其の参 人を尻から喰らう術

「ただいま戻りました」


 そのとき、抑揚に乏しい幼女の声が聞こえてきた。


 荒屋あばらやに引き返していた拙者は、ちょうど叔父の頭に包帯を巻き終えたところだった。反射的に半壊した玄関を振り返る。


 戸口に無表情のアリスが立っており、その背後には充真じゅうま伊能いよくの姿があった。


「実に不用心な玄関なんよ」

「竜巻でも直撃したのか」


 壊れた玄関に一言ずつ感想を述べると、二人はアリスに続いて屋内へ入ってきた。


「よう是周これちか、こんなところで会うなんて奇遇だな!」


 拙者の存在に気づくと、充真はわざとらしく笑顔を浮かべて軽口を叩いた。伊能は何も言わなかったが、挨拶代わりに小さく右手を挙げた。


「再会できて何よりだ充真、それに伊能もな」

「でも救助がなければ、今頃はまだ牢獄の中だったんよ」


 二人は里の連中に捕まり、一度は拒想石きょそうせきの檻に捕えられたという。それをアリスの口利きで釈放させたのだ。大凡おおよそ、叔父が予想した通りの展開だった。


「それで、あたいたちを助けてくれた金髪幼女と、そっちの包帯頭の男は誰なん?」

「是周、随分と疲れた顔してるな。壊れた玄関といい、何かあったのか?」


 伊能と充真から同時に質問を浴びる。拙者は、叔父とアリスを紹介したあと、黒装束襲来の件を二人に話した。


「そいつはまた恐ろしいヤツに狙われたもんだ。でも標的の緒方は無事だったんだろ?」

「いや、それが……」


 思わず言いよどむ。それは、彼女の状態が「無事」と呼べるか微妙だったからだ。


「おいおい、まさか最悪の事態なのか?」


 鷹揚おうように構えていた充真が、そんな拙者の態度を見て険しい表情を浮かべた。


 何か誤解をしているようだ。ここは速やかに真実を伝え、彼の思い違いを正さなければならない。だが「文字」のことは緒方から口止めされている。さて、どう切り出したものか。


 拙者が逡巡しゅんじゅんしていると、隣室のふすまがスパーン、壊れそうな勢いで左右に開いた。


「ちょっと芦辺君、私が死んだみたいになってるじゃない!」


 聞き耳を立てていたのか、左手で額を隠した緒方が、ムスッとした表情で囲炉裏端に現れる。


 拙者は大袈裟に溜め息をいた。


「それは緒方が部屋に閉じ籠もっていた所為せいだろ。もう額のそれは大丈夫なのか?」

「包帯で隠すから問題ないわ。陰であれこれ言われる方が嫌だもの」


 不機嫌そうに答えると、緒方はこちらに向かって右手を差し出した。拙者の手元にある包帯を要求したのだ。叔父の怪我は処置を終えていたので、拙者は残りの包帯を素直に手渡そうとする。だが――


 伊能がそれを横からかすめ取った。更に緒方の右手首を無造作に掴むと、彼女は唇の端を吊り上げてニヤリ。悪いことを考えている顔だ。


「ちょ、何のつもり?」

「ねえ緋雨ひさめちゃん」

「馴れ馴れしく呼ばないで」

「あたいのこともみやびって呼んでいいんよ。それより緋雨ちゃん、その隠してる額はどうしたん? もしかして怪我してるのかな? んん?」


 揶揄やゆするような、あるいは挑発するような口調で伊能が言う。


「貴方には関係ないわ。悪巫山戯わるふざけしてないで、さっさとその包帯を渡してちょうだい」

「いひひひ、つれないこと言わないんよ。ほらほら、包帯ならあたいが巻いてあげるから」

「や、余計なことしな――」

「遠慮は要らないんよ。素敵な課外授業をプレゼントしてもらったし、そのお礼ってね」


 どうやら、まだ期末試験の延期を根に持っているらしい。


 伊能は包帯を投げ捨てると、額にてがった緒方の左手もむんずと掴んだ。奇妙な形で二人の両手が塞がる。そこから少しずつ力を加える伊能と、狼狽うろたえながらも抵抗する緒方。


 囲炉裏端に座る叔父が、そんな二人のり取りを気の毒そうに眺めていた。拙者は触らぬ神に祟りなし――とばかりに傍観を決め込む。充真だけが、未だに状況を呑み込めずにキョトンとしているのだった。


