、バンリは自分で買った野菜類と一緒に全部持ってくれた。


 海まで歩いて行って、海の中に入ると、また空気の膜が優しくマリを包み込む。

 お屋敷に戻ると、バンリはマリに触手を一本千切ってくれた。


『料理の仕方も増えたんじゃないかな?』

「料理の本なのですが、わたしは字が読めないのです。バンリ様が教えてくれますか?」


 魔力を持つ家庭で育ちはしたものの、マリは虐待されていたので文字を習う余裕がなかった。簡単な平仮名程度なら読めるのだが、難しい漢字になると全然読めない。


『私でよければ文字を教えるし、文字を覚えられるように本も貸すよ』

「ありがとうございます。これは何と書いてあるのですか?」

『蛸のマリネ、だね。蛸の刺身をオリーブオイルという異国の油と柑橘類と塩と胡椒で味を付けて、野菜と一緒に食べるものだよ』

「これは?」

『みじん切りと書いてあるね』


 バンリが読んでくれる通りに、触手を塩もみして茹でて薄切りにして、刻んだ胡瓜やトマトと一緒にして、オリーブオイルと柑橘類と塩と胡椒で味付けしたものを洗ってざく切りにしたレタスに乗せていただく。


 ぷりぷりの蛸の食感に初めて食べるオリーブオイルの香りと味に柑橘類の酸っぱさがよく合ってとても美味しい。

 味噌汁とご飯と触手のマリネでマリは夕食を終えた。


「わたし、初めて自分のものを買いました」

『マリがここにいる限り、マリのものを増やしていっていいんだからね』

「バンリ様とお揃いです」


 ティーポットも買っていたので、お湯を沸かして、紅茶の茶葉を入れて十分に蒸らしてからティーカップに紅茶を注ぐと、マリはティーカップの一つをバンリに差し出した。


『私のためにお金を使うことはなかったのに。マリの気持ちは嬉しいから受け取るけど』


 ティーカップを受け取ってバンリが触手の絡み合ったあたりにティーカップを持って行っている。どこが口なのか分からないけれど、飲めてはいるようだ。


 マリも熱い紅茶を吹き冷ましながら飲んでいた。


「まだ台風というのは来ているのですか?」

『台風には季節があるんだ。夏の始めから秋の始めまでしか来ないんだよ』

「陸はもう秋ですか?」

『秋の中頃になったから、もう台風は来ないかな』


 輿に入れられてマリが沈められたのは夏の日だった。それからこんなに月日が経っている。

 バンリの元に来てからマリは肌艶がよくなって年相応の娘に見えるようになっていた。


「秋……わたし、十六になります」

『マリは秋がお誕生日だったの!?』

「多分そうです。秋ごろから家のひとがわたしの年を一つ上に言うようになるので」


 自分の誕生日がいつなのかマリははっきりと知らなかった。

 家族がマリの年齢を一つ上げて言うようになるのが秋ごろだから、秋が誕生日なのだろうと勝手に思っていたが、それも定かではない。

 マリにとっては誕生日はどうでもいいことだったが、バンリにとっては違うようだ。


『マリのお誕生日をお祝いしないと。マリは何が欲しい? 何が食べたい?』

「何もいりません。このお屋敷で暮らせるだけでとても幸せです」


 こんなにも親切なバンリがいて、毎日好きなものを自分の分だけ作ればよくて、洗濯も掃除も自分の必要なだけすればいい。

 風呂はバンリが用意してくれていてそこに入るだけで掃除もしなくていい。


 家にいた頃に比べれば破格の生活であったし、何よりもバンリに大事にされていることが感じられてマリはそれだけで幸せだった。


『欲のないことを言わないで。着物が欲しいとか、簪が欲しいとか、何かないの?』

「特にありません。贅沢すぎる生活をさせてもらっていますので」


 何も望まなければ、バンリはしばらく考えていたようだ。


 次の日にバンリはマリに赤い珊瑚の玉が付いた簪をくれた。


『マリの髪は長くて綺麗だから、この簪で留めるといいよ』

「綺麗……。ありがとうございます」


 赤く艶のある珊瑚の玉は大きく美しい。

 海の中の宝石ということで、バンリに守られているような気がしてマリは嬉しかった。


『買い物にも望むならいつでも連れて行ってあげるよ。マリは欲しいものを我慢したりしなくていいからね』

「欲しいものはそんなにありません」


 料理の本や調味料や食材は興味があるので欲しいと思うが、それ以外の身を飾るものなどマリは必要だと思っていなかった。

 珊瑚の丸い玉のついた簪で髪を纏めると、バンリの存在をより身近に感じられる。


 それから毎日、マリはバンリのくれた簪で髪を纏めるようになった。

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