浅井と沼さんの映画談義・『カリギュラ』(1979年/伊・米)

※映画『カリギュラ』のネタバレを含みます


浅井あざい君は、『カリギュラ』はご覧になっていますか?」

「はい!?」

ぬまさんからのその質問に、浅井は思わず口に運んでいたカレーをテーブルにこぼしてしまいそうになった。

「…えー、見たことは、ありますデス、ハイ。」

「やはり。浅井君ならと思っていました。」

それを映画オタクとしての称賛と素直に受け取っていいものかどうか、浅井にはよく分からなかった。

浅井が返事を言い淀んだのは、ローマ帝国第3代皇帝カリギュラ──本名、ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス──が、その傍若無人な振舞いゆえに暗殺されるまでの半生を描いたこの歴史映画が、主演のマルコム・マクダウェルをはじめピーター・オトゥールにジョン・ギールグッド、ヘレン・ミレンといった英国の一流俳優を起用しながら、その実ポルノ雑誌『ペントハウス』の創刊者ボブ・グッチョーネが仕掛けたハードコアポルノ大作映画であり、女の子とのファミレスでの食事に適した話題とは到底言い難い作品だからである。

去年の11月に沼さんと『ゴジラ−1.0』を見に行って以来、こうして二人で映画談義をする機会が増えたのは喜ばしいことこの上ないが、沼さんの守備範囲の広さにはいまだに驚かされるばかりであった。

中には、友人の根岸ねぎしさんや野々村ののむらさんとは語りにくい映画もあるのだろうし、『カリギュラ』はその一つなのだろう。

「有名だったからね。脚本家や監督、出演者たちまで騙して、別撮りしたハードコアシーンを編集で繋ぎ合わせてでっち上げた、歴史上最も金のかかった豪華なポルノ映画として。」

「確かに、関係者の多くはあとから撮影当時は『カリギュラ』がポルノ映画になるとは思っていなかった、と訴えていますね。」

例によって眼鏡の奥からレーザー・アイを妖しく光らせながら、沼さんは続けた。

「私が疑問だったのは、それならば俳優たちがポルノ映画になると知らずに撮影に臨んでいた時点では、あの映画のテーマは何だったのか、ということなんです。」

「Wikipediaの英語版には、撮影中にトラブルでクビになった脚本家のゴア・ヴィダルの意図では「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」ていう政治的風刺がテーマになるはずだった、とあったけど。」

「でも、あの映画のカリギュラは、ローマ皇帝に即位してすぐにやりたい放題を始めています。最初にやることが、あの有名な巨大首刈りマシンでの処刑イベントですからね。権力の腐敗を描くなら、まずは腐敗する前の状態を描く必要があるのではないでしょうか?」

確かに、史実のカリギュラのその治世の最初期は善政であったと伝わっているが、この映画にそのようなシーンは全く存在しない。

「そこは監督のティント・ブラスに責任があるだろうね。ブラスはカリギュラを「生まれついての怪物」として描いたわけだし(Wikipedia英語版より)。そのブラスも編集段階でお払い箱になって、プロデューサーのボブ・グッチョーネがさらに過激な性行為シーンを追加撮影し、映画は完成した。」

「つまり、もともと意図されていたテーマ性は消え去り、ただ残酷で淫らなハードコアポルノだけが残った、と。」

「まあ、たぶん、それがあの映画に対する世間一般の認識だと思うよ。」

「しかし、私はあの映画にはまだ別のテーマ性が残っていると考えているのです。映画として失敗し、挫折し、全くかえりみられることはなくても。」

「うーん。」

確かに、『カリギュラ』は公開後の世間の反応(日本では「カリギュラ効果」なる言葉まで生まれた)ばかり有名で、興行的には大ヒットはしたものの、内容がまともに評価されたという話はあまり見聞きしない。

しかし、それは無理もないことだ。

〇液風呂が出てきたり、巨大首刈りマシンで死刑囚の首が野菜みたいに収穫されたり、何十人ものポルノ俳優たちが船を象った国営売春宿で大乱交パーティを繰り広げる映画を、まともに評論しようとする人間のほうが珍しいだろう。

…なんで俺は、沼さんとファミレスでカレー食いながら、残虐ハードコアポルノ映画の話をしてるんだろうか?

