第2話 君は総天然色〈イーストマン・カラー〉

浅井あざいぬまさんの存在を意識し始めたのは、実は大学入学以前からの事である。

小6で『シン・ゴジラ』に脳を焼かれて以来、中高時代の浅井はさらに遡って昭和・平成の特撮映画や古い洋画SFを嗜む映画オタクとなっていた。

そんな浅井におあつらえたように、高校1年から2年の頃にかけて、新旧『ガメラ』シリーズのリバイバル劇場上映が盛んに行われていたのだ。

2020年の冬から翌年の春にかけて平成ガメラ三部作の4Kリマスター版が、2021年の夏には、KADOKAWA主催の大映妖怪特撮映画祭がとりおこなわれ、特に後者は大映怪獣映画はもちろんのこと、妖怪モノからスペクタクルまで幅広いジャンルの作品がプログラムに組み込まれた、かなり気合の入った上映イベントだった。

すでにレンタルDVDで見た作品たちではあったが、映画館で見るという行為に憧れがあったのだ。

このガメラ行脚のさなか、観客の中に毎回必ず同じ顔を見かけることに、浅井は気が付いた。

丸眼鏡とショートボブが特徴的なその可憐な美少女を、意識するなと言う方が困難だった。

自分と同じの年頃の、しかも自分と同じ趣味の異性の存在に舞い上がらないオタク少年などいないのである。

話しかける勇気はとても持ち合わせていなかったが、一度だけ、大映妖怪特撮映画祭が上映されていた角川シネマ有楽町で、彼女の落とし物を拾ってあげた事があった。

「どうもありがとうございます。」

ニコリともしないものの、やたら丁寧に頭を深々と下げるその子に慌てて手渡した、上映プログラムをプリントアウトしたものらしいそれをぎっしりと埋め尽くす大量のメモ書きを一目見ただけでも、彼女が上映されている30作品全てを制覇する為の鑑賞スケジュールを組んでいるのは明白であった。

昭和ガメラシリーズのうち数本と大魔神三部作だけが目当てだった浅井にとって、彼女の映画オタクとしての気合の入りようはほとんど圧倒的であり、憧れを超えて畏怖の念を抱かせるものだった。


4月に入学した大学で、同期生の顔ぶれの中にその「映画館の君」を発見した時は、もはやある種の運命さえ感じていたとしても、浅井を攻めるのは酷というものだろう。

今度こそ、何とか彼女に話しかけなければならない。

顔見知り程度の同期としてではなく、同じ映画オタクとして。

しかし、下手な事を言って無知を晒し、馬鹿だと思われるのだけは避けねばならない。

数週間の逡巡の後についに浅井がそれを実行に移したのは、学内キャンパスの食堂での事だった。

沼さんは自炊して弁当持参だったが、友人たち──ゴリゴリのゴスロリだった根岸ねぎしさんと当時はセミロングだった野々村ののむらさん──と一緒に食堂で昼食をとっていたのだ。

「また一人、無謀なチャレンジャーが来よったわ。」とでも言いたげにニヤニヤしながら日替わりランチを食べている根岸&野々村コンビは可能な限り視界の外へ置くように心がけながら、浅井は沼さんの対面に腰を下ろした。

入学当時から、そのミステリアスな美貌とオーラで目立ちまくってた沼さんである。

気を引こうとする自称映画オタクも当然多かったし、ニワカ仕込みの半端な映画知識で話しかけた有象無象たちを例のレーザー照射アイと敬語口調毒舌でその下心ごと各個撃破したという沼さん狂犬伝説が、学内ですでに広まりつつあった。

沼さんの映画の好みが自分と同じだとすでに把握していた浅井は、そんな有象無象よりはるかにアドバンテージがあると自負していた。

とは言え、足掛け3年もの間映画館に行く度に沼さんの姿を密かに探していた件は、サイコサスペンス映画のストーカーみたいで引かれる気がしたので、もっと当たり障りのない話題が必要だったわけだが、入念な脳内シミュレーションの果てに浅井が選んだのは『ゴジラ対ヘドラ』だった。

