其の捌 よろづに思ひ乱るれば
「叔父上っ!」
その呼びかけに、驚いた叔父がビクッと肩を震わせる。
「き、急にどうしたのかな、
「実は、
「誰かを助けて欲しいって話だね。別に構わないけど、もう少し詳しく教えてもらえるかな」
「あ、分かりました」
拙者は頷くと、脱獄中に
更に、そもそもの発端である緒方追跡の任や、
「なるほど、そんな経緯で隠れ里に流れ着いたのか。それで友達を巻き込んでしまったと」
「はい。お願いします叔父上、二人を助けてください!」
身を乗り出して頭を下げる。
そのとき、叔父の返答を急かすようにグゥ〜と。牢獄の飯で満たされなかった拙者の腹が、恥ずかしいタイミングで空腹を訴えた。
その音を聞いたアリスが、緒方の腹部をジト目で見ながら呟く。
「
「な、ちょ、違うわよっ! 今のは私のお腹が鳴ったんじゃなくて――」
だが否定している最中に緒方の腹もグゥ〜。期せずして「卑しい女」に成り下がると、彼女は赤面して顔を伏せた。
叔父が小さく笑う。
「確かに親友は大事だけど、まずは
「ですが、グズグズしていたら充真たちが捕まって……」
拙者が浮足立って異を唱えると、叔父は落ち着けと言うように右手を突き出した。
「是周君が僕の
「はあ、そういうものですか」
「だから今日はゆっくり休んで、明朝になったら迎えに行けばいい」
何とも
拙者は少しばかり反感を覚えたが、しかし最終的には空腹に負け、叔父の提案を素直に受け入れた。緒方もすぐに了承する。
「納得してくれたようだね。ではアリス、二人に食事の用意を」
「はい」
どうやらアリスは料理もできるらしい。
拙者は、炊事場に立つ小さな背中を羨望の眼差しで見つめた。
舞衣にも料理の腕があれば、八千代の負担を減らすことができるのに……。ついそんなことを考えてしまう。しかし拙者の妹
「……っ」
思わず己の不甲斐なさを噛み締める。すると、そんな拙者の顔を見た叔父が、懐かしむように両目を細めた。
「その不機嫌そうな顔、特に目元の辺りが
「そ、そうですか」
どうやら拙者の仏頂面は母上に似ているらしい。しかし、そう言われたところで全然ピンと来ない。ただ反応に困るばかりだった。
拙者が戸惑い気味に愛想笑いをすると、叔父は興味を失った様子で話の主軸を変えた。
「その義姉さんに逃げられた
「父上ですか。まあ元気というか……」
拙者は言い
母上の失踪は十一年も前の話だが、父上はその頃からずっと精彩を欠いている。そして謎の難病を患うと、
その事実を囲炉裏端で公開すると、隣で聞いていた緒方が目を丸くした。旧敵の親玉である芦辺
「ちょっと信じられないね。じゃあ兄さんは何の仕事をしているのかな?」
「詳しいことは知りませんが、内閣妄想室で後進の指導に当たっているそうです」
「そいつは妙だね」
拙者の話を聞くと、叔父は右の眉をピクリと動かした。
「あの……妙というのは?」
「僕たち罪賀の忍者にとって、内閣妄想室は警戒すべき組織なんだ。その職員に異動があれば逐一リークされる。だから分かるけど、兄さんは内閣妄想室には在籍してないよ」
「まさか」
「消息筋の情報では、罪賀のとある誘拐事件を兄さんが解決したって話だ。まだ現役バリバリの兄さんが、後進の指導なんて地味な仕事をするはずがないよ」
「ですが、父上は妹遁の術が使えないんですよ?」
拙者が反論すると、叔父は即座に首を振って答えた。
「それこそ疑わしいね。だって兄さんは、最終奥義で失った妹さえ具現化する実力者。不滅の妹遁使いなんだ。だから難病なんて関係ない。芦辺甚代の妹は何度でも復活するのさ!」
その狂信的な評価は受け入れ
確かに父上は型破りの妹遁使いだが、そんな理由で病魔に勝てるはずがない。
