其の参 人を尻から喰らう術
「ただいま戻りました」
そのとき、抑揚に乏しい幼女の声が聞こえてきた。
戸口に無表情のアリスが立っており、その背後には
「実に不用心な玄関なんよ」
「竜巻でも直撃したのか」
壊れた玄関に一言ずつ感想を述べると、二人はアリスに続いて屋内へ入ってきた。
「よう
拙者の存在に気づくと、充真はわざとらしく笑顔を浮かべて軽口を叩いた。伊能は何も言わなかったが、挨拶代わりに小さく右手を挙げた。
「再会できて何よりだ充真、それに伊能もな」
「でも救助がなければ、今頃はまだ牢獄の中だったんよ」
二人は里の連中に捕まり、一度は
「それで、あたいたちを助けてくれた金髪幼女と、そっちの包帯頭の男は誰なん?」
「是周、随分と疲れた顔してるな。壊れた玄関といい、何かあったのか?」
伊能と充真から同時に質問を浴びる。拙者は、叔父とアリスを紹介したあと、黒装束襲来の件を二人に話した。
「そいつはまた恐ろしいヤツに狙われたもんだ。でも標的の緒方は無事だったんだろ?」
「いや、それが……」
思わず言い
「おいおい、まさか最悪の事態なのか?」
何か誤解をしているようだ。ここは速やかに真実を伝え、彼の思い違いを正さなければならない。だが「文字」のことは緒方から口止めされている。さて、どう切り出したものか。
拙者が
「ちょっと芦辺君、私が死んだみたいになってるじゃない!」
聞き耳を立てていたのか、左手で額を隠した緒方が、ムスッとした表情で囲炉裏端に現れる。
拙者は大袈裟に溜め息を
「それは緒方が部屋に閉じ籠もっていた
「包帯で隠すから問題ないわ。陰であれこれ言われる方が嫌だもの」
不機嫌そうに答えると、緒方はこちらに向かって右手を差し出した。拙者の手元にある包帯を要求したのだ。叔父の怪我は処置を終えていたので、拙者は残りの包帯を素直に手渡そうとする。だが――
伊能がそれを横から
「ちょ、何のつもり?」
「ねえ
「馴れ馴れしく呼ばないで」
「あたいのことも
「貴方には関係ないわ。
「いひひひ、つれないこと言わないんよ。ほらほら、包帯ならあたいが巻いてあげるから」
「や、余計なことしな――」
「遠慮は要らないんよ。素敵な課外授業をプレゼントしてもらったし、そのお礼ってね」
どうやら、まだ期末試験の延期を根に持っているらしい。
伊能は包帯を投げ捨てると、額に
囲炉裏端に座る叔父が、そんな二人の
「ま、待って!」
「早く手当てするんよ。まずは緋雨ちゃんの額をご開帳ぉ〜」
伊能は嬉しそうに言うと、力ずくで緒方の左手を引き剥がした。
「あ……」
ハラリと落ちかかる前髪。だが、それだけでは
「人喰い便器?」
普段は無愛想なアリスが、ここぞとばかりに首を傾げて愛らしく読み上げる。その横書きの五文字は、赤黒い流血じみた書体で、緒方の額にデカデカと書き込まれていた。
意図については不明だが、
「見ないで」
緒方は涙声で言うと、すぐに解放された手で額を隠し、そのままそっぽを向いてしまった。
「妹を流されたから意趣返しって感じ? 芦辺、あんた
「おい待て、それは拙者の落書きではないぞ!」
勝手に拙者の仕業と断じて駄目出しをしながら、それでも伊能はバレバレの忍び笑いを満面に貼りつけている。単に緒方の不幸が愉快だったのだろう。何と性悪な!
