サブスクにない2人
毒蜥蜴
第1話 ビデオ・ストアの悲劇 VOD Killed the Video Store
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2023年、東京。
外を歩くだけでたちまち汗の吹き出す猛暑日が続く8月真っ只中の、ある金曜日の夕暮れ時のことである。
JR渋谷駅ハチ公改札口を出て、外国人観光客が構えるスマホカメラの間をかいくぐりながら世界一有名なスクランブル交差点を渡り、目の前の8階建ての建物に入ったら、その4階から5階が目指す浅井の聖地だ。
都内私立大に通う1年生である浅井の行動範囲内で、最も映画のレンタルDVDが充実した空間、それがSHIBUYA TSUTAYAの映像レンタルフロアである。
「バベルの図書館」ならぬ「バベルのレンタルビデオ店」、とまで言うとさすがに大げさすぎるが、話題作や往年の名作はもちろんのこと、ぴあシネマクラブや映画秘宝のバックナンバーでしか見たことがなかったような希少なタイトルの数々が所狭しと棚に並んでいる光景は、最新のVFXよりもむしろコマ撮りアニメーションや着ぐるみ特撮を駆使した古いSFやホラー映画、クラシックなアクションやスパイ映画を愛して止まない浅井にとって、桃源郷そのものだった。
当のSHIBUYA TSUTAYAの方でも、品ぞろえの豊富さをもってサブスクのストリーミングサービスとの差別化を意識していたのは間違いなく、「サブスクに無い映画コーナー」をしっかりと作っていたものだ。
DVDは素晴らしい。
もちろんBDも素晴らしいが、ここはまとめてDVDと総称したい。
DVDの何が素晴らしいか、それは映像特典がついている事である。
オーディオコメンタリーやメイキング映像はもちろんのこと、スタッフやキャストのインタビュー、造詣深く見識高き映画関係者や映画史家の語る製作背景に至るまで、その映画を深掘りした多彩な情報がこの円盤の光り輝く裏面にぎっしり焼き付けられているのだ。
『猿の惑星』シリーズや『007』シリーズ、ユニバーサルの名作ホラー映画(映画監督ジョン・ランディスや特殊メイクの大家リック・ベイカーが解説している)などのレンタルDVD映像特典から百科事典的な知識を得るのは、浅井にとって至福の時であった。
これらの付加価値こそ、サブスクにはないレンタルDVD独自の強みである。
NetflixやAmazon Prime Videoといったサブスクリプション形式の
それは学友から「映像特典中毒のDVD主義者」と揶揄される程の、ほとんど信仰に近いものだった。
それ故に、SHIBUYA TSUTAYAが改装リニューアルを契機に今年の10月で店頭レンタル業から撤退するとのニュースは、DVD主義者・浅井にとって衝撃であった。
地元や行きつけのTSUTAYAが次々と店舗を畳んでいしく中で、嫌な予感はあったのだ。
サブスクの躍進によってレンタルビデオ店チェーンがどんどん縮小していくのは、全世界的現象であったが、それでもこのSHIBUYA TSUTAYAだけは、どんなにサブスクに客足を奪われようとも店頭DVDレンタルを続けてくれる、と信じたかった。
そんな浅井の願望は、非情なる現実によって脆くも打ち砕かれてしまった。
翌年春のリニューアルに向けた大規模なリニューアルに伴い、長年に渡って提供してきたレンタルサービスを11月中旬をもって終了すると発表されたのは、この数日前のこと。
悲嘆に暮れたり感傷に浸っているには、残り2ヶ月というタイムリミットはあまりにも短い。
DVD主義者・浅井に出来る事はその残されたわずかな時間、SHIBUYA TSUTAYAに足繁く通い、その有終の美を見届ける事、それだけだ。
これはもはや単にレンタルDVDを借りるのみならず、ある種の宗教的行為であると言っても過言ではあるまい。
そんな浅井の敬虔なる巡礼の旅についてきたのは、同じ大学に通う
近しい者からはワッキーと仇名される、この夏の猛暑を坊主頭と甚平姿で乗り切る決意を固めた男である。
「ほらほら。見なよ、浅井センセイ。」
その脇谷が、1階フロアから入店してすぐに上層階のフロアへと続くエスカレーターの裏側を指さした。
『レンタルは、渋谷からスマホへ。』
そこに貼り出されていたのは、店頭レンタルから宅配レンタルサービスTSUTAYA DISCASへの移行を宣伝する広告であった。