それに拙者の掴んだ情報では、八千代が罪賀の誘拐事件を解決したことになっている。忍者でもない妹が、父上の仕事を陰で代行したのだ。
「……本当は父上が任務を。でも妹遁が使えな……まさか仮病……いや、何の為にそんな」
考えれば考えるほど、拙者の抱く父上像が疑惑に
一線を退いて八千代に
「食事の用意ができました」
そのとき調理を終えたアリスが、洋風の見た目にそぐわぬ和風料理を運んできた。
白飯、味噌汁、目玉焼き、梅干し。質素なラインナップだったが、拙者の食欲をそそるには充分すぎる内容だ。
「ご苦労だったねアリス」
囲炉裏端に料理が並ぶと、拙者は出口のない思考を中断して叔父の顔を見た。早く食べようと目で訴える。叔父は苦笑を浮かべた。
「さて、じゃあ皆で食べようか」
「いただきます!」
拙者は猛然と箸を取った。
「お言葉に甘えて」
緒方も控えめに手を伸ばす。
しばらく無言のまま食事を進め、やがて空腹感が和らぐと、拙者の頭の中は再び父上のことで一杯になった。
「そういえば……」
ふと、牢獄で聞いた看守の言葉を思い出す。
「罪賀の里は父上にとって
拙者がそう訊ねると、正面で味噌汁を
「おや、是周君は何も聞かされてないのかい。まったく兄さんには困ったものだ」
呆れ気味に呟き、それから表情を改めると次のように続けた。
「罪賀の里はね、甚代兄さんと周莉義姉さんが結婚式を挙げた土地なんだ」
「け、結婚式……!?」
予想だにしない言葉が飛び出し、危うく梅干しの種を吐き出しそうになった。
拙者の両親が、わざわざ犯罪者たちの巣窟で結婚式を挙げたというのだ。
「やっ、やだな叔父上。もちろん冗談ですよね?」
「本当の話だよ。兄さんの結婚式には、
「中立? どうしてそんな……」
「それは周莉義姉さん――つまり是周君のお母さんが、比賀のくノ一だったからだよ」
「母上が比賀の!?」
何から何まで初耳だった。驚いた拙者は、思わず緒方と顔を見合わせてしまった。
「萌賀と比賀の禁断カップルは、周囲の反対を押し切って婚約したんだ。だから挙式の場所を決めるとき
「全然知らなかった……」
両親の意外な過去を聞いて、拙者は言い知れぬ高揚感を覚えた。様々な想いが心の中を交錯する。中でも、拙者が比賀の血を引くという事実には少なからぬ衝撃を受けた。
だが、そんな興奮に満ちた思考も、やがて一つの「大きな期待」に取って代わられた。
――このあと向かう比賀の里に、失踪した母上がいるかもしれない!
そう考え始めると、拙者は居ても立っても居られなくなった。もし
「決めた。拙者は今すぐ比賀の里へ向かう!」
「ちょ、どうしたの芦辺君。
拙者の唐突な宣言に、緒方が困惑した表情で異論を挟む。
「大丈夫だ。充真たちの身の安全は、顔役である叔父上により保障されてる。それより拙者は、一秒でも早く比賀へ向かいたいのだ」
心が
「まだ言ってなかったけど、この隠れ里には抜け出す際に条件があってね。日没前で、しかも晴れてないと出発できないんだ。今のところ天気は問題ないけど、もう日光が足りないよ」
「……日没前?」
理由は分からないが、日が落ちると罪賀から出られないという話らしい。どうにも納得できない条件だった。門限でも設けているのだろうか?
だとしてもそれに付き合う義理はない。勝手に出ていけば済む話だ。拙者はそう考えると、脳内で脱出ルートを模索し始めた。
だが、すぐに抜け道がないことに気づく。罪賀は断崖絶壁に囲まれた中州であり、どの方向にも進めないのだ。下流では大きな滝壺が
まるで流刑地のような土地だった。入るに
「自力で出ていくのは無理なのか……」
拙者の思考はあっさり
拙者は沈みゆく西日を漫然と眺め、まだ見ぬ比賀の里に思いを馳せるのだった。
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