私のピアノと私の人魚
尾八原ジュージ
遠雷、清流、ミニ浴衣
九歳の夏、ペットショップで生まれて初めて人魚を見た。
父方の実家がある郊外の街に、大きなショッピングモールがあって、帰省のたびに連れて行ってもらった。南館一階の専門店街、その一角を大きなペットショップが占めていた。
人魚は熱帯魚の隣で売られていた。「サマーフェア」と書かれた幟の横で、大きな水槽の縁に肘をつき、夢見るような眼差しで行き交う人々を眺めていた。フェアに合わせて着させられたのか、ピンク色のミニ浴衣の裾から、青みがかった銀色の尻尾がすらりと伸びていた。
九歳の私はよく迷子になる子供で、そのときも親とはぐれて一人でウロウロしていた。だけどそれ自体はよくあることで、さほど問題とは思わなかった。
それよりも、大事なのは人魚の方だった。
人魚は美しかった。白い陶器のような肌に銀色の髪。皆はどうしてこんなに綺麗なものの前を素通りできるのだろう? 夢中で眺めていると、後ろからトントンと肩を叩かれた。
「お嬢さん、いかがですか? 人魚」
エプロンをつけた、ショップの店員が私を見おろしていた。銀縁眼鏡をかけた、優しそうな女の人だった。「淡水の人魚ですから、飼いやすいですよ」
「淡水だと飼いやすいんですか?」
「ええ、海水を作らなくても済みますから」
店員はにこやかに答えた。
「この子は海ではなくて、山の中の澄んだ川からやって来たんです。清流特有の綺麗な銀髪でしょう。お買い得ですよ」
なんでも海の人魚のように歌わない分、どうしても値段が安くなるのだそうだ。そうなんだ、と視線を送ると、人魚はゴロゴロという不思議な音を鳴らした。それが人魚の声らしく、聞いていると背骨が震えるような心地がした。
私を見て、人魚はにこりと笑った。それで十分、私は虜になった。もうどうしてもこの人魚が欲しくなった。
そうは言っても、小学生においそれと買えるものではあるまい。綺麗だし、大きいし、餌や水槽だって買わねばなるまい。見たことのない記号で書かれた値札を読むことはできなかったが、それでも高価なものだろうと直感的にわかった。でも、欲しい。
「うちの店では、物々交換もできますよ」
店員が言った。耳慣れない言葉だった。
「ぶつぶつこうかん? ってなんですか?」
「お嬢さんの持ちものと、人魚を交換することができます。今お持ちでないものでも大丈夫ですよ」
私は必死で考えた。私の持ち物。所有物。人魚と交換できそうなくらい高価なもの。そして思い出した。
三年前に買ってもらったアップライトピアノ。家に届いたとき、「これはあなたのピアノよ」と母が言った。実際ピアノを弾くのは私だけだし、あれは名実ともに私のものに違いない。
「私のピアノとこうかんしてください!」
そう口にしたとき、また後ろからトントンと肩を叩かれた。
「やっと見つけた。何やってたの? こんなところで」
母だった。気づくとそこはペットショップではなく、その隣の空きテナントの前だった。人魚も店員も消えていた。
母によれば、私は何もないところで喋っていたらしい。
その翌日、自宅のピアノを弾こうとした私は、どの鍵盤を押しても音が鳴らないことに気づいた。
さっそく母が調律師を呼んだ。調律師は怪訝な顔で鍵盤を叩き、上前板を外して中を見た。
「……目茶苦茶ですよ。一体どうやったんですか?」
調律師の言う通り、ハンマーは折れ、弦は切れて、酷い有り様だった。大人たちがどよめく中で、私だけが知っていた。
(ああ、ペットショップのひとがピアノの魂みたいなものを持って行ったんだ)
だからピアノは死んでしまったのだ。
すぐにでも人魚を受け取りに行きたかった。でも、程なくしてそれどころではなくなった。父と母が離婚することになったのだ。母は長年にわたって不倫をしており、私は父ではなくて、不倫相手の子供だった。
とても父方の実家の近くのショッピングモールに連れてってくれなんて言える状況ではない。私は母とふたり、遠い街の小さなアパートに引っ越すことになった。
時が流れた。大人になった私は、未だにあのショッピングモールを訪れていない。その気になれば一人で、車を運転して行くことだってできるのに。
私は支払いを済ませたのだ。だから人魚はもう私のもので、受け取りに行かねばならないと思うのだけど、何となく怖ろしくてずっと行けずにいる。子供だった当時は何とも思わなかったけれど、怖いのだ。あの人魚がいよいよ我が物になったとき、私は本来人間が開けるべきではない扉を開けてしまうような、そんな気がしてならない。
あの人魚はまだ私を待っているのだろうか。今も時々頭の中で、あの遠雷のような声が聞こえることがある。
私のピアノと私の人魚 尾八原ジュージ @zi-yon
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