浅井と沼さんの映画談義・『火を噴く惑星』(1962年/ソ連)『金星怪獣の襲撃/新・原始惑星への旅』(1968年/米)

※映画『火を噴く惑星』および『金星怪獣の襲撃/新・原始惑星への旅』のネタバレを含みます


「『火を噴く惑星』と『金星怪獣の襲撃』は、どっちの方が面白いと思う?」

大学の近くの喫茶店で浅井あざいがこんな質問をぬまさんにしたのは、先日の『カリギュラ』談義に触発され、自分でも自己流の映画解釈を披露してみたくなったからだった。

「『火を噴く惑星』です。」

「…うん。即答だよね。」

沼さんの返答は、至極当然であった。

「何も『火を噴く惑星』が玉瑕の無い大傑作とは言いませんが、比較すること自体が前者に失礼ではないでしょうか。」

「い、いやまぁその、映画としてはそりゃ『火を噴く惑星』の方が優れていると思うよ?けれど、『金星怪獣』には一点だけ『火を噴く惑星』より面白いところがある。それが今回俺の提議したいことなんだ。」

「ふむ…。」

沼さんも多少興味を抱いてくれたようで、いつものように顎に指を当てながらこちらの真意を伺うように眼光を瞬かせていた。

「拝聴させていただきましょう。」

「…よろしくお願いします。」

なんだか、担当教授に論文の指導を受けている気分になってきた浅井だった。


浅井と沼さんの2人は、まずそれぞれの映画のあらすじをなぞり始めた。

『火を噴く惑星』は、パヴェル・クルシャンツェフ監督による1962年公開のソ連製SF映画である。

映画開始早々に僚船「カペラ」を隕石の衝突で失う悲劇を乗り越えて金星へと降り立った宇宙探検船「シリウス」と「ベガ」の乗組員たち──4人のソ連人宇宙飛行士コスモノートに、アメリカ人技師とその相棒のロボット──を出迎えたのは、ツタで獲物を捕える肉食植物、恐竜や翼竜そっくりの動物たちだった。

「人間サイズの恐竜が沼で襲ってくるシーンは、特撮造形技術の時代的制約を考慮してもお世辞にも出来がいいとは言い難いですね。手足がまともに動かないのか、ピョンピョンと跳ねながら襲ってくる様子が恐怖よりも笑いを誘っています。」

「確かに。アレと同レベルの着ぐるみ特撮恐竜は、たぶん『ジュラシック・アイランド』(1948年/米)のティラノサウルス(ケラトサウルス)くらいだろうね。」

遭難した先遣隊の捜索を続ける一行は、海底で文明の痕跡を発見したり、姿は見せないものの終始そこらじゅうで響き渡る歌声を耳にしたりして、次第に金星人の存在を意識するようになっていくのだが、ここで地球人と金星人の共通の先祖として太古に外宇宙からやって来たエイリアンを想定した、いわゆる古代宇宙飛行士説が展開されるのだ。

この映画の原作小説を書いたSF作家で脚本家でもあるアレクサンドル・カザンツェフは、ツングースカ大爆発の原因が地球に墜落した宇宙人のUFOだと主張するほどの筋金入りで、あるいはこの疑似科学的創世神話こそが映画の真のテーマなのかもしれない。

SF映画につきもののガジェットの方はというと、スプートニクロケットの遺伝子を感じさせる流線型の宇宙船や曲線的なデザインのエア・カーなどがレトロフューチャーな趣きで存分に楽しませてくれる。

特に印象に残るのは、ロボットの「ジョン」だろう。

「国際協会の依頼」で技師のケルンと共に乗り込んでいるアメリカ製のロボットで、スラブ式の「イヴァン」ではなくわざわざ英語で「ジョン」と名付けられている。

「「ジョン」は多少無骨なデザインながらロバート・キノシタ系統のコミックリリーフ的なロボットに見えますが、敬語で話しかけないと働かなかったり、有用でない計算をブツブツ呟いたりと、融通の効かない非人間的な計算機として描かれていますね。」

「オマージュにしろパロディにしろ、間違いなく『禁断の惑星』(1956年/米)の「ロビー・ザ・ロボット」を意識したキャラクターだろうね。肉食植物に襲われるのも『巨大アメーバの惑星』(1959年/米)そっくりだし、この映画のスタッフはアメリカのSF映画を相当参考にしてそうだ。」

