第32話 仙術
「じょんた、じょんた」
岩手んばぁが日和を褒める。
「えへへ」
日和は瓶を抱えたまま体を斜めにして、もじもじと体を揺らす。いつもの自分を取り戻したらしく、愛嬌たっぷりの笑顔をおじちゃんに見せている。日和の性格からして、瓶を離さないのには訳がある。
出来るようになったことは、何度でも繰り返す。
今まで色々あったけれど、幼稚園の時は習ったお歌の振り付けや、絵描き歌はしょっちゅうやっていた。僕は習ったことがないのにそれを踊れるし、イヌさん、ブタさん、キツネさんとか色々な動物の他にも、漫画のキャラクターとか沢山描ける。
「あらぁー、日和ちゃん」
いつになっても日和が瓶を離さない理由に気がついた岩手んばぁは、くしゃっと笑う。
「日和ちゃん、待ってけろ。よだぐれちまぁ」
おじちゃんもそれに気がついたみたいだ。
「そうやって持ってると、ビールが温まっちゃうからテーブルに置いて」
「うん」
返事はするけれど、日和はお母さんのお願いを聞く気がないみたい。
「腹に溜まってきた」とか「そろそろ変えたいんだけどな」なんて日和に向かって独り言のように話しかけているけれど、その意味が分からない日和はニコニコと自分の出番を待っている。もちろん、おじちゃんも笑顔だ。
「お父さん飲み過ぎないでよ」
岩手のおばちゃんはおじちゃんを心配しているようだったけれど、半分諦めている感じだった。もちろん顔は笑っている。
日和は不思議な存在で、周りを巻き込んでいくくせに、何だかんだでみんなが笑顔になっている。まあ僕は、困ったり笑っていなかったり、笑顔より苦笑いをしていることの方が多いんだけどね。
少し大袈裟に言えば、奇跡的に今の僕はみんなと同じように笑っている。
その中で段々と笑顔が減っていっている人がいる。亮兄ちゃんだ。
おじちゃんがお酒を飲んで酔っていくほどに、亮兄ちゃんから笑顔が消えていく。なんとなく僕はそれが気になっている。
「銀座なんかより、この家の方が高級店だ」
日和にビールを注いでもらったおじちゃんが、しみじみと語る。
「ちょっと兄さん、うちの大事な姫に向かって変なこと言わないでよ。もう酔ったの?」
「大丈夫だ。楽しくなってるだけだ」
「分かったわ。酔ってるのね」
「いや、しっかりしてる。ただ、顔がなぜだかにやけてくる」 「チッ」
「はいはい、しっかり酔ってるのね」
お母さんとおじちゃんはテンポよく掛け合いをする。会話が早過ぎて、誰も二人の間に入れない。お母さんも楽しそうだ。
「いや、だから違う」 「……チッ」
さっきから、隣から微かに舌打ちの音が聞こえる。僕はそれに気が付いていない振りをしている。
「んだば。褒美に仙術、見せねばな」
おじちゃんは日和に話しかける。
「えーー、センジュツー!?」
日和は目を丸くする。
僕が反応する前に、亮兄ちゃんに服を引っ張られる。
「そんなものあるわけね」
亮兄ちゃんは小さい声で呟く。
『仙術』さっきまでの僕なら、亮兄ちゃんの言葉を無視して真っ先に飛びついた言葉だと思う。でも、なぜだか今は亮兄ちゃんのことが気になってしまう。
「いくぞ日和ちゃん」
おじちゃんはさっき使ったティッシュを両手で包んで、コロコロと丸めだした。
下にした右手をギュッと握って日和の顔先に出す。これみよがしに右手を左右に振ると、パッと手を開く。ところが、手の中には何も入っていない。
一旦、日和は驚くけれどあることに気が付く。右手が下にあったからといって、全てが全てそちら側にあるとは限らない。日和は得意気に、握られているおじちゃんの左手を掴んで手を開くように催促する。
おじちゃんは、バレたかという顔をしてにっこり笑う。そして何やら呪文のようなものを唱えて、人差し指でトントンと左の甲を叩く。ゆっくりと握られた手を返し、小指から順に開いていく。中には何も入っていない。
驚く日和を尻目におじちゃんは天井を見上げ、何かを探すように視線を動かす。それにつられて日和も天井を見上げる。
人差し指を立てて、部屋中をくまなく探索する。猫が光につられるように、日和もおじちゃんの指先を必死になって探す。
その隙におじちゃんは、右手を顔の前に出して注意を惹きつけた時に、そっとお尻の後ろに隠したティッシュを手に取る。
何かを見つけたように、何もない一点を見つめる。「おっ」と声を上げたと思ったら、何もない空中を掴む。
開かれた手の中には先ほどのティッシュが入っている。
「わー、すごーい!」
日和はクリクリの目をこれでもかと広げて、手を叩いて喜ぶ。
「おじちゃんてマジシャンだったんだー!」
「ふぉ、ふぉ、ふぉ、ふぉ」
口籠った低い声でおじちゃんは笑い、ありもしない髭を満足そうに撫でる。日和に袖を引っ張られながら「他にもやってー」とせがまれながら、美味しそうにビールを飲んでいる。
「あれって仙術?」
僕は亮兄ちゃんに小さい声で聞く。
「だから、そんなもんはねぇって言ったべさ。手品にもなんねぇ、ただの子供騙しだ」
「そ、そうだよね」
「そっだ。見てろよ、次は耳に指突っ込むぞ」
言われたようにおじちゃんは、人差し指の指先を耳の穴に当てる。
「ここさトントンしてけろ」
もう一方の左手で自分の右肘を軽く叩き、日和に向かって肘を叩けと言っている。
日和は言われた通りに肘を何度か叩く。
次の瞬間、日和が驚いた顔をする。
「ゔん゛っ!」
呻き声と共におじちゃんの人差し指が耳の中に入る。と、同時に反対の唇がぷくっと膨らむ。なんと、指が耳を貫通して口まで到達した。…ように見える。
「ぅん、ぅん」
調子の良い言葉に合わせて手首を動かすと、それにつられて唇が中から上下に動く。
キャッキャと笑う日和。
「日和ちゃん!大変、大変。おんちゃんの指、抜いてあげて」
岩手のおばちゃんが、大袈裟に日和を急かす。
状況を理解した日和は、必死になっておじちゃんの肘を引っ張る。うんとこしょ、どっこいしょ。それでも肘は抜けません。
ぽんと音が聞こえてきそうなぐらいに勢い良く耳から指が抜けると、少しよろめいた日和は手を叩いて大喜びをした。
よほど面白かったのか、「またやって」とおじちゃんにおねだりをしている。
「もう、見てらんね」
小さい声が隣から聞こえてくる。
亮兄ちゃんはごちそうさまをすると、立ち上がって居間から出ていってしまった。
「ごちそうさまでした」
僕も慌てて立ち上がり、亮兄ちゃんの後を追う。
「あら、ヒロ。もういいの?」
お母さんが聞いてくる。
「うん、ごちそうさま」
「あら、そう」
廊下に出て戸を閉めようとすると、「亮くんどうしたの?」とお母さんの声が聞こえてきた。戸を閉めるのを少しだけ待つと、「何だか反抗期に入ったのか、ちょっと困っているのよ」と岩手のおばちゃんの声が聞こえた。
僕はゆっくりと戸を閉める。日和の笑い声が小さく聞こえる。
開けっぱなしの玄関の、網戸の間を通って、夏なのに涼しい風が家の中に入ってくる。
虫の音が聞こえる静かな廊下を、亮兄ちゃんの部屋に向かって歩き出す。
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