『モスラ』と『空の大怪獣ラドン』の4Kデジタルリマスター版上映でも沼さんの姿を見かけていたので、大映だけでなく東宝特撮も見る人だと見当はついていた。

『ゴジラ対ヘドラ』は、「ゴジラが放射能熱戦の反動で後ろ向きに空を飛ぶシークエンス」で有名な異色のカルト映画である。

浅井的には、ディープ過ぎずカジュアル過ぎない、比較的安パイな話題を選んだつもりであった。

ゴジラを飛ばしてプロデューサーの田中友幸を激怒させ、監督の坂野義光がそれ以降のゴジラシリーズの監督から干された逸話を「僕は他と違ってちゃんと映画に詳しいヤツですよ」と言わんばかりにベラベラと早口で語っていた浅井に、例によってターミネーターかロボコップが相手をリアルタイムで解析しているような冷徹な視線を浴びせながら、沼さんはこう言った。

「浅井君は映画を見ながらWikipediaを見るタイプなのですね。」

その指摘は、たぶん当の沼さんが思っていた以上に浅井の心に深く突き刺さった。

映画が好きなのではなく、映画通ぶるのが好きなやつ、というニュアンスがその言葉の端にはあったのだ。

そして、たぶんそれは真実の一面をついていた。

実際この時浅井が話してたのは、映画本編ではなくWikipediaやムック本から得た情報だったのだ。

完全に出鼻を挫かれて動揺する浅井に、沼さんはさらに畳み掛けた。

「映画は、本質的に映画そのもの一本だけで成立しているべきだと思います。メイキングの裏話などは、映画本来の価値とは全く関係ないのではないでしょうか。」

これがトドメとなり、急に用を思い出してギクシャクとその場から逃げ出した浅井は、その後沼さんに話しかける勇気を完全に失ったのであった。

かれこれもう4ヶ月も前の事だが、今でも夜中にふと思い出しては、宙空に向けて奇声を発し、枕に顔を埋めて唸り声を立ててしまう類いの苦い思い出である。

後日、この顛末が沼さん狂犬伝説の1ページに加わったのは言うまでもない。


この件以来、沼さんは浅井にとって不可侵アンタッチャブル禁忌タブーな存在となった。

高校2年の夏を、大映妖怪特撮映画祭全30タイトルをハシゴして過ごす猛者である。

一筋縄でいく相手ではないと分かっていたつもりだったが、ここまで取り付く島が無いとは。

「映画館での映画体験こそ純粋にして至高」とでも言わんばかりのその原理主義の前では、浅井の映像特典趣味はあまりに浮ついているように思えてしまったのだ。

だが、浅井にもDVD主義者としての意地があった。

それならそれで、自分はDVDと映像特典の道をとことん極めて、勝てないまでも何とか沼さんの足元に這いつくばれるくらいのレベルまで己を高めてやろう、と誓ったのである。

まず、映画を見る態度をあらため、より真摯になった。

以前は映画の一番ダレるパートではスマホを片手にWikipediaをチラ見する誘惑に勝てなかったが、その悪癖を改め、より敬虔な気持ちで映画と向き合うようになったのである。

次に、沼さんの深海の如きディープさに対抗するため、物量作戦を選択した。

そして生み出されてたのが、前述のサブスクとDISCASをひたすらローテーションしてとにかく映画を見続ける戦略、塵も積もれば山となる、チリツモ・ローテーションである。

だが、単に手当たり次第に見て廻っているわけではない。

浅井は、予めあるテーマを決め、それに沿って綿密に視聴計画を立てているのだ。

例えば、「今週は火星探検の任に赴いた宇宙飛行士が酷い目に遭う映画を見よう」と決めたら、『宇宙征服』『恐怖の火星探検』『巨大アメーバの惑星』『ミッション・トゥ・マーズ』『レッド・プラネット』『オデッセイ』などといった作品群を出来る限り制作年順に見ていくのである。

