其の陸 脱獄は計画的に

 緒方は白いリボンで後ろ髪をわえると、両手でパンッと頬を張って気合いを入れた。テキパキと鉄格子を調べ始める。室内に窓がない以上、正面からの突破は避けて通れない。


「私の便遁では役に立たないわね。舞衣まいの萌え一文字いちもんじで鉄格子を斬れないかしら?」

「ふむ、試してみよう」


 拙者は頷くと、通路に響かぬように「キモォー」とささやいた。するとどうだろう。舞衣は位置ズレもなくドロン、一発で拙者の眼前に現れたのだ。実に鮮やかな具現化だった。


「……!」

 ――?


 ……いや失敬。なぜか舞衣は無言のまま、どこかうつろな目をしてたたずんでいた。いつものナリごぢゃる的な口上もなく、そのテンションは明らかに低い。滅多めったにない見事な具現化なのに、まるで失敗したかのような暗い雰囲気だ。


「お、おい舞衣。一体どうしたというのだ?」

「つまんない。普通に登場ナリ」


 どうやら位置ズレがないことに不満を抱いたらしい。天使のように可愛い妹が、今は両頬を膨らませてムスッとしている。いや、もちろんそれはそれで可愛いのだが、こうも露骨にいぢけた態度だとキュンにも迷いが生じる。


「舞衣、おまえの萌え一文字で鉄格子を斬ってくれないか」

「お兄ちゃん、舞衣は奇抜な登場がしたかったでごぢゃるよ?」

「……分かった。あとで具現化をやり直すから、今は鉄格子を斬ることに集中してくれ」

「らぢゃー」


 投げりな返事だった。


 よほど位置ズレなしが気に入らなかったのだろう。舞衣は覇気のない表情で仕込みアホ毛を引き抜くと、わずらわしそうに鉄格子を斬りつけた。


 ――キィィーン!


 金属同士のぶつかり合う高い衝撃音。だがその一撃で鉄格子を斬ることはできず、逆に萌え一文字が物打ちの部分からポッキリ折れてしまった。


「ごぢゃああぁぁぁ〜! 萌え一文字が折れちゃったナリィィィ〜!」


 舞衣が大声で泣き叫ぶ。

 これだけ大騒ぎをすれば、間違いなく先ほどの看守が戻ってくるだろう。


「……」


 致命的なキュン不足に白けていた拙者は、これ幸いと舞衣の肩に右手を置いてドロン、何も言わずに妹の具現化を解いた。


「あ、芦辺あしべ君。気持ちは分かるけど、それでは舞衣が可哀想じゃ――」

「この鉄格子は萌え一文字で斬れないようだ」


 緒方の言葉を遮り、淡々と事実だけを告げる。拙者の未熟な妄想では、これ以上の高硬度な萌え一文字は具現化できない。完全にお手上げの状態だった。


「じ、じゃあ、舞衣を鉄格子の外側に具現化するというのはどうかしら? 本人も位置ズレを希望しているようだし、きっと喜ぶと思うわ」

「それだ!」


 何も鉄格子を壊すばかりが能ではない。舞衣を鉄格子の向こうに具現化し、戻ってきた看守と戦わせればいいのだ。それで牢獄の鍵は簡単に奪えるだろう。


 拙者は鉄格子に近づくと、その隙間から右腕を伸ばして妄想オーラを高めた。手の平から妹が出るわけではないが、イメージ次第で具現化の精度も変化するのだ。


「キモォー!」

「いや、キモいのはお兄ちゃんでごぢゃる」


 するとねた顔の舞衣が、伊能いよく張りの悪態をいて牢内に現れた。


 またしても位置ズレは起こらなかったのだ。一体どんな法則が働いているのだろうか。もう神の悪戯いたずらとしか思えぬ現象だった。


 拙者は無言のままドロン、再び舞衣を消して深い溜め息を落とした。


「ね、ねえ芦辺君。もう少し舞衣をいたわってあげても――」

「キモォー!」


 拙者は再び緒方の言葉を遮ると、立て続けに妹遁の術を発動した。


 さすがに三回連続はないとたかくくっていたのだ。しかし普段の神出鬼没振りはどこへやら、またまた舞衣は牢内に姿を現した。即座にドロンと消す。その後も躍起になって具現化を繰り返したが、何度やり直しても上手くいかなかった。