「本当にここ、レンタルやめちゃうんだなー。」
「渋谷では、だろ。他に店頭レンタル続けるTSUTAYAは都内にもまだあるよ。」
少なくとも今のところは、だが。
「でもまぁ、DISCASがあるなら、センセイもそんなに困らないんじゃねえの?最近はアマプラとかU-NEXTも使ってんでしょ。」
「それはまぁ、そうなんだけどさ…。」
汗で背中に張り付いた
ここ数ヶ月、サブスクに浮気していたのは事実だ。
長々とDVD主義者のご高説を垂れ流しながら、なんと軽薄なやつだと呆れられることだろう。
だが、言わせて欲しい。
サブスクには無い映画は、確かにある。
しかし、サブスクでしか見られない映画というものも、また確かに存在するのだ。
特にアマプラという名の
そしてひとたびサブスクの利便性を知ってしまえば、PCやスマホでレンタルした作品を自宅まで郵送してもらえるDISCASを併用するようになるのも時間の問題であった。
やがて、アマプラやU-NEXTで配信されている作品をチェックしつつ、レンタルDVDには DISCASを利用するというローテーションを組むのが浅井の日常となっていった。
そうやって大量の映画を見て廻るのに夢中になるあまり、SHIBUYA TSUTAYAからはここしばらく足が遠ざかっていたのだ。
その事実が、今になって浅井の心を際限なく責め立てるのである。
レンタルビデオは死んだのだ。そして、殺したのはサブスクではなく、サブスクに心を囚われたお前自身なのだ、と。
別に浅井一人のためにSHIBUYA TSUTAYAのレンタル業務の存続がかかっていたわけはないのだが、文系学生はそういう気分になりたがる生き物なのである。
そういうわけで、浅井のこのSHIBUYA TSUTAYA巡礼の旅は、贖罪のためのものでもあった。
目的地の5階フロアに着いた途端、脇谷は香港映画コーナーに向かう事を提案した。
正直、今日は『ハリー・パーマー』(ハリー・ポッターではない)シリーズを借りるつもりだったのでまずは洋画アクションのコーナーをチェックしたかったのだが、自分たちが生まれる前の映画を嗜む同好の士というものは実に貴重だ。
蔑ろにするべきではあるまい。
アジア映画コーナーの香港映画の棚の前に着くと、脇谷は真っ先に五十音順で『す』の列をチェックし始めた。
「お!『スウォーズマン』発見!」
「ジェット・リーの出てるやつだろ?それニューマスター版のDVD持ってるって言ってたじゃん。」
「リー・リンチェイな?」
「…リー・リンチェイの出てるやつ。」
ジャッキーもジョン・ウーもツイ・ハークも香港時代こそ至高と断言して憚らないこの男にとって、ジェット・リーをハリウッド進出以前のリー・リンチェイ名義で呼ぶことに固執するのが一種のこだわりであるらしい。
甚だめんどくさいヤツだが、好きな映画のジャンルが違うだけで自分も他人の事は言えない立場だという自覚もある。
「それに、リー・リンチェイが出てるのは二作目の『女神伝説の章』だけな。」
「わかったわかった。それにしても、レンタル来て早々にDVD持ってる作品探してどうすんだよ。」
「いやー、なんかさ、レンタル屋に来ると、もう見たやつや持ってるやつもちゃんと棚に並んでるか、何となくチェックしちゃうんだよな。」
「それはまぁ、分からなくはない。」
見知っている映画でもDVDのパッケージ裏面をついつい見てしまう感情は、浅井にも大いに理解できる。
「そういや浅井センセイって、VHSは借りねえの?」
ちなみにこの「センセイ」呼びも『スウォーズマン女神伝説の章』に出てくる棒読み日本語忍者・服部の真似である。
「…VHS、か…。」
今いるアジア映画コーナーから視線を後ろに向けて、洋画俳優別コーナーと監督別コーナーの棚の間を通り抜けた先、エスカレーターの横っ腹に面した一角に、SHIBUYA TSUTAYAが誇る「渋谷フィルムコレクション」──DVD化していないVHSと、DISCASにも在庫がないDVDといった貴重な作品たちが揃っている──のVHSテープ群を収めた棚が居並んでいる。
ここにあるDVDは、全てDISCASの在庫に加わると発表されている。
残された2ヶ月を映画オタクとして後悔なく過ごすには、優先すべきはもう二度と見る機会が無くなるであろうVHSの方なのは間違いない。
しかし、浅井はこれまでレンタルビデオ店でVHSを借りたことが、一度も無かった。