と思わないでもないが、沼さんの方はというと全く意に介さず自論を展開していて、彼女の映画への愛の前には実に瑣末な問題なのであろう。

「そこで私は、関係者の証言ではなく映画そのものから、あの映画のテーマは何なのかを見極めようと思ったのです。そして、ついに突き止めました。」

顎に指をあてながら語るその姿は、まるでミステリーの謎解きパートにおける探偵のようだ。

「カリギュラは暴君だったから暗殺されたのではない。彼は、と。」

探偵役が推理を披露すれば、ワトソン役が相方を務めて話を進めねばなるまい。

「どういうこと?『カリギュラ』はマルコム・マクダウェル演じるローマ皇帝が独裁権力を利用して欲望のままやりたい放題するのが売りの見世物キワモノ映画なんじゃないの?」

「おっしゃる通り、映画前半のカリギュラは皇帝権力をかさに着て、史実にヒントを得た元老院や市民への冒涜的な行いを積み重ねます。しかし、ある瞬間からそれが暴君暗君の気まぐれな奇行悪行から、より確信犯的なアナーキーへと変わるのです。」

「ある瞬間?」

「物語後半、最愛の妹を熱病で失ったカリギュラはショックのあまり浮浪者のような姿でローマの街を徘徊し、粗野な下層民たちがローマの権力構造を揶揄したり皇帝である自分や自分の妹を侮辱しているのを目撃、妨害しようとして袋叩きにされ、社会から疎外された者たちを収容する地下牢のような場所へと送り込まれます。そこを取り仕切っている手品が得意な牢名主相手に、皇帝のシンボルである大事な指輪をオモチャのように扱って自らも手品をしてみせ、やがて地上へと戻っていく…。私はあの一連のシークエンスは、いわゆるヒーローズ・ジャーニーだと思うのです。」

ヒーローズ・ジャーニーは、物語論において主人公が非日常世界で試練を乗り越え、何らかの成果を手に日常に帰還すると言う通過儀礼の構造である。

確かに、頭のおかしい陵辱殺人鬼であることを横においておけば、カリギュラのこの行動はその定義にピタリと一致する。

では、皇帝の権威を支えるローマの権力構造を根底から否定する世界観を前に、アンチヒーロー・カリギュラはどう変化したのか?

「皇帝の座に復帰した直後、カリギュラは自らを人間ではない、神だと宣言し、さらなる傍若無人な行いを重ねる。しかし、そこには皇帝の権力を誇示するためというより、ローマ自体を貶めるというもっとアナーキーな意図があるのです。」

「…元老院議員の女房たちを娼婦にして、国営売春宿で大乱行パーティーを主催したこと?」

「あれも確かに過激ですが、前半部分でも元老院に対する侮辱は行われていたので、その拡大版としての面が強いでしょう。私が注目したのは、むしろその後の「ブリタニア遠征」のシークエンスです。」

それはあの映画の他の部分と比べると過度に暴力的でもうんざりするほどセクシャルでもない、尺も3分足らずの、おそらく多くの観客に見た直後から忘れ去られるような場面である。

「戦利品として偽物の捕虜と貝殻を持ち帰ったという醜聞的な逸話が、映画ではカリギュラが意図的に仕組んだ滑稽な茶番劇として描かれています。ローマから2時間ほどの川で、対岸をブリタニア、パピルスの水草を敵だと言って、兜や槍だけの素っ裸の兵士たちを突撃させる、あのシーンです。」

「…単にドーバー海峡っぽく見えるロケ地までフル装備のエキストラを大勢連れて行く予算が無いからああなった、ってことはない?」

「もちろん、制作上の都合による苦肉の策である可能性もあります。でも、私はあれを確信犯的演出と受け取りました。」

歴史映画において史料や歴史考証とは明確に異なる演出というものは、むしろそれゆえに映画制作者が本当に観客に伝えたいものなのだと言えるだろう。

「あのシーンは、それまで劇中で繰り返されてきた皇帝権力を誇示するための挑発や侮辱行為ではなく、ローマ軍団の軍事力、ひいては外征によってその権勢を誇ったローマ帝国そのものを揶揄しているのです。しかも、ローマの街から2時間程度の場所ということは、あの兵士たちは帝政ローマ時代のイタリア本土で唯一駐屯を許されている親衛隊、皇帝直属の軍事力であり、皇帝権力を支える重要な柱のはず。その親衛隊をオモチャにしたあの瞬間、カリギュラは自らが鎮座するローマ皇帝位そのものも冒涜したわけです。」

ローマの軍制史の知識まで持ち出してハードコアポルノ映画を語る沼さんに、浅井はただただ圧倒され始めていた。

「ヒーローズ・ジャーニーの直後、彼は高らかに宣言しています。自分は人間ではなく神だ、と。神として、地上の人間たちの些末な権力構造の全てを冒涜し、侮辱し、嘲笑する。それこそがカリギュラが、この映画終盤で目指したものだった。」

もはや浅井もファミレスで女の子とポルノ映画談義をしていることへの躊躇など超越し、沼さんの自論に聞き入って、本当に『カリギュラ』にはそんな壮大な物語構造が隠れているのかもしれないと、信じ始めていた。