 恨めしげに拙者を睨んでいた舞衣も、やがて人形のように反応しなくなった。


「いかん、いかんぞ。このままでは兄妹の仲が険悪に!」

「もう手遅れのような気もするけど、とにかく具現化は中断して別の方法を考えましょ」

「……そ、そうだな」


 つい意固地になっていた拙者は、すぐに頭を切り替えて緒方の提言に従った。


矮化わいかの術を使うというのはどうかしら? 一寸法師サイズの舞衣なら鉄格子を抜けられるわ」


 なかなかに面白い案だった。しかし拙者は首を左右に振った。


「残念だが、そこまで妹を小型化することはできない」


 妄想オーラを節約しても、具現化対象を際限なく小型化できる訳ではない。それぞれの遁術が持つ特性により、どうしても一定の制限を受けるからだ。


 たとえば妹遁の場合、キュンがはかどる幼女サイズの小型化ならば容易たやすい。しかし、これが赤子サイズだと話は別だ。赤子には妹萌えの要素がないため、急激なキュン不足に陥る。その結果、幼女サイズ未満の妹は、仮に具現化できてもすぐに消えてしまうのだ。


 ゆえに一寸法師サイズ――胎児のような妹は論外なのである。


「これもダメだといよいよ手詰まりね」


 緒方が大仰に肩をすくめる。さすがの彼女も、そうスラスラと次善の策は出ないようだ。


 妹遁の連発でヘトヘトだった拙者は、一先ひとまず床に座り込んで疲労回復に努めた。


「おうテメェら、楽しくやってるみたいだな。グヘヘヘッ」


 そのとき仄暗ほのぐらい通路の奥から、下卑げびた笑い声を響かせて一人の男が歩いてきた。


 先刻の小太りな看守だ。拙者たちが騒がしかったので戻ってきたのだろう。禿げた頭頂部が篝火かがりびの灯りを反射して切なく光っている。


「べ、別に脱獄しようとしてた訳じゃないんだから!」


 看守の姿に焦った緒方が、ツンデレ崩れの言いまわしで余計なことを口走る。

 もちろん、そんな下手糞へたくそな嘘は通用しなかった。


「ほう。賑やかだと思ったら、やっぱり脱獄を図ってやがったか。そいつは無駄な努力をしちまったな。この牢獄には仕掛けがあって、妄想忍者は絶対に逃げられないぜ」

「な、何……だと!?」


 看守の話を聞いた拙者は、脱力して大の字に倒れてしまった。


 舞衣を牢屋の外に具現化できなかったのは、恐らくその仕掛けとやらが原因だろう。これでは脱獄なんて到底無理だ。


 拙者はそう思って観念したが、緒方はまだ諦めていなかった。


「絶対に逃げられないとは大きく出たものね。そんなに自信があるなら、参考までにどういう仕掛けなのか教えてもらえないかしら?」


 彼女らしい挑発的な態度で、牢獄に施された仕掛けをあばき出そうとする。


「いいだろう。ならば教えてやるから、感謝して聞けよ」


 間抜けな看守は、そんな緒方の口車に乗せられて得意気に語り出した。


「この牢屋の壁や鉄格子には、拒想石きょそうせきと呼ばれるアンチ妄想物質が使われてんだ。そいつには妄想オーラを無効化する働きがあって、つまりテメェらの忍法じゃ破壊できねぇのさ」


 大の字で寝ていた拙者は、その話を聞いて思わず跳ね起きた。悔しさが込み上げたのだ。


「クソッ! 拙者の妹遁がことごとく裏目に出たのは、そのトンデモ物質が悪さをしていた所為せいか。何度挑んでも失敗するはずだ。しかし、そうなると脱獄なんて……」

「そうね、確かに逃げられないわ」


 二人揃って弱音を吐いたそのとき、不意に通路の奥から新たな人影が姿を現した。


 虜囚りょしゅうを売買する商人が「品定め」に来たのかもしれない。拙者は絶望的な気分でその人物に目をらした。篝火に照らされて、うっすら浮かぶ緑色の美乳バンダナが見えた。


「あれは!」


 沈み込んだ気持ちが急浮上し、やがて歓喜に変わる。近づいてきた人影の正体は、乳影ちかげ流のおっぱい御曹司おんぞうしこと藤村充真じゅうまだった。拙者の頼れる親友が助けに来てくれたのだ。


「緒方、光明が見えたぞ!」


 しかし彼女は、この喜ばしい助っ人の登場に不満の声をあげた。


「どうして藤村君は忍び足を使ってないの? あんなに堂々と近づいたら、看守が警戒して仲間を呼んでしまうかもしれないわ」

「それなら心配ない。充真は『千乳ちちがすみの術』を使っている。忍び足より高度な潜伏術だ」

「……潜伏術? 私には普通に歩いているようにしか見えないけど。そもそも胸を使ってどう隠れるのかしら」


 隠れ巨乳の緒方が鼻で笑う。千乳霞の術が理解できない様子だった。


 確かに一見すると、正面から看守に近づく無謀な構図である。しかし実際は違う。両者の間には、不可視のおっぱいが寄せて上げるようにひしめいているのだ。


 ――そう、それが千乳ちちがすみの術!