「…いつかは挑戦しようとは思ってたんだよ。借りようと思えばいつでも借りられると思って先延ばしにしてるうちに、こういう事態が来てしまった。」
「挑戦て、んな大げさな。」
「考えてみろワッキー。VHSってのはDVDやBDとは根本的に違う。磁気テープを使った媒体なんだ。故に先人たちはリモコンで早戻しする行為を『巻き戻す』と呼称していた。」
「おぉ…。なんか語り出したな。」
「磁気テープというのは、非常に繊細なシロモノらしい。引っかかったり、絡まったりして少しでも傷がついたらもうそれで中身はおじゃんなんだ。」
「つまり…?」
「物理的にテープを一時停止したり巻き戻したりするの、ダメにしちゃいそうでめっちゃ怖い。」
「思ったよりしょうもない理由だった。」
「しょうもないとはなんだ!こっちは真剣だぞ!ここにあるのは単なる大量生産品じゃない。いや、かつてはそうだったかもしれないが、DVD化されずVHSでしか残っていない映画作品たちは今となっては立派な文化財、いや古代文明の遺物と言っても過言ではない!そんな貴重な文化的遺産を自分の不始末でうっかりダメにしたらと思うと、はっきり言って触るのも怖い!」
「えっうん、なんかごめん。」
浅井のやたら強気な弱音に眼を白黒させた脇谷が、呆れ半分に言った。
「センセイって妙なところでビビリだよな。例の『
「…その事は言うな。」
「一回フラれたくらいで。」
「言うな!というかフラれたとかそういうアレではない!話を盛るな!」
同じ大学の同期生である沼さんは、映画館原理主義者である。
本人がそう名乗っているわけではないが、周りからはそう思われている。
DVD主義者である浅井とは相反する思想の持ち主だという事になるが、浅井が沼さんに抱いている複雑な感情はそれだけに起因するものではない。
噂をすれば影、と言うべきか。
アジア映画コーナーから海外ドラマコーナーを挟んでななめ向こう側の邦画コーナーから、聞き覚えのある声が聞こえてきたのだ。
恐る恐る振り向いてみると、商品棚の向こうから見え隠れするのは、間違いなくキャンパスで見慣れた同期生女子たちの姿である。
東南アジアの蝶みたいにド派手なアロハシャツで決め、ちっこくてやたらと動き回るのが小動物チックな印象を与える、金髪姫カットロングヘアの
この凸凹コンビに挟まれて、件の
ただそこにいるだけなのに、しかしなぜか超然として圧倒的に存在する。
沼さんとは、そういうヒトである。
「すっげえ偶然じゃん。どうする、センセイ。」
「どうって…何が…。」
「何が?じゃないよ。沼さんに話しかけるチャンスなんじゃないかっつってんの。」
何を言い出すんだコイツは。
沼さんはそんな軽々しくお声をおかけしていい御仁ではない。
脇谷にはビビリと形容されるが、浅井は自身のそれを慎重さだと肯定的に考えている。
沼さんとお話するなど、何百通りも脳内シミュレーションをした後、心身ともに万全の態勢で臨むべき大事である。
つまり、今はちょっと無理。
「いや別に俺は今日そんなつもりで来たアレじゃないしホラ今は向こうも忙しそうだし、な?」
「口ごもるのか早口になるのか、どっちかにした方がいいぜ、センセイ。」
どちらにしても、こっちがどうこうする前に、3人組の中で最も声のデカい根岸さんが目ざとくこっちを見つけてしまったのだった。
「うわっ。ワッキーだ!」
「それに、浅井くんじゃん。」
根岸&野々村コンビに見つかった以上、変に逃げ隠れするわけにもいかず、自分は悪目立ちしないようさり気なく脇谷を先頭に立てながら、邦画新作コーナーの棚の前までのこのことやってきた。
「いやー。どーも皆さんお揃いでー。」
「ごきげんよう、脇谷君。」
こいつにそんな礼儀正しく挨拶しないでいいんですよ、沼さん。
「ワッキー何借りに来たン?」
「どうせAVでしょ、ワッキー。」
「ワッキーってAVもワイヤーアクション駆使してるやつ借りてそうだよネ。」
「会って早々失礼なやつらだな!ていうかどんなAVだよ!別の意味で見てみてぇよ!」
ワッキーこと脇谷が根岸&野々村コンビとワイワイやり始めたせいで、後からついてきた浅井は沼さんと対面になってしまうという一番恐れていた事態に陥っていた。
「ごきげんよう、浅井君。」
「…ちっす。沼さん。」
沼さんは、本名は
「えっと…、沼さんって、レンタルビデオとか来るんだ。」
「それはもちろん、来る事もありますが。」