こうする事で、「火星探検の任に赴いた宇宙飛行士が酷い目に遭う映画」に関してはエキスパートになれた気分に浸れるわけだが、本当に沼さんに見直してもらえるだけのレベルに達したのかの確信は得られず、次のテーマを探し求めて彷徨うのである。

ちなみに、浅井からこのチリツモ・ローテーションの事を聞き興味を抱いた脇谷わきやは自身も実践してみようとツイ・ハーク監督作品をまとめ見し始めたのだが、何を勘違いしたのか三日三晩不眠不休でツイ・ハークを見続け、後遺症で半月あまり脳の神経がワイヤーアクションするようになってしまい、現在に至るも完治していない。


「俺、沼さんに比べたら全然オタクじゃないっていうか、俺がニワカオタクで沼さんは本物の映画通っていうか。」

「あー、なるほど。沼ちゃんにこっぴどくやられちゃってたもんね、浅井くん。」

根岸&野々村コンビは、その現場を目撃しているのである。

聞き上手の野々村さんの横から、今度は根岸さんが話を切り出した。

「沼っちってサ、アレで普通にあっしらと一緒にシネコンでポップコーン食べながらバカなアクション映画見たりするんだヨ。」

「そうそう。あとでご飯食べながら、あたしとネギちゃんには分からないレベルの分析とかめちゃくちゃ辛口批評とかするけど、それも含めて3人で楽しんでる感じ。」

浅井は、この二人がどうやって沼さんと友達付き合いをしているのか、これまで想像もできなかった。

二人が語る沼さんとの日常は、どうという事のない、噂から想像していたよりもはるかに親近感を感じさせる文系大学生らしい風景のように聞こえた。

「それにさ、例の『映画館以外認めねー!』みたいな噂も嘘だよ。現に今、あたしらと一緒にレンタル来てるでしょ。」

「そーそー。あっしら毎週金曜の夜は、沼っちの家でオールナイト上映会するんだよネ。」

「えっ。沼さんちってマジで映画館なの!?」

「違う違う、ホームシアターっていうか、プロジェクターってやつだよ。映画2、3本ずつ持ち寄って、朝まで見続けるっていう道楽。」

「毎回あっしが最初に負けて寝ちゃって、野々っちが4時くらいまでは耐えて、いつも最後まで起きてるの沼っちだけになっちゃうんだけどネ。」

「別に勝負してるわけじゃないけどね。要は、そういう結構普通に学生っぽい映画の楽しみ方できるコってわけ。」

「でも、それじゃあの時沼さんが言ってた事は嘘だったのか?」

「嘘ってわけでもないでしょ。現に沼ちゃん、浅井くんにも他の人にも、『映画館最高。他はクソ。』なんて一言も言ってないはずだよ。」

確かに、沼さん本人がそう明言したわけではない。

沼さんの圧倒的な只者じゃないオーラに惑わされて、現実より偏った人物像を思い描いていた可能性も無くもないのではないか。

「そうか…。じゃあ、上映中にスマホ見てたヤツをトイレに追い込んだっていう例の狂犬伝説もただのデマだったんだ。そりゃそうだ。」

「あ、それは半分くらいマジだヨ。」

「わたしら目撃者。」

やっぱりハンパないヒトだった。

おっかねえ。

「だいじょうぶだってー。怖くない、怖くないよー、沼っちはー。ちょっと映画好きすぎて、たまに暴走するだけだからサー。」

「とにかくさ、本人もファーストコンタクトミスったって後悔してるし。もう一回浅井くんの方からアプローチしてあげてみてよ。」

「えぇ…。マジで…?」

そう言われても、かれこれ4ヶ月もコンプレックスを拗らせてきた相手だ。

小心者の浅井が一歩を踏み出すには、まだ何かが足りなかった。

「しゃーねーなぁ。いっちょ、気合い入れてやりますか。」

見かねた脇谷が坊主頭をポンと叩き、続いて指先で気を練り始めたかと思うと、ボッ!ボッ!っという効果音サウンド・エフェクトを口で放ちつつ、浅井の首や腹に細かいカット割りで突き立ててきた。

