第34話 朝の出来事
朝早く目が覚めた。
家の中は静まり返っていてまだ誰も起きていないみたいだった。何度か寝返りをうって二度寝を試みたけれど、眠れそうにない。
日和とお母さんを起こさないようにそーっと布団から抜け出す。物音を立てないように廊下を歩いて、パジャマ姿のままでサンダルに足を通す。大人用だから僕には少し大きい。
カラカラと玄関のドアを開ける。
夜を越した澄んだ空気がスーッと入り込んでくる。湿り気を帯びているのに、蒸すというよりもヒンヤリとしていて気持ちいい。
外に出てから辺りを見渡すと、遠くの山は靄がかかっていた。
近くの家で飼っている鶏の元気な声と空を飛ぶカラスの鳴き声の他に、遠くから聞き慣れない野鳥の声が聞こえてきた。
ぐっと背伸びをして朝の探検に出かける。
田んぼの中を通っている低い電線に見たこともない数のトンボが羽を下ろして休んでいる。あそこにもそこにも、隣の隣の、またその隣にある田んぼの電線の上にも。目に見える範囲の電線の上に、綺麗に仲良く等間隔で同じ方を向いて休んでいる。
こんなにもトンボがいるところを見たことがない。僕は呆気に取られてしばらくそれを見つめていた。一斉に飛び立つところが見たかったけれど、トンボを驚かしてはいけない。そんな気がしてその場から離れた。
昨日、亮兄ちゃんと一緒に歩いた畦道を歩いてみた。歩くたびにサンダルと僕の足は濡れていった。
すぐ横には綺麗な水が流れていて、僕の姿を見つけた小魚が慌てて姿を隠していく。
一旦立ち止まり、色々なものを見渡しながら一周回ってみる。
田んぼや道路、トンボが留まっている電線の奥には、必ずと言っていいほど青々とした山々がどっしりと座っていて、ぐるっと僕の周りを囲んでいる。
潮風とは違う風の香りがする夏。辺り一面を真っ白に染める雪が降り積もる冬。重なり合う大きな山の間を体をくねらせて流れる冷たくて綺麗な山の水。そして、僕の目と心を掴んで離さない虫の数。
見慣れた建物と同じ様な建物が建っていて、僕の知ってる車と同じ車種が道路を走っている。おんなじ日本という国なのに、ここは館山とは違う。そんな気がする。
僕が布団にいなくて心配かけたら嫌だから家に戻ろうと思って振り向くと、なぜだか前に来た時におばあちゃんから聞いた『遠野物語』を思い出した。
昔話の最後を締めくくる「どんとはれ」を口ずさんだ途端、急に強い風が吹いた。
びっくりして目を瞑ると、誰かに頭を撫でられた気がした。
慌てて目を開けて周りを見回してみても、近くには誰もいなかった。
僕はもう一度だけ、ゆっくりと一周回ってみる。
やっぱり『仙人』はいる。
僕はごくりと唾を飲み込んだ。
家に帰ってみるとお母さんは起きていて、「散歩でもしてきたの?」と全く心配していない様子だった。
岩手んばぁとそのことについて話をしていると、あっという間に朝食の時間になった。
朝御飯を食べてから亮兄ちゃんと庭で遊んでいると、居間から騒がしい声が聞こえた。
「食べたい、食べたい、食べたいー」
幾ら窓を開けているからといって、居間の声がここまで聞こえてくるのは一大事だ。僕と亮兄ちゃんは顔を見合わせると、二人揃って窓から中の様子を確認する。
そこには、「残念ながら、昨日のでお終いなんだよ」と服を引っ張られて首の部分が伸び切ったおじちゃんが、困った顔をして座っていた。
「やだ、やだ、やだ」
その隣には、競馬の騎手みたいにおじちゃんの服を何度も引っ張っている日和がいる。
服を引っ張られる度におじちゃんの首は左右に揺れ、動きのおかしな赤べこみたいになっている。
僕達は室内から見えない位置まで体を引っ込める。
「何してんだ?」
「何が食べたいのか分からないけど、多分おねだりしている。日和がああなったらもう無理だと思う」
「無理?」
「うん。ああなったら地球がひっくり返っても日和は止められないと思う」
「何だそれ?」
「ちょっと前に「昆虫採集に自分も連れてけ」ってあの状態になった時は、母ちゃんがいくら引っ張っても僕の服を離さなくて大変だったことがあって、父ちゃんに怒られてやっと手を離したんだけど、今度は僕のおもちゃを人質に取って「連れてかないと壊す」って脅されたんだ」
「本当かよ」
亮兄ちゃんは中の様子が気になるのか再び首を伸ばす。僕は亮兄ちゃんの服を掴んで引き留める。
「ああなったら危険」僕は首を横に振る。「あれをやられると、首とかが服で擦れてめちゃくちゃヒリヒリするんだよ」
「それなら…」
亮兄ちゃんは、居間の方に一度だけ顔を振ってから僕の方を見る。
「多分ね」
僕は神妙な顔つきで頷く。
あそこまでやられたら、おじちゃんの首は大変なことになっているだろう。
「気付かれたら巻き込まれるよ。そうなると大変なことになるから、絶対に日和にばれないようにした方がいいよ」
「お、おう。分かった」
亮兄ちゃんはゆっくりと頷く。
僕たちは忍者のように気配を消して、慎重に慎重を重ねて中の様子を窺う。
「おんちゃんは新盆の用事があるんだよ」
「やだ」
「この時間から行ってもいいポイントは取られちゃって…」
「やだ」
「うーん」
「やだ」
何を言っても「やだ」しか言わない日和におじちゃんは困り果ててしまった。
「日和、いい加減にしなさい」
とうとうお母さんが怒りだす。
日和はお母さんの方を見て一旦動きを止めると、おじちゃんの方に向き直しぎゅーーーっと服を引っ張って無言の圧力を加える。
「分かった、分かった。鮎さ釣ってくるから、な?」
その言葉を聞いた途端、「本当?」と日和はおじちゃんの服を離す。
悲しみを帯びた瞳は輝きと共に大きく見開かれ、さっきまでのへの字口はどこかへ消え去ったかと思えば、ちっちゃな奥歯が見えるほどに可愛らしい笑顔が現れる。
「おじちゃんありがとう」
ヨレヨレに伸びてしまった服を包み込むように、日和はおじちゃんの胸目掛けて飛び込む。
「お、おお」
おじちゃんはどうしていいか分からないのか、両手を上げた状態で日和のことを見つめている。
一部始終を見ていた亮兄ちゃんは、無言のままこっちを見る。
「あれが日和です」
僕がそう答えると、亮兄ちゃんは息を呑むようにして頷いた。
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