第8話 膝に悪い着地

 命綱なしのフリーフォール降下を実行に移したセナは、手と足をできるだけ大きく開き、落下速度を可能な限り減速させた。いくら体の大半を機械化したサイボーグであっても、ストレートに十八メートルの高さを落ちてはタダでは済まない。だから彼女は両手を目いっぱいに伸ばして、迫る階下の手すりを掴んで離してを繰り返しながら落下することを選んだ。


〈危険! 腕部に強い衝撃を受けています 衝撃吸収機構作動中!〉

 網膜ディスプレイに警告メッセージが表示される。サイボーグボディは生身よりもはるかに頑丈だが、その分重量も人間の領域を超えている。今、セナの両腕には百数十キロの負荷がかかっていた。地上に到達する頃には、彼女のサイバネアームはオーバーホール必至なほどに各関節を消耗していることだろう。


〈衝撃に備えてください 脚部衝撃吸収機構作動〉

 網膜ディスプレイに今度は別のメッセージが表示された。地上が近いのだ。セナは落下予測地点を確認して、右の手を握り込み振り上げる。


 悲鳴にも似た大きな音が響き渡る。誘拐犯たちが驚きの目で、左膝は立たせ右膝は接着、振り下ろした右拳を車のひしゃげたルーフに突き立てているセナを見た。スーパーヒーロー着地だ! 生身の人間がやろうものならば膝の負傷は免れないだろう。だがセナ・リンゴは無傷だった。なぜならば彼女はサイボーグだからだ。脚部に内蔵された衝撃吸収機構のおかげで、無事に地上までたどり着くことができたのだ!


 誘拐犯たちが落下してきたセナに銃を向ける。コンパージョンキットでサブマシンガン化したハンドガンだ。引き金が引かれ弾丸が発射された。セナはすぐにその場から飛び退き跳躍回避。近くの背の高い花壇の陰へと逃げ込んだ。その手にはすでに銃が握られていた。セナも敵の間隙を縫い応戦する。


「早く乗れ、行くぞ!」

 攻防は長くは続かなかった。車の運転手が仲間を急かし、仲間もそれに従い車に乗り込んだ。その間も制圧射撃を怠らない。

「出せ!」

 肩に弾丸を受けた男が運転手に怒鳴る。肩の傷を痛がる素振りもない。その様子から、セナは男が強化サイボーグであることを見て取った。


 車が発進する。その間もさらに制圧射撃が加えられる。セナは体を丸めて嵐が去るのを待った。仕込みはすでに済んでいる。慌てる必要はない。車が逃げていくのを見送ると、セナはゆっくりと花壇の陰から立ち上がった。その時ちょうどアレッサも階段から駆け下りてきていた。彼女の手にはまだ銃が握られている。誘拐犯たちがすでに逃走した事をまだ知らないアレッサは、辺りを伺いながらセナのいる花壇の方へと近づいてきた。


「奴らは? 連れ去られた人は助けたの?」

 矢継ぎ早に質問するアレッサに対して、セナは大げさに肩をすくめて見せた。それを見たアレッサの目がどんよりとした危険な気配を孕む。

「まさか、取り逃がしたわけ? あれだけ格好つけて落ちていったくせに⁉」アレッサは拳銃を持ったまま頭を抱えてしゃがみこんだ。この傭兵を雇ったのは間違いだったのではないか。そんな疑念が頭をよぎる。


「まあまあ、そんなに肩を落とすことないじゃない。美人が台無しよ」セナはアレッサの肩に手を置いて慰めるように言った。


〈いったい誰のせいだと!〉アレッサはセナの態度に鉛玉をお見舞いしてやろうかと一瞬だけ考えたが、「これなーんだ?」セナの見せてきたビーコン表示付きのムサシ全体マップデータを一目見た瞬間、そんな考えは初めからなかったかのように吹き飛んだ。

「いつの間に……」


「かっこよく落ちた時に、陥没させた車の屋根に仕掛けていたのよ。これでもちゃんと考えてるんだから」セナは得意げに胸を張った。


「やっぱりあなたがいて良かったわ!」銃をホルスターにしまってから、アレッサはそう言ってセナの手をとり固く握った。アレッサが腕をサイバネ置換していれば今頃彼女の腕は高速回転していたことだろう。


「それじゃあ行きますか」セナがニヤリと笑った。

「ええ、そうしましょう」臨時の相棒が猪突猛進なだけのよくいるオンブズマンではない事を身をもって知ったアレッサも笑い返す。出会ってそう長くはないが、彼女になら安心して背中を任せられる。なぜか不思議とそんな直感がアレッサの中に生まれた。




***




 手足を縛られ目隠しをした状態で車に揺られること数十分。ゴンドーは乱暴に車から連れ出された。腕は後ろ手で拘束され顔には袋が被せられており自由に動くことはできず、周囲の様子を確認することもできなかった。背中に硬い物が突きつけられ、先に進むように促される。スニーカー越しの感触から、地面はタイルになっていることが分かった。さらに歩を進めると、背後の男が野太い声でゴンドーを制止した。前方からガコンッと、駆動音がして扉が開くような音がする。「進め」男が進むように促す。ゴンドーは探るようなすり足でエレベーターに乗り込んだ。その後に誘拐犯の男たちも乗り込む。ゴンドーは目隠しのせいでそれに気づくのが遅れ、壁に頭を打ち付けてしまった。誘拐犯のいずれも、ゴンドーを心配する気配はない。エレベーターの扉が閉まり、動き出した。


