第33話 図鑑

「亮兄ちゃーん」


 ドアの前で声を掛けるけれど、返事はない。


「開けるよー」


 さっきより少し大きな声で呼び掛けるけれども、やっぱり返事はない。ゆっくりとドアを引いてそーっと中を覗く。亮兄ちゃんは椅子に座って勉強机に足を乗せたまま、振り返るようにこっちを見ていた。


「なんだよ亮兄ちゃん、部屋にいたなら返事してよ」


 亮兄ちゃんは、開きかけた口を閉じると机の方を向いてしまった。


「入るよ?」


 聞こえているはずなのに、さっきみたいに返事をしてくれない。


「だめなの?」


 首をぽりぽりと掻くだけで、いいのかダメなのか答えてくれない。


「どっち?」 おい、亮。「仲間だろ」


 首の後ろを掻いていた手が止まる。


「仲間だったら、目が合った時にどっちか分かるだろ」


 僕はドアノブから手を離す。


「おじゃましまーす」


 僕は仙人じゃないから、目を見ただけじゃ何を言いたいのか分からないんだよ。


 ドアが閉まる音がする。

 亮兄ちゃんは何も言わない。なんとなく歩き出せないから、部屋を見渡す。


 本棚が一つ増えていた。


 立ち止まっているのも違うのかなと思って、僕は机の横にあるベットに座った。

 前に来た時と同じで懐かしい景色だけれど、亮兄ちゃんはこっちを向いてくれない。


「なんだよ?」

「なんだよって?」

「だから、なんだよ」


 それが分からないから聞いているのに。


「なんだよはこっちのセリフだよ、置いていかないでよ」

「あのまま居間にいて、子供騙し見てればよかっただろ」


 もお。


「食べ終わったらゲームする約束じゃん。それなら一緒に行こうよ」

「あー、やんたやんた」


 亮兄ちゃんは手首を振る。


「なんで?」

「きっと今頃は輪ゴムで何かやってるぞ。そんなの見飽きて面白くもねえ。お前はさっきみたいに煽てに行けよ」

「えぇー、そんな風に言わなくてもいいじゃん。一緒に行こうよ」

「行かね」


 亮兄ちゃんは腕を組む。

 ご飯の前まではあんなに楽しそうにしてたのに、どうしちゃったんだろう。


「もう少ししたら、すごい仙術を見せてくれるんじゃないの?」


 亮兄ちゃんは顔だけをこっちに向ける。


「もう打ち止めだ、あれでおしまい。他にはねえ」

「えっ!仙術ってあれで終わりなの?」


 僕の問いかけにこくりと頷く。


「終わり、終わり」


 諭すように言ってくる。

 そんなわけがない。


「だって仙術だよ?」

「仙術、仙術ってうるせーな」


 亮兄ちゃんは頭をポリポリと掻く。


「そんなの単なる言い方だ。手品にもなるし、マジックにもなる。昔、映画を観に行ったあとはヘンテコな呪文を唱えてだぞ」

「そんなぁ」


 亮兄ちゃんは机から足を下ろす。


「そんなもなにも、仙術って聞いて勘違いしたのはそっちだろ。俺が子供騙しって言ったのによ」


 慣れない姿勢をしていたからか、亮兄ちゃんは背伸びをする。


 一体どういうことだ?


「おじちゃん、自分のこと仙人だって言ってたじゃん」

「仙人なんているわけねえ。例えいたといても晴喜は絶対に違う」

「えっ!?」

「えって、まさか冗談を信じてる訳じゃねえよな」


 えっ?冗談?…どういうことだ。


「まさかー」少しだけど顔が引き攣ってしまう。「でも、本当に違うの?」

「違うに決まってるだろ」


 鏡がないからどんなのかは分からないけれど、ほっぺたは突っ張るし眉間に変な力が入ってたから、すごく変な顔をしていたんだと思う。亮兄ちゃんは「トウ」とチョップをしてきた。


 あっちゃんやりやがったな。


「じゃあ、『大地のドラ』は?」

「何だそれ?」


 嘘だ。


「カブトムシを大量に捕まえる必殺技!」


 亮兄ちゃん、お願いだからこれだけは嘘じゃないって言って。


「は?聞いたことねえ。なんだそれ?」


 亮兄ちゃんは眉間に皺を寄せたまま、こっちを見ている。

 ダメだった。


「それに、カブトムシなんて必殺技を使わなくても簡単に捕まえられるだろ」


 亮兄ちゃんは窓を見つめる。


「いねえか。電気を点けてればカブトムシなら飛んでくるぞ」

「えっ?」


 話の展開が急すぎる。


 おじちゃんが仙人らしいから探りを入れたら本物で、仙術を見せてくれた。でも仙術は手品だけで、大地のドラなんてない。それどころか、おじちゃんはやっぱり仙人じゃない。

「窓に当たる音がして羽音がブゥーンならカブトムシで、ブーンならカナブンだ」

 そして、カブトムシは必殺技なんて使わなくても簡単に捕まえられる。

 なにがなんだか分からない。でもカブトムシはいるらしい。いや、いて当たり前か。


「それよりさ、お前って日和ちゃんにいつもああなの?」


 話が変わっちゃった。

 この問題はあとにしよう。


「いつもって?」

「日和ちゃんが失敗した時に、晴喜の冗談に乗っただろ?」

「冗談って仙人だって言ったやつ?」


 亮兄ちゃんは何回か頷く。


「あれってさ、やっぱり妹が困ってるから助けなきゃって思ったりすんの?俺、一人っ子だから気になってさ」

「そんなつもりはなかったけど…」

「いやいや。あんな下手くそな演技してたら、誰だって気が付くだろ。お前がああやって煽てるから、あいつもそれで調子に乗ってさ。嫌いだわー」


 えっと、亮兄ちゃん勘違いしてる。


「だから、そんなつもりじゃなかったんだって」


 亮兄ちゃんは僕の顔を見つめる。


「あー武史とおんなじだ。あいつも妹のこと好きなくせに嫌いって言う。兄妹ってのはそんなもんなのかなぁ」


 亮兄ちゃんは良いように考えてくれている。これってラッキーっていえるのかな?日和のためにやったわけじゃないから、なんか違う気がする。良い事をして褒められたら気持ちがいいのに、これはなぜだかモヤモヤする。


 日和は変なヤツだ。

 自分勝手に生きているから、それを相手にするこっちは疲れてしまう。でも、不思議と周りを笑わせる。だから好きってわけじゃないけど、決して嫌いじゃない。普通だ、普通。

 でも、これ以上何かを言われるのは嫌だな。


「そうだ!」

「なんだよ?」

「あれって新しく出た昆虫図鑑でしょ?」


 僕は新しい方の本棚を指差す。

 亮兄ちゃんはニヤリと笑う。


「いいだろ?」

「うん」


 亮兄ちゃんと目が合う。すかさず僕は本棚に向かって飛び出す。

 そして、図鑑を手に持って戻ってくる。


「何から見る?」

「うーん、やっぱりカブト」

「いや、新種からだろ」


 僕たちはおでこを擦り合わせるようにして、膝の上にある図鑑を覗き込んだ。



 最後に亮兄ちゃん。否定してる時の言い方が、嫌いなはずのおじちゃんと一緒だよ。

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夏の思い出 @touno-tokimatu

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