第2話 御老公
ニッポン キョート
カコーン、カコーン。
チョロチョロと弱い勢いの水を内に溜め込んでいたししおどしが、一定の間隔で頭を下げる。その度に、奥ゆかしい日本庭園に透き通った音が鳴り響いた。その音は、ワビサビを体現した武家屋敷の一室、庭園を一望できる位置の座敷で正座しながら眼前の男を静かに見下ろすクジョウ・ヤツルギ・サダヒラの耳にも届く。
「拝見する」
サダヒラ翁は厳かに言うと、自身の前で深々と平伏するガマガエルのような体型の男が差し出した書状に目を通した。老人の眉間にわずかに皺が寄る。オーガニックタタミの座敷が、重々しい沈黙で満たされる。
「……フム」
そこからさらに五分間ほど沈黙。
「面を上げられよ」そしてようやく、サダヒラは口を開いた。
サダヒラの言葉に従い、平伏していた人物も上体を起こす。
「して、タドコロ君。ここに書かれている情報はいつ頃、どのようにして、もたらされたのかね」サダヒラは、現職の防衛大臣に訊ねた。
「はい、賊によって奪われたことが発覚したのが二日前。そして大まかな逃走ルートの検討がつき、我々に知らせてきたのが、つい十一時間前となります。最新の報告では、連中はムサシに空路から入り込んだとの事です」タドコロの胃が、キリキリと痛む。
「そうか」サダヒラは自慢の庭園に目を向けてため息を吐いた。「あの国の内戦が終結してまだ七ヶ月。だというのに、よくあんな物を保管しておいたものだ。いや、だからこそなのかもしれんな」毛筆のような白いひげに覆われたサダヒラの口がモゴモゴ動く。
「それで、君が私にこれを知らせにきたということは」
「はい。この件は非常に重要であり、なおかつ機密性も高いものとなっております。この事実が表に出れば、国内はパニックとなるでしょう。世間にはおろか、政権内でもごく一部の者を除きこの事は知りません。密やかに速やかに事態を収めねばなりません。そのためにクジョウ・サダヒラ様のお力添えをいただきたく!」タドコロは再び平伏した。彼の言葉はつまり、軍隊や警察組織を大規模導入することはできないという告白だった。
「フム……」サダヒラ老人の脳みその記憶領域が、活発に活動を始めた。再び人間の手に、あの悪夢の如き力が収まってしまった。老人のまぶたの裏に、恐ろしき光景が次々と浮かび上がってくる。燃え盛る街並み。空を覆う爆撃機の群れ。逃げ惑う人々。愚かなテロリストは、再び混沌で世界を覆うつもりなのか。それを行ったが最後、今度こそ人は死に絶えるかもしれない。そのことを果たして彼らは理解しているのだろうか。このままでは、ウェブクライシスが再現されてしまう。それだけはなんとしてでも阻止せねばならない。
「承知した」サダヒラが静かに力強く言った。「クジョウ・ヤツルギ・サダヒラ。御国がため、微力ながら力添えいたす」御年九十三歳であるサダヒラ老人。その鋭い眼光に宿る知性は、いまだ陰りを見せてはいなかった。
一時間後
午後、防衛大臣が屋敷を後にしてからも、サダヒラは座敷にて正座をしていた。その両手は太ももに握りこぶしで置かれ、二つのまぶたは閉じている。一定間隔の呼吸音がして、目を凝らさなければわからないほどに浅く胸が上下する。
眠っている? 否、そうではない。彼は瞑想しているのだ。
ギィ。庭園側のウグイス廊下が鳴いた。サダヒラは静かに目を開きそちらを見る。そこには、奥ゆかしい所作で両手をつき顔を伏せる人物がいた。
「早かったな」
「予定よりも引き継ぎがスムーズに運びましたので」謎の人物は身動き一つせずに応える。ハスキーな女の声だ。
「さっそくだが、君にはこれからムサシへと向かってもらう」
「ムサシ、ですか?」手をついた姿勢が崩れることはなかったが、女の体がピクリと反応した。
「そうだ。賊が入り込んだとの事だ。だが、そこは大した問題ではない。重要なのは、賊がムサシに持ち込んだらしきもの」
「それはいったい?」
「ウェブデーモン」サダヒラの口から、封印されし忌まわしき名が飛び出る。
「⁉ ……なるほど、私を呼び戻した理由がわかりました」女は、己の全身が総毛立つのを感じた。この仕事は、絶対に失敗は許されない。ウェブデーモンの名を聞いて、そう確信した。
「やって、くれるな」
サダヒラが女に問う。有無を言わさぬほどの圧力が乗った重々しい言葉である。この仕事を拒否させるつもりなど、はなからなかった。これは依頼ではない。命令だ。主から走狗への特攻命令なのだ。
「もちろんです。謹んでお受けいたします」
無論、女もこの命令を断るつもりは毛頭ない。ここで断ったとして、それが自分にとって最良の結果をもたらすことは絶対にないと分かっている。主との間に多くの言葉は必要ない。彼は己を信頼してくれているのだ。信頼。一度は裏切られ、野垂れ死にかけた自分にとって、その心地よさは計り知れないものだ。
〈この任務、必ず果たす。クジョウ様の期待。裏切ってなるものか〉
「うむ。うむ。それはよかった。では、一通りの手配はしておく。下がれ」
「ハハアーッ」彼女は一際深く一礼した。
「……死ぬな。必ず生きて帰ってこい」サダヒラの口から激励の言葉がこぼれ出る。彼は自身の発言に驚きを覚えた。部下がサダヒラを信じているように、サダヒラもまあ部下を信じている。だから普段ならば励ましの言葉などわざわざかけることはない。しかし、今回ばかりはサダヒラも最悪の結果を頭の片隅から追い出せずにいた。そのせいで今のような発言をしたのだ。
顔を上げた女は、サダヒラの言葉に若干の驚きを浮かべたが、すぐに顔をほころばせて微笑み言った。
「大丈夫ですよ。必ず成功させます。吉報をお待ちください」
彼女の白い肌を、穏やかな風に揺らされた銀の髪が撫でる。
「うむ」サダヒラはその言葉にうなずき返す。
女は静かに座敷を後にした。
「しゃれこうべ笑う松の庭、地獄の沙汰にも似たりかな」
女が去った後、サダヒラは庭園を眺めながらふと湧き上がってきた詩を詠んだ。そしてすぐに首を横に振る。戯れにしてもひどい出来だ。それに縁起でもない。やめよう。慣れぬ暇つぶしなどするものではない。いまはただ、彼女が任務を成功させることを願うだけだ。
サダヒラは、再び深い瞑想状態へと入っていった。
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