第四章 立ち塞がる者たち

其の壱 狙われた便器

 ――翌朝、拙者は朝餉あさげの香りに誘われて目を覚ました。


 囲炉裏端の布団に座した叔父が、その気配を察して人懐ひとなつこい笑顔を浮かべる。


「やあ、おはよう是周これちか君」

「おはようございます、叔父上」

「昨夜はよく眠れたかい?」

「はい、おかげさまで。……えーと、緒方はまだ寝ているのですか?」


 隣の部屋へ通じるボロボロのふすま見遣みやり、拙者はそう問いかけた。


 狭い土間に寝床を敷いた拙者たち「男子組」と違い、緒方とアリスの「女子組」は隣の座敷を使用したのだ。密室で幼女と過ごす緒方がうらや……もとい、畳の上で伸び伸び寝られる緒方が羨ましい限りだった。


「私ならうに起きてるわよ。人を寝坊助ねぼすけみたいに言わないでくれる?」


 拙者の問いかけに緒方本人が応える。


 その不機嫌そうな声は、座敷ではなく炊事場の方から聞こえてきた。


「叔父上、緒方は炊事場で何をしてるのですか?」

「ああ、朝食を作ってるんだよ。宿泊費が払えないから、その代わりだってさ」


 拙者が小声で訊ねると、叔父も耳打ちするように答えを返した。


 なるほど、それで緒方は早くから起き出したのか。なかなか義理堅い一面もあるようだ。


 しかしそうなると、拙者もおいという立場に甘えていられなかった。何かしら体裁を取り繕う必要がある。このままでは緒方に負けたみたいで気分も悪い。


 拙者は叔父に断りを入れると、取り敢えず外に出て家の周囲を歩いた。何か自分に手伝えることはないだろうか。そう考えて辺りを見まわすと、軒下に積まれた大量のまきが目に入った。


「これだ!」


 すぐにビビッと来た拙者は、さっそく脳内イメージ通りに薪でジェンガを始めた。ジェンガというのは、積み上げられたパーツを崩れないように抜き、最上段に積み直すという例のテーブルゲームのことである。それを薪ヴァージョンでソロプレイしたのだ。


 結果は上々だった。大きなジェンガは迫力があり、崩れたときの派手な音も痛快だ。


「ふむ。拙者が考案した薪ジェンガを、この娯楽のない罪賀さいがで流行らせてやるぞ。そうすれば叔父上の退屈しのぎにもなるだろう。一宿一飯のお礼に相応しい」


 遠大な計画に満足した拙者は、軒下のエントロピー増大に微かな罪悪感を覚えながら屋内に戻った。叔父が不安そうにこちらを見つめている。


「何やら表で大きな音がしていたけど、何だったのかな是周君?」

「え、いやあれは何というか、その……」

「お待たせ」


 拙者が返答にきゅうしていると、ちょうど良いタイミングで緒方の声が聞こえてきた。叔父が話を中断したので、拙者もこれ幸いと黙り込んで緒方を見る。白いエプロンを掛けた彼女は朝食を運んでいる途中だった。その家庭的な姿に思わずドキッとする。


「御免なさい、昨日と同じメニューだけど」


 緒方が申し訳なさそうに言う。使える食材が昨日と同じなら、メニューが被ってしまうのは仕方がない。目玉焼きの代わりに厚焼き玉子を作ったのは、彼女なりのささやかな工夫か。


「済まないね、緒方君」

「いえ、この程度のことしかできませんが」

「充分だよ。ではさっそく頂こうか」

「はい、どうぞお召し上がりください」

「叔父上、あの……アリスは待たなくていいのですか?」


 朝食の席には金髪幼女の姿がなかった。


 彼女は妄想の妹なので食事を必要としない。だが常時具現型ということは、寝食や風呂さえも共にできる究極の妹なのだ。それをないがしろにするのは自分の妹でなくとも心苦しい。


「アリスなら朝一番で牢獄へ向かわせたよ。是周君のお友達が軟禁されてると思ってね」


 どうやら充真じゅうま伊能いよくを迎えに行ったようだ。それは実に有難いことだが、アリス抜きで朝食を頂くのは違うような気がした。妹を愛でる者として、叔父は何も思わないのだろうか。