沼さんが敬語なのは、浅井が留年していたからとかではなく、彼女は誰に対しても敬語だからである。
沼さん的には、これでもだいぶフランクな話し方を意識しているらしい。
「もしかして、私のことを噂通りの映画館原理主義の狂信者だと思われていましたか?」
「いやー…そこまでは。」
「ちょっとは思っていたわけですね。」
正直、10割そう思っていた。
黒髪のショートボブにアンダーリムの眼鏡、スラッとした流線型の体格、黒とグレイを基調にしたモノトーンなコーデという見かけはTHE・サブカル女子ながら、表情筋が硬化しているかのような鉄面皮、眼鏡の奥から世界をレーザー照射しているがごとき強烈な眼力、抑揚を抑えきった淡々とした口調でズケズケとものを言うギャップとが、彼女の只者じゃ無さを否応無く際立たせている。
身長は浅井の方が高いはずなのだが、猫背癖で目線が近くなるせいで、浅井は沼さんの強力な眼力を正面からもろに食らい続ける羽目になってしまうのだ。
「大変な誤解です。私に関していろいろと妙な風説が流布しているようですが、全く事実無根です。」
確かに、沼さんにはいろいろと噂が多い。
映画館の映写室で生まれ育ったとか、貴重な上映用プリントフィルムをコレクションしてるとか、大量のパンフレットやチラシを保管するために貸金庫を借りてるとか。
上映中のスクリーンをスマホで撮影していた不埒者を『ファイトクラブ』のブラピみたいにトイレに追い詰めたなどという突拍子もない武勇伝も耳にした覚えがある。
本人は否定しているが、噂のうちの何割かはちょっとは事実に基づいているのではないだろうか、と浅井は訝しんでいる。
「浅井君は、今日は何を借りに?」
「…いや別に、そんな大した用があってきたわけじゃなくて、たまたま別の用事で渋谷来たからついでに寄ってみただけと言うか…。」
大嘘である。
浅井が渋谷の街に来る理由など、TSUTAYA以外には映画館と映画関連のイベントしかない。
「そうですか。」
いつもどおり、沼さんの鉄面皮には特に何の感情の起伏も見られない。
「ちょっと、そこの準新作の棚を見てきますので。」
連れの二人にそう告げると、沼さんはエスカレーター乗り場横に位置する「渋谷フィルムコレクション」DVDコーナーの方へ行ってしまった。
沼さんとさしで対面する緊張感から解放され、内心ほっとしていたところに、根岸さんがいきなりブッこんできた。
「浅井っちってさ、沼っちに対してすごいビビってるよネ。」
「は!?」
予想外の伏兵に仰天しているところに、さらに野々村さんが追い討ちをかけてきた。
「あぁ、分かる。萎縮してるっていうか、遠慮がちっていうか。」
「そ、そんなことは。」
「そーそー、そうなんだよ。浅井センセイったら本当は『地球防衛軍』に沼さん誘いたかったのに、ビビって言い出せなかったんだぜ。」
さらには脇田までが裏切り、おどけて坊主頭をポンポン叩きながら便乗し始めた。
「ちょっ、適当に話盛るな!それに『地球防衛軍』の4Kリマスターはわざわざ俺なんかが誘わなくても沼さんはもちろん見てるに決まってる!」
「そういうとこが萎縮してるってことだろーに。」
からかいモードの脇谷を軽く手で制して、野々村さんがやや真面目なトーンで話し出した。
「沼ちゃん、口には出さないけど結構気にしてるよ。浅井くんに避けられてるの。」
「…沼さんが?」
「だって同じ映画オタク同士なのに、映画トーク全然できてないみたいじゃん。」
意外な話だった。
沼さんからしたら、自分などうるさい小蝿程度の存在でしかないと思っていた。
そもそも浅井にそう思わせるのは、沼さんその人にかつて浴びせられたある言葉に原因があり、それは今でも浅井の魂の奥深くに焼き付いて消えずにいるのである。
そのせいで、極めて近しい映画の趣味を共有しながら、沼さんは遠い存在だった。
美人には違いないし、出来ればお近づきになりたいけど、正直言って苦手意識が拭いきれない。
沼さんとはそういうヒトだった。
少なくとも、今日までの浅井にとっては。
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https://kakuyomu.jp/works/16817330662194818989/episodes/16817330664239253022
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