其の弐 死を呼ぶ黒いネタバレ
緒方、黒装束、少し遅れて拙者――の順で屋外へ出た。
裏口の先に道はなく、なだらかな
緒方は丘陵の
「本当に私が狙いなの? まったく意味が分からない。やめてよね、もう!」
珍しく泣き言を漏らした彼女は、黒装束の意図が掴めず混乱しているようだった。
「おい緒方、今は余計なことを考えるな!」
拙者は走りながら叫ぶ。
そうこうしているうちに、前を行く二人の姿が
丘陵の先は開けた草地だった。拙者は緒方の気配を求めて視線を走らせる。すると、その光景は探す手間もなく視界に飛び込んできた。
「こ、これはいかん……!」
中州の端に、追い詰められて立ち尽くす緒方の姿があった。
拙者は草を蹴散らし、向かい合う二人の
――そこに漂う微かな違和感。そして拙者は「それ」に気づいた。気づいてしまった。
何と黒装束は、その頭部に黒い三角巾を着けていたのだ。正面から見たのでは分かりにくいが、顔全体を覆う布とは別に、頭部を黒い三角巾で隠していたのである。
「ぐぬぅぅぅ」
拙者は低く
正体を隠そうとしているのに三角巾だけは手放せない。そんな特殊な嗜好を持つ者は、拙者の知る限り一人しかいなかった。小柄で怪力という特徴だけなら逃げ道もあったが、ここまで条件が揃ってしまえば見過ごせない。ほぼ確証を得られた格好だった。
――そう。やはり最初に
もちろん信じたくはなかった。願わくは、三角巾マニアの空似であって欲しい。
だが黒装束の次なる行動が、拙者の切なる願いに追い討ちをかけた。どこに隠し持っていたのか、実に「八千代っぽい武器」を構えたのだ。
「あれは……
黒装束が構えたのは黒い鉄扇だった。文字通り鉄で作られた扇子型の武器だ。大きさこそ異なるが、拙者の朝修業で使うハリセンを
拙者は複雑な思いで両者の出方を
黒装束が武器を取り出したことで、逃げ腰だった緒方も腹を決めたらしい。切れ長のクールな目に力強い光を宿す。彼女は個室をドロン、脇に具現化してドアを開けると、素早くトイペを二ロール取り出して攻勢に出た。
「
両手から二条のトイペが飛び出し、変幻自在の軌道で宙を
それは妄想コンテストで拙者も味わった、あのクセになりそ……いや、あの厄介極まりない捕縛術だった。
シュルリと白蛇のように伸びたトイペが、黒装束の手元に達して鉄扇を絡め取る。
――そう見えた。しかし実際はそうではなかった。黒装束は鮮やかに鉄扇を
拙者は思わず
「……や、やるわね」
緒方はトイペの攻撃を中断すると、再び個室に手を伸ばしてラバーカップを取り出した。
「悪いけど、ここからは本気で――」
だが、緒方が攻撃するより早くラバーカップは弾き飛ばされた。黒装束が一足飛びで距離を潰し、黒い鉄扇を彼女の手首に叩き込んだのだ。宙を舞ったラバーカップは、綺麗な放物線を描いて朱晴川に水没した。
「くっ、ならばもう一度……」
しかし実力差は明らかだった。ここで再度ラバーカップを具現化しても、妄想オーラの無駄遣いにしかならないだろう。どう
「逃げろ緒方、もう戦うな!」
拙者はそう叫ぶと、無我夢中で黒装束の背中にしがみついた。
あの怪力に無手で挑むのは無謀だが、どのみち今の拙者は
とはいえ、決して
「貴方はどうするの芦辺君?」
「拙者なら大丈夫。狙われてるのはおまえだけだ!」
拙者は自信を持って答えた。この戦いは、緒方を守り抜けば勝ちも同然なのだ。
しかし裏の事情を知らない彼女は、一人で素直に撤退しようとはしなかった。拙者の行為を捨て身の戦法と判断したのだろう。
「貴方一人を残して行けないわ。待ってて芦辺君、今助けてあげるから」
「いや、拙者のことは捨て置くのだ! ここでおまえが戦ったら――」
慌てて制止しようとしたが遅かった。
緒方は複式の術で便器を具現化すると、黒装束の脚に向かって鋭い蹴りを放ったのだ。
「喰らえ
それを見た瞬間、拙者は無意識に戦うことを選択した。緒方の蹴りにタイミングを合わせ、背後から黒装束の体勢を崩そうとする。最悪、八千代を便器に流し込むことになるが、ここで手心を加える余裕などない。今はただ緒方を守る為、厠封じの術を援護する。
だが思い通りにならなかった。
黒装束は、しがみついた拙者を強引に払い落とすと、同時に恐ろしい身軽さで緒方の蹴りを
――ピシィィィィーン!
開けた草地に乾いた音が響く。
「……!」
拙者の脳裏に、吹き飛んで川に落ちる緒方の姿が思い浮かんだ。しかし、鉄扇の標的は彼女ではなく、その脇に鎮座する白い便器だった。
打ち上げ花火のように急角度で吹き飛んだそれは、見る間に
「そんな……」
緒方の声に恐怖と絶望が
「よし、いいぞ緒方。そのまま一気に突っ走れ!」
遠ざかる緒方の背に声を投げる。
だが、そのまま逃げ
低く構えた黒装束が、広げた鉄扇を手裏剣のように放ったのだ。それは、地面スレスレを物凄い速さで飛び抜けると、辺りの雑草を回転しながら刈り散らした。数瞬で緒方に迫り、その両脚を一緒くたに
「あっ……!」
……実に危うい状況だ!
拙者は、彼女に駆け寄るべく急いで立ち上がった。だが、黒装束に振り落とされた際に背中を打ち、その痛みで思うように動けなかった。そんなモタつく拙者には目もくれず、黒装束は緒方を押し倒して馬乗りになる。体重差を感じさせない力強い
「芦辺君、たっ、助け――」
仰向けに組み伏せられてジタバタする緒方。その動きを腕力だけで封じた黒装束は、彼女の額に容赦なく
ゴッという鈍い音がして、派手に鮮血が飛び散る。緒方の身体は電撃を受けたようにビクンと跳ね、そのまま動かなくなった。
「お、緒方ぁ!」
拙者は思わず叫んだ。
その眼前で、何事もなかったように黒装束が立ち上がる。それは冷徹な殺人鬼が、ただ本能のままに仕事を終えて引き上げるような所作だった。
拙者は呆然と、倒れている緒方に視線を向けた。彼女に動く気配はない。その頭部は、大量の出血により赤く染まっていた。
「まさか『死』……」
ふと脳裏に押し寄せる不吉な
だが拙者は
認めない。認めてはいけない。緒方の死も黒装束の正体も、拙者は認めなかった。まだ緒方は生きているし、八千代も平然と人を
「まずは貴様の化けの皮を
不安を怒りに変え、背中の
だが次の瞬間、拙者は思いがけず怒りの矛先を失った。
黒装束がクルリと背を向け、
「馬鹿な!」
それは自殺行為だった。
泳ぐことのできない激流。越えることのできない絶壁。そして下流には、大きな滝壺が口を開けて待ち構えている。この中州より西側に、逃げられる場所など一つもない。川に落ちれば一巻の終わりなのだ。
あの黒装束がどれほど凄腕であろうと、自然の脅威に抗えるとは思えなかった。
「緒方が始末できれば自分の命は要らないというのか……?」
急流に呑まれて遠ざかる黒い人影を、拙者はただ
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