「ま、待って!」

「早く手当てするんよ。まずは緋雨ちゃんの額をご開帳ぉ〜」


 伊能は嬉しそうに言うと、力ずくで緒方の左手を引き剥がした。


「あ……」


 ハラリと落ちかかる前髪。だが、それだけではあらわになった額は隠れない。そして拙者たちの前にさらされたのは――


「人喰い便器?」


 普段は無愛想なアリスが、ここぞとばかりに首を傾げて愛らしく読み上げる。その横書きの五文字は、赤黒い流血じみた書体で、緒方の額にデカデカと書き込まれていた。


 意図については不明だが、便遁べんとん使いの彼女にとっては屈辱的な悪口だ。


「見ないで」


 緒方は涙声で言うと、すぐに解放された手で額を隠し、そのままそっぽを向いてしまった。


「妹を流されたから意趣返しって感じ? 芦辺、あんた渾名あだなのセンスないんよ」

「おい待て、それは拙者の落書きではないぞ!」


 勝手に拙者の仕業と断じて駄目出しをしながら、それでも伊能はバレバレの忍び笑いを満面に貼りつけている。単に緒方の不幸が愉快だったのだろう。何と性悪な!


「まったく……」


 拙者は可哀想な緒方の頭に包帯を巻くと、叔父に「文字」のことを訊ねてみた。


「叔父上。緒方の額の文字は洗っても消えないらしいのですが、何かご存知ないですか?」

「ああ、あれは血掌けっしょう封珠ほうじゅの血文字だよ。だから汚れを落とすようには消せないんだ」


 どうやら何か知っているらしい。


「えーと、けっしょうほうじゅ……というのは?」

「対象に『任意の性質』を付与する、ちょっと趣味の悪い攻撃用の忍具さ」


 忍具の開発が趣味である叔父は、妹遁と関係ない忍具にも精通しているようだった。拙者が促すまでもなく、待ってましたとばかりに蘊蓄うんちくを傾けてくる。


「ちなみに形は球状で、大きさは手の平サイズ。中には術者本人の血が封入されている。対象に叩きつけ、破裂させて使う忍具だ。使用時には封入された血が飛び散るよ」

「よく分からない忍具ですね」

「血で膨らませた水風船、と言えばイメージし易いかな。そしてその血には悪しき妄想が練り込まれていて、浴びた者は呪術的な不利益をこうむるんだ。その内容は様々だけど、浴びた箇所に血文字となって浮かび上がる。緒方君の場合は額だね」

「じゃあ『人喰い便器』というのは……」

「うん。緒方君が具現化する便器に、凶暴な人喰いの性質を植え付けたってことさ」


 比喩の類ではなく、文字通りの人喰い――人に噛みつく便器というわけだ。


「そんな忍具があるのか」


 拙者は腕組みをして唸った。


 緒方は先刻の黒装束との戦いで、その額に血掌封珠を叩きつけられた。致命的と思えた流血は、彼女のそれではなく忍具から溢れ出たものだった。そして緒方は、まんまと人喰い便器の属性を付与されてしまったのだ。


 血掌封珠を使ったのが八千代なら、それを作ったのは父上ということになるが……


「呑気にしてる場合かよ。凶暴化した緒方が人喰い便器をけしかけてくるぞ!」


 叔父の説明をどう捉えたのか、充真が警戒心を剥き出しにして叫ぶ。


 むしろ緒方は守ってあげたいくらい弱っていたが、額を隠すという行為が充真に悪い印象を与えたらしい。きっと、良からぬことを企んでいると思われたのだ。


 拙者は充真の勘違いを指摘しようとしたが、それより先に叔父が口を開いた。


「ちょっと言葉が足りなかったようだね。凶暴性が付与されたのは妄想のみだよ。つまり緒方君自身は正気だけど、具現化した便器が術者の意に反して暴れるんだ」


 悄気しょげていた緒方がつと顔を上げ、叔父の補足説明に小さく頷いた。


「叔父様の仰る通りよ。さっき隣の部屋で具現化してみたら、牙の生えた便座に噛まれそうになったわ。悔しいけど私の便遁は、人を尻から喰らう術に成り果ててしまったの!」


 それは便器の底から噴き上がるような悲痛の叫びだった。


 尻に噛みつく便座であれば罠に使えそうだが、むろん制御できなければ意味がなく、何より便遁使いの流儀に反している。手に負えぬ「猛便器」では緒方が嘆くのも仕方なかった。