この映画が公開された1962年は、前の年にユーリ・ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行が成功し、ソ連の宇宙開発がその絶頂を迎えた時期で、金星が舞台に選ばれたのは当時の金星探査計画「ベネラ計画」の影響もあったかもしれない。

そんな時代背景を反映した自信とエンターテイメント精神に溢れた快活なSF冒険活劇として現在でもファンを持つ良作であり、監督のクルシャンツェフはジョージ・ルーカスからもリスペクトされている。


『金星怪獣の襲撃/新・原始惑星への旅』の方は、1968年にアメリカで小規模公開されたのちにテレビ放映された。

幾多のトラブルを乗り越えて金星へと到った宇宙飛行士たちが、肉食植物に襲われたり、恐竜や翼竜と遭遇したり、顔は合わせないが金星人の歌声だけは耳にしたり…、つまり、基本的なストーリーは『火を噴く惑星』そのままである。

『金星怪獣』は『火を噴く惑星』のアメリカでの配給権を買い取った低予算映画の帝王ロジャー・コーマンが、もう一つのソ連SF映画『大宇宙基地』(1959年/ソ連)──より正確にはコーマンがフランシス・フォード・コッポラに再編集させた『燃える惑星 大宇宙基地』──からの流用映像や、妙にキザったらしいモノローグ、新たに追加撮影したシーンを付け加えてでっち上げた再編集版なのだ。

そのため、吹き替えによるセリフの細かい変更、登場人物たちの名前の非スラブ化・西欧化、アメリカ人技師ケルンがカーンズ船長に昇進、宇宙空間のシークエンスを『大宇宙基地』のものと差し替えたせいで金星でのシークエンスと宇宙船の形が全く違ってしまっているなど改編は色々あるが、最大の改編点は『火を噴く惑星』では不思議な声と顔を模った石の彫刻、ラストに水面に映った神秘的な様相以外にはほとんど姿を見せない金星人が、『金星怪獣』では観客には分かるようハッキリとスクリーン上に登場することだ。

これがまた神秘性のかけらもない全員金髪ブロンドで貝殻ビキニトップの人魚(脚は2本に分かれてるから半魚人か?)たちで、口を動かさずにアフレコのテレパシーで会話するのはコーマンが同時録音の予算をケチッたからだ。

オリジナル版の『火を噴く惑星』には人間の女性キャラクターも存在するが、彼女は金星の衛星軌道上で同僚たちの無事を祈ったり、無重力で踊ったり、全滅の危機をおかして救助に向かうべきか苦悩するだけ──この女性描写はソ連政府からも批判された──で、大衆映画的セックスアピールが不足していたためか『金星怪獣』からは名前のみを地球本部のコールサインに残してカットされている。

足りない女っ気を補うためとはいえ、金星ヴィーナスに住んでいるのが若くて露出度の高い金髪ブロンド女性たちとはあまりにアホくさいが、この設定を考えたのは別人名義で監督したインテリのシネアストで知られるピーター・ボグダノヴィッチ本人らしい。

ローマ神話の愛の女神のイメージが投影された女性的な金星人という定型トロープは19世紀以来ポピュラーだったらしく、実際オリジナルの『火を噴く惑星』でチラ見せしている金星人の姿も女性的なのは確かで、一応の整合性はあるのだが…。

ちなみに、アポロ11号の月面着陸は翌年の1969年。

宇宙開発競争においてソ連がかろうじてリードを守っていた最後の年を飾ったのがこの『金星怪獣の襲撃』だったわけだ──ソ連SF映画史を研究するうえで、ほぼ確実に無視される事柄だろうが。

HorrorNews.Netのレビューで「ロシア映画を改悪してアメリカ人としての愛国的義務を果たした」と皮肉られているのが、『金星怪獣』という映画の立ち位置を的確に評していると言わざるをえない。


「『金星怪獣』における改編は、確かに芸術的なまでに馬鹿馬鹿しく、それ自体にキッチュな魅力はあるでしょう。しかし、そのような追加編集はコーマンの十八番です。『大宇宙基地』を『燃える惑星』(1960年/米)として再編集した際もコッポラにオリジナルには存在しないモンスターを付け足させました。あえて注目するほどのものでしょうか?」

「確かに、この映画単独で見ればお馴染みのコーマン式ローカライズって感じだけど、との対比で別の姿が浮かび上がってくるんだ。」

「それはオリジナルの『火を噴く惑星』ではなく、また別の映画との対比という意味ですか?」

「そう。ここで思い出してもらいたいのは、一つはロジャー・コーマンが『火を噴く惑星』を再編集させて米国内で公開したのは、『金星怪獣』で二度目だということ。もう一つは、『金星怪獣』が公開されたのが1968年の10月だってことなんだ。」