「っはあっ! はぁはぁ、」

 パイプ椅子に座らせられ、頭の袋を取られたゴンドーは、息苦しさから解放されて天を仰ぎ深く呼吸を繰り返した。しかし頭上を覆うのは青い空ではなく、灰色の天井だ。

〈ここはどこだ〉ゴンドーは周囲を見渡して、自分の置かれた状況を確認しようと試みた。足元には天井よりは濃い色をした灰色のカーペットが敷き詰められていた。視線を横に向ければ全面ガラス張りの窓が右側に見える。どうやら放置された空ビルのようだ。窓の外に見える景色から今いる場所がどこかを知ろうとした。だがその時、彼の頭は大きな手に掴まれて無理やり正面へと向けられた。そのせいで首の左側が痛み出す。


「大人しくしてな、じいさん」ゴンドーの頭を掴んだまま、男が言う。ゴンドーがその言葉を理解したと首を縦に数度振ったのを見ると、男は頭から手を離してゴンドーの視界から外れて背後に回った。それによって前方の視界が開ける。ゴンドーは目の前のテーブルに置かれたノートPCを見た。その画面には男が映っている。男は厚い口髭に覆われた口角を上げてゴンドーに笑いかけてくる。


『ミスターゴンドー、まずは手荒な手段でお連れした事を謝罪させてくれ。俺は火花。あんたに手伝ってほしい事がある。』


 ゴンドーの体内にインストールされているマイクロマシンが自動翻訳で男の言葉を端から翻訳していく。だが旧式ゆえか、所々翻訳される言葉がおかしかった。


「ワシはただの年金暮らしだ。あんたらに協力できることなど何もないぞ」できるだけ平静を装いながらゴンドーが言った。

 だが間髪いれずにモニターに映る男イスクラ、またの名をバザロフが否定する。

『年金暮らし? 嘘が下手だな、ご老体。ただの隠居があれほどに高額な退役年金を貰えるものかよ。あんたはただの老人じゃない、長年軍のサイバー部隊で対ウェブデーモンの作戦に従事してきた人口知能の専門家だ』


「……なぜそれを」知っているのかと問うよりも先に、モニターの表示が切り替わった。ゴンドーは切り替わった画面を目を凝らして見る。大きいとは言えないモニターに表示される無数のウィンドウにコードの羅列。そのすべてに抜けなく目を通すことは、老人には非常に困難なことだった。


『おい、見えるように近づけてやれ。……違うそうじゃない。なんでじいさんの方を動かす! …そうだこれでいい』

 ゴンドーの様子を察したバザロフは、ゴンドーにも表示内容が見えるようPCを近づけるように部下に指示した。控えていた部下の一人がゴンドーの目と鼻の距離にPCとテーブルを移動させ、ゴンドーはようやく内容を把握することができるようになった。


『さあどうぞ、よく読むといい。チャットもある。ファイルの量は膨大だが、あなたなら一番上のファイルを読むだけで我々が何をしてほしいのかがわかることだろう』


 バザロフに言われて、ゴンドーは恐る恐るノートPCに手を伸ばし、装備されたタッチパッドを二本の指先で操作して教えられたとおりに一番上のファイルを開いた。表示されたのはあるウェブデーモンについての記述だった。識別名。捕獲された経緯。実行可能な機能の数々。読み進めるたびに皺だらけの額にさらに深い皺が刻まれる。ウソだ。そんなはずはない。ゴンドーは大脳皮質の奥底に封じ込めてきた数十年前の記憶が蓋の隙間から這い出てくるのを感じた。


「生きていたのか……ジャンブ」

 ゴンドーは驚きのあまりに椅子から立ち上がった。しかしすぐに背後の男に肩を掴まれる。ほぼ放心状態のゴンドーは大人しくそれに従い再び椅子に座った。彼の頭は、行方知れずの友人に再開したという現実を受け止める事で精一杯だった。ジャンブ、一体のウェブデーモン、いや人口知能に名付けたその名を、ゴンドーは何度も頭の中で繰り返した。


〈ほら見ろ、やっぱり知っていた。ちなみにあれはここにはない。あんなに大容量のデータがこんなラップトップ一つに収まるわけがないだろ。まあそんなことはどうでもいい。とにかく分かったと思うが、今我々の手元にはウェブデーモンが存在している〉ゴンドーの意思を無視して説明が続く。〈しかしご存知の通り、ウェブデーモンには何重もの物理ロックに電子ロックがかけられている。現在、その大半を解除することには成功していて、残りも解析しているのだが、二十四番目の電子ロックだけがどうしても解けない。我々が一番欲しいデータは、これを解除しなければアクセスできない。そこであなたの登場というわけだ〉


 バザロフの話を聞いていたゴンドーは、拳を握りしめて自分の膝に押し付けた。そうでもしなければ、これから自分がさせられるだろう行為に耐えきれずにパニックになってしまいそうだったからだ。二十四番ロック、それは、ジャンブという愛称を持つ人口知能が持つ機能の一部にして最大の能力へとアクセスすることを阻む障壁。争いを嫌ったジャンブが、友人と協力して己へと嵌めた枷だった。それを今、ゴンドーは解放しようとしている。友の嫌った力を解き放とうとしている。


 ゴンドーは思った。本当ならば、人口知能の全機能をアクティブ可能な自分が、命を落としてでも止めるべきなのだろう、と。大勢の人々の命とすでにいつ死んでも大往生と言える齢となった自身の命、どちらを優先すべきかは明白だ。〈それでも〉それでも、彼には選べなかった。身体のあちこちにガタが来て、脳細胞の黄金時代はとうに過ぎ去っていることを自覚していながらも、自分を犠牲にして多数を救うことなどゴンドーには出来なかった。彼は自分がそれほど強い人間ではないことを、人生の夕暮れにしみじみと思い知らされた。




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