 だが、そんな彼女の嘆きを聞くかたわらで、拙者はこっそり安堵していた。黒装束の冷酷無比な印象が大きく薄れたからだ。


 便器に凶暴性を付与したのは、緒方の忍法を心理的に封じるがゆえだった。つまり、まわりくどい方法で「便器を始末した」のである。言い換えれば、最初から緒方を殺す予定はなかったということ。そう、八千代が他人の命を奪うはずがないのだ。そして、もちろん父上も。


「叔父様、この文字を――この忍具の効果を打ち消す方法はないのですか?」


 緒方がすがるような目で叔父に質問する。


「血掌封珠は、作った本人じゃないと解くのは難しいね。申し訳ないけど僕には無理だよ」

「あぅ……」


 叔父の返答を聞くと、緒方はガックリ肩を落として落胆の声を漏らした。


「まあ、あんまり気に病むなって。何なら、景気づけに俺のバンダナを貸してやろうか?」


 充真が、己の頭に巻いた美乳バンダナを誇らしげに示す。


「バカじゃないの! どうして私がヘンタイ属性まで付与されなきゃならないのよ!」


 そんな充真に罵倒を浴びせると、緒方は恐ろしい形相で彼を睨みつけた。怒る元気が残っているなら当面は心配なさそうだ。


「それにしても、緋雨ちゃんをここまで虚仮こけにした黒装束。あたいも一度でいいから手合わせしてみたかったんよ。でも残念。川に身投げして、もうこの世には居ないんよね?」

「あ、ああ……」


 拙者は、伊能の問いかけにうわの空で答えを返した。


 あのとき黒装束は――つまり八千代は、朱晴すばる川に呑まれてその姿を消した。落ちたら助からない激流に、自ら進んで身を躍らせたのだ。どうしてそんな方法を取ったのだろうか。


 普通に考えるなら、それは任務を与えた父上が指示したことだ。だが、任務の為に娘の命を犠牲にするなんて、果たしてあり得るのだろうか。忍者である以前に父親として。


「……」


 いや、父上がそんな時代錯誤なことをするはずがない。拙者は心の中で否定した。何にせよ、まずは八千代の安否を確認するのが先決だ。取り敢えず叔父の意見を聞いてみよう。


「例の黒装束ですが、川を泳いで逃げ延びたという可能性はありませんか?」

「うーん……。絶対にないとは言えないけど、限りなくゼロに近いかな」

「そうですか」


 拙者は自責の念に苛まれた。


 あのとき退路を断って突進しなければ、黒装束は別の方法で逃げたかもしれないのだ。もちろんそんな推量は無意味なのだが、拙者はそう考えずにいられなかった。


「芦辺君、ずっと黒装束のことを心配してるみたい。もしかして正体を知ってるの?」


 そのとき、微かな疑念をにじませて緒方が訊ねた。


 拙者は胸中で狼狽する。まだ八千代のことは伏せておきたかったので、シドロモドロになりながら答えを返した。


「いや拙者は、その、つまりあれだ、心配しているというか、要するに――」

「やだ、そんなに慌てないで。ただの冗談よ。それより、そろそろ出立の準備をしない?」


 緒方が不意に話題を変えたので、拙者はその機を逃すまいと尻馬に乗った。


「そうだな、出立だ。うむ。それで何処どこへ行くのだ?」

「何を言ってるの、比賀ひがの里でしょ? まさか芦辺君、私が便遁を封じられたからって、協力関係を反故にするつもりじゃないわよね?」

「い、いや、そんなことは微塵も思ってないぞ」


 むしろ、彼女の積極的な姿勢に惹かれるくらいだった。便遁を封じられたばかりで、もう先のことを見据えているのだから。これぞ虚心坦懐だ。拙者も八千代のことを悩んでいないで、そろそろ気持ちを切り替えなければならない。


「もちろん協力関係は継続だ。今すぐ比賀へ行こう!」


 そう、彼女を見習って今できることをする。つまり比賀の里へ向かうのだ。


「あ、ならあたいも行くんよ」

「じゃあ俺も」


 気楽な同行希望者が約二名、こちらの事情も知らずに手を挙げる。


 そしてズルズルと話は決まり、拙者たちは四人で比賀の里を目指すことになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

拙者の妹 川奈雅礼 @kawana_gare

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