 敵の視界に幻覚作用を及ぼし、どんなマニアックな性癖にも刺さる千のおっぱいで眩惑げんわくする。


 幻の胸をさらしておとりにする姿は「丸見えの潜伏」とも呼ばれ、おっぱい愛好家から大きな称賛を浴びている。乳影流が誇る無敵の潜伏術だ。


「つまり藤村君の歩く姿が、あの看守の目には……む、胸を露出した痴女に見えると?」


 両頬を桜色に染め、緒方が恥ずかしそうに術の内容を確認する。


「うむ、おっぱいだ」

「上半身裸ってことよね?」

「いや、一概にそうとは言えない。千パターンの幻おっぱいが相手の好みに合わせて出現するのだ。潜在意識がチラリズムを求めていれば、おっぱいは服を着ているかもしれない」

「幻とはいえ、あまり過激だと検閲けんえつにんに目をつけられないかしら」

「確かにその恐れはあるな。だが、くまで潜伏術だと言い張れば問題ないだろう。それに、いざとなったらメタ忍法『伏字の術』であざむくことも――」


 拙者たちが妙な現実逃避をしていると、ようやく看守も充真に気づいて奇声をあげた。


「……おお、こいつは! うっほほおおおっぱい!」


 だらしなく鼻の下を伸ばし、恰幅かっぷくの良い身体をブルブルと震わせる。


 どうやら千乳霞の術が上手く働いたらしい。看守の目に映っているのは充真ではなく、潜伏の為に作り出された眩惑のおっぱいだ。


 しかしそのり取りをはたで見ていると、看守が充真に対して色目を使っているようで正視に耐えなかった。


「ぐふっ、こんなところに迷い込むなんて悪い野良おっぱいだ。お仕置きしてあげるから早くこっちにおいで」


 看守は野太い猫撫ねこなで声を発すると、いかつい顔に醜い笑みを貼りつけた。彼の眼前には、想像を絶する幻のおっぱいが広がっているようだ。


 拙者の隣では、看守の痴態を目にした緒方が青ざめた顔で立ち尽くしている。


「ほぅら豊満ニャンニャン、早く僕チンの胸に飛び込んでおい――」

千乳ちちまい万化ばんか胡蝶こちょう乱れ乳首!」


 嬉しそうに両手を広げる看守の顔に、充真が乳首然とした飛びひざりを放つ。


 直後にグシャッという不快な音が響くと、看守の口から二本の歯と短い悲鳴が飛び出した。その卑猥ひわい顔を鮮血に染めながら、ドウと仰向あおむけに倒れる。


「ち、乳首が乱れ舞い、あまつさえ刺さるとは……」


 最後に何が見えたのだろうか、看守は譫言うわごとのようにそう呟いて意識を失った。


 充真は伸びた看守の腰から鍵束を取り上げると、鉄格子のドアを開いて拙者たちを解放してくれた。これで汚い牢獄ともオサラバだ。


「よお是周これちか、押っ取りおっぱいで駆けつけたぜ。まさか隠れ里に辿り着くとは思わなかったが」

「助かったよ充真。それにしてもよくこの場所が分かったな」

「緒方の隠れ巨乳のおかげさ」


 充真が、どこかで聞いた台詞せりふを吐いてニカッと笑う。その言葉を耳にした拙者は、ふと山中での追跡行を思い出した。パイプテントの側で繰り広げられた、あのときの攻防――。