「全身の点穴をついた。今すぐ沼さんに話しかけねば、全身の血が逆流してお前は死ぬ。」

「それスウォーズマン3作目の『女神復活の章』ネタだって普通は分かんねえから。」

「イクゾ!チレ!(『女神伝説の章』の服部の真似)」

「散開しちゃダメだろ。」

こういうアホなノリでしか友の背中を押せないのが脇谷であり、こういう冗談半分のノリで送り出してもらわないと一歩を踏み出せないのが浅井であった。

やはり、同好の士は大切にしなければならないのだ。

根岸&野々村コンビの「何やってんだこのクソオタク共」と呆れたような視線に見送られながら、浅井はようやく沼さんの元へと向かっていったのだった。


「渋谷フィルムコレクション」DVDコーナーの棚の前にいる沼さんは、顎に人差し指を当てながらわずかに首を傾げ、何やら思案中の様子だった。

凡人がやれば気障ったらしすぎるであろうこういう仕草が、沼さんがやると妙に画になる、とキャンパスで見かけるたびに密かに思っていた、高校時代から変わらずややストーカー気質な浅井である。

「…えー、沼さん。その、なんか探してる?俺ヒマだから、手伝おうかなー、なんて…。」

「浅井君。」

沼さんが、アンダーリム眼鏡の奥のレーザー・アイをこちらに向ける。

そのシャープな視線に捉えられて、浅井は蛇に睨まれた蛙の如き心地がした。

「根岸さんや野々宮さんたちから、何か言われました?」

「…俺が沼さんに対してちょっと距離作ってんじゃないかー、みたいな事を、言われました。ハイ。」

「申し訳ありませんでした。」

突然ショートボブの頭を深々と下げる沼さんに、浅井は面食らった。

「えっ!?いや、こちらこそ…。え!?何が!?」

「根岸さんたちの事ではなく、春に私が浅井君に暴言を放った件について、です。」

「………。」

「本当は、もっと前に謝らなければいけなかったのですが、どう切り出したらいいか分からず、今日まで逃げてきてしまった次第です。」

いつもの淡々とした口調ではあるが、根岸&野々村コンビの忠告のおかげで、今の浅井にも沼さんが緊張しているのが少しは分かる気がした。

「言い訳させてもらいますと、浅井君と食堂で話した時の私はちょっと荒れていたと言うか、心理的に臨戦態勢だったのです。」

当時の浅井には、いつも通りの美しい鉄面皮にしか見えなかったのだが。

「あれの少し前のことですが、STAR WARSにとてもくわしい、と自信満々な人と話す機会がありました。」


「その人は実際、ジャージャー・ビンクスが本国のファンから嫌われているとか、ハン・ソロが先に撃ったとか、そういうファン事情やネットミームには詳しい人でした。

だけど、STAR WARSの映画は一本も見た事がなかったんです。オリジナル・トリロジーだけではなく、プリクエルもシークエルも。」

「んなバカな。」

あまりの事に思わず脇谷と馬鹿話する時の素の口調になり(しまった。)と思ったが、沼さんの方は別段気にもせず話を続けた。

「私もそう思いました。でもその人に言わせれば、映画というものは有名なシーンだけ抜粋された動画を見るか、倍速再生で流し見た後、YouTubeで有名なレビュアーの解説を聞いて理解するもの、なんだそうです。わざわざ通常スピードで視聴するのはコスパが悪い、というわけです。」

映画を、消費するコンテンツとして割り切れば、そういう考えもあるのだろう。

しかし浅井には、そして沼さんもだろうが、断じて同意できない理屈であった。

「…それで、そいつに沼さんは何て返したの?やっぱり『本編まともに見てないヤツが語るな』的な?」

「さすがに初対面の方にそこまでは…。速やかなる全九部作及び外伝の通常視聴の推奨と、STAR WARSやジョージ・ルーカスについてより深く知るのにオススメの書籍を20冊ほど紹介したら、それ以後はもう話しかけては来なくなってしまいました。」