コーマンは『火を噴く惑星』を1965年に『原始惑星への旅』としてすでにアメリカで公開していたのだ。

邦題が『金星怪獣の襲撃/』となってるのはそのためである。

この時の改編を担当したのはカーティス・ハリントンで、すでに一部『大宇宙基地』流用映像の挿入と吹き替えによる細かいストーリーの変更はなされていたが、オリジナルの女性飛行士登場シーンはまだ残っており、金髪貝殻ビキニ人魚族は影も形もなかった。

「すでに手元にある再編集版をさらに再々編集して公開したくなる理由が、コーマンにはあったはずなんだ。それは、1968年に起こっただ。」

「1968年…。」

SF映画に精通した者であれば、その年に何があったかすぐにピンとくるだろう。

「『2001年宇宙の旅』が公開された年ですね。」

「その通り。『金星怪獣』の半年前、4月にアメリカで封切られてるんだ。」

1968年に公開された重要なSF映画といえば他に『猿の惑星』もあるが、浅井の意図通りに沼さんが『2001年』の方をピックアップしたのは、『金星怪獣』のオリジナル版である『火を噴く惑星』が、巨匠スタンリー・キューブリックとまるで無縁というわけではないからである。

キューブリックが『2001年』を作る際、クルシャンツェフが1957年に監督した『Road to the Stars』(原題:Doroga k Zvezdam』を参考にしたのではないか、と言われているのだ。

『2001年宇宙の旅』がインスパイアされた映画リストには、キューブリック自身が言及している『西部開拓史』を筆頭にチェコの『イカリエ-XB1』や大映の『宇宙人東京に現わる』などなど多くの候補があがっているのだが、映画中盤に登場する映画史上最もアイコニックな人工知能「HAL9000」のキャラクター造形が、『火を噴く惑星』の「ジョン」から影響を受けているという説は、ネットでもよく見かけられるものだ。

「HAL9000」と同じく、「ジョン」も淡々とした口調で本来守るべき人間の生命を脅かし、すんでのところで回路をショートさせられ、生き絶えるのである。

この二本の映画には古代宇宙飛行士説をテーマとしているという共通点もあるが、『2001年』のオリジナルコンセプトがクラークの1948年の短編小説『前哨』であるのは明白なので、これは偶然であろう。

「相棒との馴染みのジャズ音楽を鳴らしながら「ジョン」が機能停止するシーンは、確かにHALの最期に近いものがあります。」

「『原始惑星への旅』の改変では、相棒の名を断末魔のように呟きながら機能停止するんだ。これもHALそっくりだろ?」

「そう言われると、確かに…。『原始惑星への旅』の公開が1965年の8月、キューブリックが『2001年』の撮影をイギリスで開始したのがその年の12月ですから、キューブリックがこの改編版を見た可能性が全く無いとは言えませんね。」

「そう仮定すると『2001年』と『金星怪獣』は『原始惑星への旅』という同じ母胎から同じ年に生まれた双生児と言えなくもない!」

キューブリックファンから怒られそうな暴言だが、こういう曲解じみた深読みは多少強引な方がやってて楽しいのである。

「…まぁ、双生児云々は冗談として、コーマンが『火を噴く惑星』をまたまた改編して1968年に公開したのは、『2001年』がきっかけだと思うんだ。」

黒澤明の『隠し砦の三悪人』にインスパイアされた『スターウォーズ』のヒットに対抗して、自分でも宇宙版『七人の侍』である『宇宙の7人』を作るほどに商魂たくましいロジャー・コーマンが、『2001年』に対抗、というか便乗するために『金星怪獣』をでっち上げた可能性は高いと浅井は考えていた。

残念ながら『金星怪獣』の企画と追加撮影が1968年のいつ頃行われたのかの正確なデータは見つけられなかったが、4月か5月に『2001年』を見てから10月までに再編集版を作りあげることなどコーマンには朝飯前であろう。

「コーマンは、『2001年』を見て気がついたはずだ。「HAL9000」は「ジョン」だ。しかも、オリジナル版『火を噴く惑星』だけではなく自分がハリントンに改編させた『原始惑星への旅』の要素も入っている。これは黙って見てるわけにはいかない。そっちがその気なら、こっちもやり返してやる。そうやって生まれたのが、『金星怪獣』のあのラストシーンなんだよ!」