「一方で、カリギュラは己の限界も理解している。妻をイシス役にエジプト神話のオシリスが死から蘇る様子を演じながら、「これはただのお芝居ショーさ」と言ってみせるあのセリフに、その意図がないはずがありません。その直後、元老院と親衛隊の密謀によって、遂にカリギュラは暗殺されます。神の名を騙る傲慢さと、その企みの挫折を予感する悲劇性の同居。それが、あの映画で本来描かれるはずだったカリギュラ像なのです。」

そこまで一気に語りとおすと、沼さんは一息つくようにドリンクバーの飲み物を一口飲んだ。

「…と、ここまで偉そうに語ってしまいましたが、全て私の妄想です。」

「沼さん!?」

演説者が急に冷静になってしまい、聴衆であるこっちが前のめりに倒れそうになった。

「今までの私の解釈は、映画を一度見て自然に感じたというより、隠れたテーマをなんとか見極めようとしてようやく絞り出した、といったようなものですので。言ってしまえば、監督や出演者の意図とも全く関係がない、私自身の頭の中にしか根拠がない解釈なのです。」

ゆえに客観性は維持したい、ということだろうか。

それにしても、

「言っちゃなんだけど、あの映画になんでそこまで?」

浅井のその疑問に、沼さんは少し照れたような笑みを浮かべながら答えた。

「私は、カリギュラが暗殺される寸前、己の死を前に披露したカリギュラのあの傲岸不遜な態度を、あの瞬間のマルコム・マクダウェルの怪演を、何か「テーマ」や「意味」を与えて、何とか救い出したかったのだと思います。」

「あー…。」

その感情は、浅井にも理解できるものだった。

何かしら美点と言えるものを見出すと、どんな映画でも擁護したくなってしまう、めんどくさい映画オタク特有のストックホルム症候群みたいなものである。

何しろ、『時計じかけのオレンジ』のマルコム・マクダウェルが稀代の狂える暴君を演じているのだ。ハードコアポルノ映画以外の何かがそこにないと、もったいないじゃないか?

沼さんの解釈が正しいかは浅井には分からないが、ただ、その自論を披露する相手に自分を選んでくれことが素直に嬉しかった。

浅井が借りていたDVDを又借りした友人のワッキーこと脇谷わきやは、「エロシーンの間マルコム・マクダウェルがずーっと画面外で何か偉そうに言ってるわ 、◯ェラチオシーンのカットバックしつこすぎるわで、エロくもなんともねえ」とより端的に『カリギュラ』を評しているが、それもこの映画の一面の真実である。

出演者の中では例外的に、カリギュラの淫蕩な妻カエソニアを演じたヘレン・ミレンは「芸術と性器の魅力的な組み合わせ」と好意的に評価した。

レオナルド・ディカプリオは『ウルフ・オブ・ウォールストリート』での演技においてこの映画を参考にしたと語っている。

ともかく、『カリギュラ』という映画はやはりとてつもなく巨大かつ異質な存在であり、最も豪華絢爛な残虐ハードコアポルノ超大作として今後も映画史に君臨し続けるだろう。


『私は世界と共に生まれて世界の終りまで生きる。カリギュラという人間の姿をしているが人ではない。神なのだ。』

──映画『カリギュラ』より引用


「ちなみに、浅井君。」

「うん?」

「『カリギュラ』の話になったついで、と言ってはなんですが、『カリギュラⅡ』と『カリギュラⅢ』、それに『新・カリギュラ』については、ご覧になっていますか?」

「…はい!?」

どれもこれも、タイトルは日本で勝手に続編っぽく付けただけで、『カリギュラ』の話題性に便乗しつつさらに予算と有名俳優を引き算し、悪趣味さを掛け算したポルノ映画である。

正直言って、こいつらそんな語ることある?と思わないでもないくらいのアレなシロモノたちだが、それでも沼さんが語ろうと言うのなら、ぜひとも付き合わせていただこうじゃないか、と浅井は腹をくくった。

『カリギュラⅡ』には少なくとも『カリギュラ』と似たようなテーマ性がないではないし、『新・カリギュラ』は他と比べたらところどころ画が豪華だ(他の映画からの流用映像だろうが)。

さらに沼さんが望むのなら、『ローマハーレム帝国 ネクスト・カリギュラ』──邦題に「カリギュラ」とついてるだけで、もはやカリギュラとは全く無関係の内容──だって語る覚悟である。

…俺は一体全体、なんだって沼さんと一緒にファミレスでドリンクバーをおかわりしながら『カリギュラ』便乗ポルノ映画たちの話をしてるんだろうか?

と思わないでもないが、沼さんが挙げたこれらの珍作たちをきっちり視聴済みの浅井という人間に実に似合いのシチュエーションであることを、このめんどくさい映画オタクは客観的にまだよく理解していないだけかもしれなかった。


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