沼さん的にはそれなりに誠意を込めた忠告だったのかもしれないが、側から見ればナンパ野郎を撃退するいつもの狂犬伝説のひとつになってしまったわけだ。

「私は、中学高校時代に映画の話が出来る相手がいませんでした。だから大学では、と期待していた矢先のことだったので、あのように理解し難い人の存在は、正直言ってショックでした。」

沼さんはかなり良いとこの出で、小中高一貫のお堅いお嬢様学校出身らしく、特撮やSF映画を語り合える同好の士との出逢いは難しかったのかもしれない。

「でも、なによりショックだったのは、特撮映画の設定資料集やムック本を読み漁る自分自身にも、その人と共通する部分があるのを否定できないことでした。

違いと言ったら、映画をちゃんと見ているかどうか、それだけではないか、と。

その反動で、私は自分をより純粋な『映画至上主義者』として理論武装させるに至り、後になって自分でも恥ずかしく思うくらい周りに意固地な態度をとるようになってしまいました。浅井君と話したのは、ちょうどそのタイミングだったのです。」

「あの時はまぁ、散々擦られてるネタを安易に出した俺もよくなかったかと…。」

浅井が沼さんに話題を振った『ゴジラ対ヘドラ』のゴジラ飛行シーンとそれにまつわる裏話は、昭和ゴジラシリーズ、とりわけ子供向け路線が極まったチャンピオンまつり時代を語る際によく弄られるネタである。

浅井はあくまで差し障りのない特撮トークのつもりでいたのが、その時の沼さんにとっては表層的なネタばかり追いかけるその倍速再生マンの同類に見えたのだろう。

お互いにタイミングが悪かった、という事かもしれない。

「ですから本当は、浅井君にあんなことを言う資格なんて私にはなかったんです。本当の私は、DVDのオーディオコメンタリーで語られる制作裏話にニヤニヤし、同時収録された劇場公開版とディレクターズ・カット版を見比べて休日を潰す、ごく当たり前の映画オタクなのです。第一、もし私が本当に映画館での鑑賞しか認めない主義ならば、見たくても見られない作品だらけで私が困ります。」

そりゃそうだ。

近年は名作特撮の4Kリマスター版の上映で賑わっているが、『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』や『大巨獣ガッパ』がリマスターされるまで何年待つことになるやら。

とにかく、沼さんがここまで心情を明かしてくれているのだから、ここは浅井もいい加減に観念して正直になるべきであろう。

「俺も、脇谷から映像特典中毒のDVD主義者なんて呼ばれるくらいだし、メイキングとかNGカットとか、そういう本編以外の領域に楽しみを見出す人間だって自覚はあるよ。

黒澤組と円谷組が照明の為に東宝撮影所の電力を取り合ってた話とか、フリードキンが散弾銃で役者をビビらせながら『エクソシスト』を撮った話とか、やっぱり面白いし。

だから、その倍速再生マンを完全否定はできない。」

「………。」

「でも、それだってあくまで映画本編を見た上での楽しみと心得てるし、俺が沼さんとSTAR WARSの話をするならそれこそ『フラッシュ・ゴードン』や『捜索者』は当然として『宇宙からのメッセージ』や『宇宙大作戦』まで予習した上で臨む覚悟だし、そこは倍速再生マンとは違うってことを…沼さん?」

いつもなら眉ひとつ動かさない鉄面皮を両手で覆いながら、沼さんがプルプルと肩を震わせていた。

「すっすいません、その…倍速再生マンというのが何だか妙に笑壺えつぼに入ってしまい…っ。」

笑っているらしかった。

沼さんが笑うという非常事態に浅井が硬直してしまっていると、ようやく平常心を取り戻した沼さんが咳払いをしつつ話を再開した。

「失礼しました。もちろん、浅井君が真摯に映画と向き合っている映画オタクだという事は、今はちゃんと承知しています。毎週ひとつのテーマを決めて、DVDとサブスクのローテーションを組むほどの探究者だと。」

「い、いやぁ。そんな大したもんじゃ…。」

正直に言えば、チリツモ・ローテーションについては自分でもそれなりに自信があるが、面と向かって褒められるとさすがに照れる。

……ん?