気分がノり始めて多弁かつ早口になってきた浅井だった。

『火を噴く惑星』(及び『原始惑星への旅』)では物悲しく溶岩の中へと倒れ込んでいった「ジョン」──これがターミネーター2の溶鉱炉シーンの元ネタだと主張する者もいる──だったが、『金星怪獣』では問題のラストシーンに再登場するのだ。

翼竜を神として崇めている金髪貝殻ビキニトップ人魚族たちは、主人公たちのエア・カーと交戦して死んだ翼竜の代わりに今度は冷えて固まった溶岩に包まれた状態で浜辺に漂着した「ジョン」を崇め奉り始めるのである。

この一連のシーンのため、わざわざ翼竜の死体や石像、黒コゲのジョンも新造したらしい。

アリモノ素材を流用しただけの『原始惑星への旅』の時とは、明らかに気合の入り方が違うのだ。

「『2001年』とは逆に、ここでは人工知能が地球外知的生命体とのファーストコンタクトを果たすんだ。しかもそれはモノリスのように、原始的なキャラクターたちに囲まれて静かに佇んでる…。」

まぁ、実際の絵面は黒焦げになったハリボテロボットと痴的生命体とのコンタクトなのだが。

「金髪貝殻ビキニトップ人魚族の原始宗教も意味深だよ。壊れて動かない「ジョン」を崇める原始人たちのカーゴ・カルトは、『2001年』とキューブリックをカルト的に崇拝する若者たちを揶揄してるとも解釈可能だ…!」

ここまでくるともうほとんど難癖レベルだが、別に浅井は『2001年』やキューブリックが嫌いなわけではない。

『金星怪獣』の再解釈に『2001年』を巻き込み為の、これは単なるレトリックである。

「…つまり『金星怪獣の襲撃』における一見キワモノでしかない改編は、実はキューブリックの向こうを張ったコーマンとボグダノヴィッチの戦略であった、と。」

沼さんの眼鏡の奥の瞳が、妖しく瞬いていた。

「なかなか興味深い解釈です。確かに、ボグダノヴィッチが新たに書き加えた劇中のモノローグで金星人たちを「セイレン」に喩えていたのも『オデュッセイア』を通して『2001年宇宙の旅スペース・オデッセイ』を意識していたと考えれば、辻褄が合います。」

「おぉ…っ。」

「それと、これは書籍で得た情報なのですが、人魚たちの一人を演じたマミー・ヴァン・ドーレンは、ボグダノヴィッチが監督を任されたときすでにコーマンによってキャスティングされていた唯一の女優ですが、1960年に出演した『Sex Kittens Go to College』(日本未公開)というコメディには、人型ロボットのがヴァン・ドーレン演じる元ストリッパーの色気に夢中になり、熱にうなされ彼女のストリップダンスの夢までみるシーンがあるそうです。つまり、ヴァン・ドーレンは人工知能をノックアウトした実績があるわけで、このキャスティングも「HAL9000」への目配せだと解釈可能ですね。」

「おお…っ!」

浅井も知らなかった補足情報で仮説を補完してくれる沼さんの反応に、浅井は確かな手応えを感じ始めた。

「ロジャー・コーマンは『ワイルド・エンジェル』(1966年)やドラッグ・ムービー『白昼の幻想』(1967年)を監督するなど60年代カウンター・カルチャーの担い手を自負していましたし、その点でも若い観客層の熱狂的な支持を受けていた『2001年』に対するライバル心があったとしても、不思議ではないでしょう。」

「おおおぉ…っ!!」

自説にお墨付きをもらえたともはや信じて疑わず、感動さえ覚えていた浅井だった。

「それじゃ、沼さんの『金星怪獣』に対する辛口評価も遂にあらたまることに!」

「それはないです。」

「…あれ!?」

前のめりになっていた勢いを削がれて固まってしまった浅井に、沼さんが冷静に話を続ける。

「あくまで『2001年』と絡めた上での面白さですので、単体の映画としてはやはり残念ながら、金髪貝殻ビキニトップ人魚族の馬鹿馬鹿しさを相殺するのは難しいと思います。」

「………だよね。」

『2001年宇宙の旅』はそれ自体が巨大な神話をなしており、その牙城に『金星怪獣の襲撃』で殴り込むのはさすがに無茶だったようで、さっきまで膨らむに膨らんでいた期待の反動から、浅井は絵に描いたようにガックリとしている。