 拙者が箸を付けずに躊躇っていると、やがて玄関の戸がガタガタと音を立て始めた。


「アリスが帰ったみたいですよ!」


 つい声を弾ませてしまう。


 家族の食卓を大事にしたいという思いが、無意識に拙者の口をいて出たのだ。


「いや、アリスにしては早すぎるね。しかし来客の予定もなかったはず。……はて?」


 叔父は面倒臭そうに箸を置くと、ポリポリと頭を掻きながら玄関に立った。招かれざる来訪者に気怠けだるげな声をかける。


「はい、どちら様で――」


 その刹那せつな


 突然ドカンという激しい音を立てて戸板が弾けた。正面にいた叔父が、巻き込まれて後ろの壁まで吹き飛ぶ。後頭部を打つと、彼はその場で崩れるように倒れ伏した。


 屋内が、突如として剣呑けんのんな空気に包まれる。


「お、叔父上っ!」


 拙者は叫ぶと同時に立ち上がり、濛々もうもうと立ち込める煙を潜って叔父の元へ駆け寄った。


「大丈夫ですか、叔父上?」

「……」


 叔父は呼びかけに反応しなかった。だが手首を取ると脈が確認できたので、ただ気を失っているだけだと分かる。命に別状はなさそうだった。


 流血する叔父の頭を抱えると、拙者は戸口に向かって怒りの視線を放った。


 朝日を背に立っていたのは小さな人影だった。アリスほどではないが短身で、およそ戸板を弾き飛ばすような怪力には見えない。


 その小柄な不審者は、漆黒の忍者装束を身にまとっていた。顔も黒い覆面でスッポリ覆い隠している。まさに全身黒ずくめの格好だった。


「おまえは何者だキモォー!」


 拙者は荒らげた声を投げつけたが、返答はなかった。


 黒装束は落ち着いた足取りで、さも当然のように家の中へと侵入する。


「キャッ!」


 そのとき、拙者の背後で緒方が小さな悲鳴をあげた。


 彼女は茶碗と箸を持ったまま腰を浮かせていたが、いきなり目の前で囲炉裏の灰がぜたので尻餅しりもちをついたのだ。


「ケホッ、ケホッ。は、灰の中からハイ、登場なのでごぢゃる」

 ウホッ、ウホッ。は、灰の中から舞衣、キャワワでごぢゃる!


 ……いや失敬。囲炉裏の灰をき散らして現れたのは、例の一件以来めっきり兄離れが深刻な拙者の妹だった。黒装束を誰何すいかした際に具現化したのである。


 灰にせて涙目の舞衣は、それでも口元に会心の笑みを浮かべていた。囲炉裏から登場する位置ズレは満更でもなかったらしい。


 ハイな舞衣マイアイを奪われた拙者だが、視線を戻すと黒装束が近づいていた。


 れはしたり、相手の出方をうかがう余裕もない。一番近くにいる拙者が先陣を切らなければ。そう考えて身構える。しかし黒装束は拙者に興味を示さず、すぐ脇を無言で通り過ぎた。それも忍び足をひけらかすような、足音一つ立てない完璧な歩法で。


「ほほう……」


 ――負け惜しみに駄洒落ダジャレを放ったが、今はそれどころではない。拙者は気持ちを切り替えて妹の方を見た。


 囲炉裏から出た舞衣は、パタパタと身体の灰をはたき落としている最中だった。黒装束の接近には気づいていない。そのそばでは、緒方が腹立たしそうに舞衣をめつけていた。


「おい、おまえら! 和んでる場合じゃない、不審者がそっちへ行ったぞ!」


 拙者が大声で注意を促すと、黒装束に気づいた舞衣がアホ毛を掴み、透かさず抜刀して上段に構えた。キュンとひらめく萌え一文字。


 しかしそれが振り下ろされることはなかった。黒装束が、神速の踏み込みで舞衣との間合いを詰めたからだ。


「ごぢゃふっ!」


 語尾のような悲鳴が聞こえたのは一瞬だった。腹に掌打しょうだを浴びた舞衣は、錐揉きりもみ状態で吹き飛んで反対側の壁にち当たった。


 バキバキバキッ――と、耳をろうさんばかりの轟音が響く。


 桃色の残像を置き去りにして、舞衣は壁の破片もろとも屋外へと消えた。そしてドボーン、少し遅れて落水の音が続く。どうやら朱晴すばる川に落ちたらしい。


「……」


 圧倒的な暴力を前に、拙者は目をいて立ち尽くした。


 それでも思考だけは止まらない。いや、止めることができなかった。あの不審者の正体に心当たりがあるからだ。小柄な身体に強大な膂力りょりょく。それは拙者に身近な人物を連想させた。


 同時に忘れていた記憶が脳内をよぎる。妄想読唇術で読み解いた父上の言葉だ。


 そうなるまえに まいをうばいかえして そのべんきを しまつしてこい


 舞衣の身柄は拙者が奪い返している。そうなると、この中で未達成なのは「便器の始末」という部分だ。もし黒装束の正体が拙者の読み通りなら、今狙われているのは便器――すなわち緒方ということになる。


 その前提で観察すると、黒装束は緒方を目指して歩いているように見えた。いや、もちろん彼女をスルーして炊事場へ向かう可能性もあるが、それはここで考えてもせんのないことだ。


 とにかく今は不測の事態に備えて行動すべきだった。黒装束が何者であれ、あの怪物じみた力を楽観視することはできない。


「おい緒方、すぐに裏口から逃げろ! 八千やち……いや、そいつが狙ってるのはおまえだ」

「は? 何で私なのよ!?」


 傍観を決め込んでいたのか、緒方は拙者の警告にみっともなく反応すると、手にした味噌汁の椀を黒装束へ投げつけた。それがあっさりかわされたのは見届けず、すぐに背を向けて裏口へ走り出す。あの怪力を目の当たりにしたので、さすがに応戦までは考えなかったようだ。


 黒装束も裏口へと向かう。やはり狙いは緒方なのだ。つまり奴の正体は……。


「まさか、おまえは緒方を殺すつもりなのか?」


 意識のない叔父を布団に横たえると、拙者は急いで二人のあとを追った。

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