「…なんでローテーションのこと知ってんの!?」

「風の噂です。」

浅井さんのような目立つヒトならともかく、自分はそんな噂が立つような人間ではないはずだが。

一体なぜそんなことまで知られているのかと混乱していると、沼さんがさらに話を進める。

「私も昔から、ゴジラやガメラを初代から最新作まで制作年順に全部見るローテをしょっちゅうやっていましたので、勝手ながら仲間意識のようなものを抱いていました。」

自分は随分と、沼さんというヒトを誤解していたのだな、と浅井は思った。

沼さんというヒトは、浅井にとって完全無欠の映画オタクとして神格化された存在だった。

憧憬と畏怖を同時に抱くべき対象である。

だがそれは沼さんの為人ひととなりへの感情というより、浅井自身の願望や理想像、コンプレックスが反映された虚像に対する一方的なものであったかもしれない。

本物の沼さんは、自分と似たような映画の趣味を持ち、よく分からない笑いのツボをつかれて吹き出しそうになる、普通の女の子だった。

「それで浅井君。」

沼さんの目が、少し緩めていたレーザー・アイの照準を再修正したかのように鋭い輝きを取り戻した。

「あらためてお聞きしたいのですが、浅井君にとって『ゴジラ対ヘドラ』は、どんな映画でしたか。私、他の人の意見を直に伺ったことがないので、興味があるのです。」

4月にあのキャンパスの食堂で、映画について語り合いたかったのに見事に失敗しためんどくさい映画オタク二人の、これは仕切り直しだった。


浅井は思った。

きっと沼さんがあの時知りたかったのは、ゴジラが空を飛んだシーンに関する蘊蓄をどれだけ浅井が知っているかではなく、『ゴジラ対ヘドラ』を見て浅井がどう感じたのかだったのだ、と。

「…俺、あの映画は異色とかカルトとかよく言われるけど、純粋に映画としてよく出来てると思うんだよね。意表をつく大胆な演出とか、ヘドラのグロテスクなデザインとか、ダークなトーンとか、ぶっ飛んでるようで全てにちゃんと統一感があるというか。」

浅井が蘊蓄で沼さんに語りかけたのは、映画そのものに対する自分の正直な感想を口にする勇気がなかったからだ。

本物の映画オタクの沼さんの前で、自分の底の浅さを露呈してしまう気がして、怖かったのだ。

「でも、ゴジラが飛んだところはさすがにやりすぎというか、演出も音楽もその統一感からなんか外れていて、一貫性を損ねてると思う。あのシークエンスが無い方が『ゴジラ対ヘドラ』って映画はもっと良くなるし、あのシークエンスばかり語られるのは、正直ノイズだと思う。」

『対ヘドラ』を100倍以上真剣に見てきたであろう沼さんの前で、絶対に稚拙かつ迂闊であろう語りである。

平時の慎重ビビリな浅井なら、決して犯さない愚行であったろう。

それでも、今この瞬間はどんなに恥をかく事になっても、沼さんと、映画と、あとついでに自分に対して正直になりたかった。


沼さんは、例の人差し指を顎に当てるポーズをとって少し考え事をするように間をあけてから、言った。

「浅井君の今の意見に対して、私は10倍くらいの文字数と10倍くらいの早口で思うところを語れると思います。」

沼さんは、本当に嘘偽りなく語れるのだろう。

「でも今は、浅井君とようやくちゃんと映画についてお話し出来ている、という事で満足しておこうかと。後日、キャンパスにてまた続きをお話ししましょう。」

「…どうぞ、お手柔らかに。」

眼鏡の向こうの眼が柔らかくカーブを描くのを見て、沼さんのこんな表情を初めて見たことに浅井はぼんやりと感動したのだった。


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