「沼さんの『カリギュラ』論にあやかって真似してみたんだけど、俺がやっても無関係な事柄たちを曲解で無理やりこじつけてる陰謀論者みたいで、ただのバカ丸出しだった気がする…。」

「そこまで落ち込まれなくとも、十分魅力的な解釈でしたよ。」

「でもなぁ…。」

浅井としては、真の映画オタクとしてリスペクトしている沼さんを、出来ればもっと感心させてみせたかったのだ。

凹む浅井を見てどうしたものかと困り気味の沼さんが、ちょっとだけ上目遣いで顔を寄せてきた。

ただでさえ距離感がやたらと近い沼さんにこれをやられると、浅井は普段以上に心臓を酷使させられるハメになる。

「でも、楽しかったでしょ?」

「…そりゃまぁ…。」

浅井は、『金星怪獣の襲撃』と『2001年宇宙の旅』とを結びつけるトンデモ仮説を打ち立てた瞬間の、あの「自分が世界で最初にこれを思いついた!」という興奮を思い出した。

「めっちゃ楽しかったです。」

浅井のその言葉に、同好の士を見つけて朗らかに微笑むような、共犯者に向けた悪戯っぽい笑みのような、あるいはその両方を含んだものを口もとに浮かべている沼さんを見て、これが見れたんなら、やって良かったよな、と浅井は考えをあらためた。

やってて楽しいかどうか。

たぶん、それがこの映画談義で一番大事なことなんだろう。

変な映画を見過ぎて少々頭がおかしくなったオタクたちの、これは誰に迷惑をかけるでもないたわいもない遊びゲームなのである。


「ジョン」が最後に再登場する『金星怪獣』のオチは、浅井にはなんだか実にしっくりくるものだった。

「ジョン」はオリジナルの『火を噴く惑星』では人間たちの帰還を優先するために当初から金星に放棄される予定になっていて、「ジョン」が自己保存を理由に人命を害しそうになるのは、それへの意趣返しなのだろ。

そんな「ジョン」がラストで美味しいところを掻っ攫う再逆転の展開に、浅井は予想外に面白く、素直に感心させられ、溶岩に倒れ込んでそれっきりのオリジナル版の方になんだか物足りなささえ感じてしまった。

それゆえにこの映画を『火を噴く惑星』の劣化改悪版というだけでなく、もっと他の解釈をしてみたくなったのだ。

当のコーマンたちは、『金星怪獣』をキューブリックへの当てつけとして再編集したなんてことは一言も言っていないし、金星を脱出して『ペーパームーン』に無事着陸したボグダノヴィッチはこの映画にたずさわった経験を「ばかみたいでしたよ」と簡潔に総括している。

だが、たとえ作った本人たちがそうと意識していなくても、『金星怪獣』は『2001年』が生み出した時代精神の潮流に巧みに乗ってみせたユニークな怪作である、とそう考えるのが浅井は楽しかった。


『火を噴く惑星』はソ連SF映画の最高峰とは言い難い──その座は永遠にタルコフスキー監督作品のものであろう──が、良質なカルト・クラシックとして今でも人々の耳目を集めている。

『金星怪獣の襲撃』は間違っても傑作などと呼べるシロモノではないが、そこにはコーマンの鋭い嗅覚が、ボグダノヴィッチのウィットに富んだ創意が節々に感じられる…ような気もする。

「HAL9000」は21世紀に再び二足歩行を獲得してリドリー・スコットの古代宇宙飛行士説神話『プロメテウス』のデヴィッドになり、クリストファー・ノーランは『インターステラー』のTARSで「ロビー・ザ・ロボット」を始祖とするマスコット的サポートロボットの系譜に新たな1ページを刻んだ。

SF映画史における人工知能/ロボットの歩みを辿る時、この敬語でしか命令を聞かないソ連発アメリカ製ロボット「ジョン」に寄り道してみるのも悪くはないだろう。


『金星はまだ多くの謎に満ちている。我々が空想で描いたこの未知の世界は、現実とは違うかもしれないが、それは未来の人々が確認するに違いない。』

──映画『火を噴く惑星』より


『特殊効果がすごいんだ。AIPが配給できるように、いま英語の吹きかえをつけているところだ。だが、女がでてこない。だからレオ・キャリロ海岸へ行ってくれ。きっと黒海のように見えるだろう。設定では金星ということになっているがね。女を撮ってくれ。編集で挿入する。」

──『私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか─ロジャー・コーマン自伝』より

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