「充真よ、足はもう大丈夫なのか?」


 緒方の奇襲を受けた際、彼の右足は個室の下敷きにされたのである。


「ああ。軽い捻挫ねんざだが、乳遁使いは足首の代わりに乳首を使えるから平気さ。痛いけどな」


 そう言ってチラリと緒方を見る。


「是周こそ、緒方と一緒にいて大丈夫だったのか?」

「いや、なかなか個室を貸してもらえなくて漏らすところだったよ」


 そう言ってチラリと緒方を見る。


「ああもう、二人で過去を掘り返さないでよ。あのときはまだ敵だったから仕方ないでしょ!」


 連続チラ見にさいなまれた緒方が、頬を膨らませて逆ギレ気味に抗議する。


 それを見て、充真は怪訝けげんそうな表情を浮かべた。


「随分と打ち解けてるようだが、何かあったのか?」

「ああ、緒方とは協力関係を結んだのだ」

「協力関係?」


 首を傾げる充真に、拙者はこれまでの経緯をつまんで説明した。そして、緒方と比賀ひがの里へ向かうことを告げると、彼は目を丸くして驚きの声をあげた。


「おいおい、じゃあ課外授業は――緒方捕縛の任はどうするつもりなんだ?」

「一身上の都合で放棄する。悪いな充真」

「そうか。まあ被害者のおまえがそれでいいなら、俺は別に構わんけどな」

「恩に着る」


 充真は軽く手を挙げて応じた。


「それで、いつ比賀の里へ乗り込むつもりなんだ?」

罪賀さいがの里を抜け出したら、その足で」

みやびが聞いたら黙っちゃいないぜ」

「だろうな。そういえば伊能いよくの姿が見えないようだが、おまえと一緒じゃないのか?」


 拙者がそう訊ねると、充真は呆れ返った表情でかぶりを振った。


「あの戦闘狂なら罪賀の連中と戦ってるぜ。ここはあたいに任せるんよ、とか言って陽動役を買って出たんだ。頃合いを見て俺たちと合流する手筈てはずなんだが……」


 あるいは戦いが楽しくて、陽動の切り上げ時を見失ったのかもしれない。戦力としては最高に頼れる伊能も、その熱くなり過ぎる性格が玉にきずだった。


「ここで彼女を待つの? できれば長くとどまらずに移動したいのだけれど」

「いや、心配なさそうだぞ。うわさをすれば影というヤツだ」


 通路の暗がりから、ちょうど足音が響いてきたところだった。陽動を終えた伊能が、こちらに走ってきたのだろう。気掛かりだった合流は無事に果たされそうだ。


 と思ったのだが――


「ちょっと待って。この足音、何か変じゃない?」


 そう、どうも様子がおかしかった。伊能一人にしては足音が大きかったのだ。


 実際にはかなり遠い場所から聞こえていたらしく、それは近づくに連れ地響きのように変化していった。まだ闇に埋もれて見えないが、明らかに複数の人間が走っている音だ。拙者たちは不安に駆られて顔を見合わせた。


 やがて通路の正面に土煙が巻き上がると、その向こう側から赤みを帯びたショートの人物が飛び出してきた。


「ごめーん。敵の数が多すぎてけなかったんよ!」


 言わずと知れた伊能である。


 叫びながら走る彼女は、背後に大勢の追っ手を引き連れていた。この罪賀で無体を働く抜け忍どもだろう。ざっと三十人はいる。


「やばい、拙者たちも逃げるぞ!」


 慌てて通路の反対側へと走り出す。ここで捕まれば、もう誰も救出には来てくれないだろう。何としても逃げ延びる必要があった。


 伊能と合流した拙者たちは、反響する靴音と飛び交う怒号に追われて通路を走った。


 頼りない光源の所為で、地面の凹凸に何度も足を取られる。狭い通路は細かく枝分かれして、まるで迷路のように拙者たちを翻弄ほんろうした。


「ちょ、待つんよ芦辺、そっちの道はちが――」


 不意に伊能の気配が遠ざかる。


 薄暗い通路を闇雲やみくもに走っていたので、うっかり伊能と違う通路を進んでしまったらしい。気づけば充真の姿も見えなかった。このままでは散り散りだ。ここは一旦いったん引き返して……。


「芦辺君、戻っちゃダメよ!」


 緒方が鋭く叫ぶ。彼女だけは、拙者の斜め後ろをはぐれずに走っていた。


「くっ、二手に分かれてしまったか」


 だが伊能たちを心配している余裕はなかった。拙者も緒方もかなり息が上がっている。出口の見えない通路は精神的にもこたえ、状況は悪くなる一方だった。


 とても逃げ切れるとは思えなかった。ならば多勢に無勢であっても、動けるうちに迎撃した方が得策だろう。


「緒方、このままではジリ貧だ。体力があるうちに迎え撃とう」

「そうね、私も同じことを考えてたわ」


 覚悟を決めて、拙者たちが立ち止まろうとしたそのときだった。


「こちらです、お二人とも早く!」


 不意に知らない女の声が響いた。驚いて周囲を見まわすと、岩壁の裂け目から細い腕が伸び、ヒラヒラと拙者たちを差し招いていた。何者だろうか。


「……ど、どうする芦辺君?」

「迷っている暇はない。行こう!」


 るかるか。


 拙者は緒方の手を掴むと、わらにもすがる思いで岩の裂け目へ飛び込んだ。

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