「まったく……」
拙者は可哀想な緒方の頭に包帯を巻くと、叔父に「文字」のことを訊ねてみた。
「叔父上。緒方の額の文字は洗っても消えないらしいのですが、何かご存知ないですか?」
「ああ、あれは
どうやら何か知っているらしい。
「えーと、けっしょうほうじゅ……というのは?」
「対象に『任意の性質』を付与する、ちょっと趣味の悪い攻撃用の忍具さ」
忍具の開発が趣味である叔父は、妹遁と関係ない忍具にも精通しているようだった。拙者が促すまでもなく、待ってましたとばかりに
「ちなみに形は球状で、大きさは手の平サイズ。中には術者本人の血が封入されている。対象に叩きつけ、破裂させて使う忍具だ。使用時には封入された血が飛び散るよ」
「よく分からない忍具ですね」
「血で膨らませた水風船、と言えばイメージし易いかな。そしてその血には悪しき妄想が練り込まれていて、浴びた者は呪術的な不利益を
「じゃあ『人喰い便器』というのは……」
「うん。緒方君が具現化する便器に、凶暴な人喰いの性質を植え付けたってことさ」
比喩の類ではなく、文字通りの人喰い――人に噛みつく便器というわけだ。
「そんな忍具があるのか」
拙者は腕組みをして唸った。
緒方は先刻の黒装束との戦いで、その額に血掌封珠を叩きつけられた。致命的と思えた流血は、彼女のそれではなく忍具から溢れ出たものだった。そして緒方は、まんまと人喰い便器の属性を付与されてしまったのだ。
血掌封珠を使ったのが八千代なら、それを作ったのは父上ということになるが……
「呑気にしてる場合かよ。凶暴化した緒方が人喰い便器を
叔父の説明をどう捉えたのか、充真が警戒心を剥き出しにして叫ぶ。
むしろ緒方は守ってあげたいくらい弱っていたが、額を隠すという行為が充真に悪い印象を与えたらしい。きっと、良からぬことを企んでいると思われたのだ。
拙者は充真の勘違いを指摘しようとしたが、それより先に叔父が口を開いた。
「ちょっと言葉が足りなかったようだね。凶暴性が付与されたのは妄想のみだよ。つまり緒方君自身は正気だけど、具現化した便器が術者の意に反して暴れるんだ」
「叔父様の仰る通りよ。さっき隣の部屋で具現化してみたら、牙の生えた便座に噛まれそうになったわ。悔しいけど私の便遁は、人を尻から喰らう術に成り果ててしまったの!」
それは便器の底から噴き上がるような悲痛の叫びだった。
尻に噛みつく便座であれば罠に使えそうだが、むろん制御できなければ意味がなく、何より便遁使いの流儀に反している。手に負えぬ「猛便器」では緒方が嘆くのも仕方なかった。
だが、そんな彼女の嘆きを聞く
便器に凶暴性を付与したのは、緒方の忍法を心理的に封じるが
「叔父様、この文字を――この忍具の効果を打ち消す方法はないのですか?」
緒方が
「血掌封珠は、作った本人じゃないと解くのは難しいね。申し訳ないけど僕には無理だよ」
「あぅ……」
叔父の返答を聞くと、緒方はガックリ肩を落として落胆の声を漏らした。
「まあ、あんまり気に病むなって。何なら、景気づけに俺のバンダナを貸してやろうか?」
充真が、己の頭に巻いた美乳バンダナを誇らしげに示す。
「バカじゃないの! どうして私がヘンタイ属性まで付与されなきゃならないのよ!」
そんな充真に罵倒を浴びせると、緒方は恐ろしい形相で彼を睨みつけた。怒る元気が残っているなら当面は心配なさそうだ。
「それにしても、緋雨ちゃんをここまで
「あ、ああ……」
拙者は、伊能の問いかけに
あのとき黒装束は――つまり八千代は、
普通に考えるなら、それは任務を与えた父上が指示したことだ。だが、任務の為に娘の命を犠牲にするなんて、果たしてあり得るのだろうか。忍者である以前に父親として。
「……」
いや、父上がそんな時代錯誤なことをするはずがない。拙者は心の中で否定した。何にせよ、まずは八千代の安否を確認するのが先決だ。取り敢えず叔父の意見を聞いてみよう。
「例の黒装束ですが、川を泳いで逃げ延びたという可能性はありませんか?」
「うーん……。絶対にないとは言えないけど、限りなくゼロに近いかな」
「そうですか」
拙者は自責の念に苛まれた。
あのとき退路を断って突進しなければ、黒装束は別の方法で逃げたかもしれないのだ。もちろんそんな推量は無意味なのだが、拙者はそう考えずにいられなかった。
「芦辺君、ずっと黒装束のことを心配してるみたい。もしかして正体を知ってるの?」
そのとき、微かな疑念を
拙者は胸中で狼狽する。まだ八千代のことは伏せておきたかったので、シドロモドロになりながら答えを返した。
「いや拙者は、その、つまりあれだ、心配しているというか、要するに――」
「やだ、そんなに慌てないで。ただの冗談よ。それより、そろそろ出立の準備をしない?」
緒方が不意に話題を変えたので、拙者はその機を逃すまいと尻馬に乗った。
「そうだな、出立だ。うむ。それで
「何を言ってるの、
「い、いや、そんなことは微塵も思ってないぞ」
むしろ、彼女の積極的な姿勢に惹かれるくらいだった。便遁を封じられたばかりで、もう先のことを見据えているのだから。これぞ虚心坦懐だ。拙者も八千代のことを悩んでいないで、そろそろ気持ちを切り替えなければならない。
「もちろん協力関係は継続だ。今すぐ比賀へ行こう!」
そう、彼女を見習って今できることをする。つまり比賀の里へ向かうのだ。
「あ、ならあたいも行くんよ」
「じゃあ俺も」
気楽な同行希望者が約二名、こちらの事情も知らずに手を挙げる。
そしてズルズルと話は決まり、拙者たちは四人で比賀の里を目指すことになった。
拙者の妹 川奈雅礼 @kawana_gare
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