其の伍 死ぬほど特別な任務
腹が減っては何とやらだ。
拙者は脱獄よりも
ようやく悪臭が収まった狭い部屋で、拙者は彼女と向き合って遅めの昼食を
「白飯と水だけか。まあ無いよりはマシだが……」
冷めた飯は
「
それは二人とも食事を終え、拙者が深い溜め息を漏らしたときだった。緒方が神妙な顔つきで切り出したのだ。
突然のしおらしい態度に、拙者は困惑しながらも突き放すように応じた。
「悪いが緒方、メシのお代わりなら拙者ではなく看守に頼んでくれ」
「ちょっと、いきなり何の話?」
「自分でお代わりするのが恥ずかしいから、拙者にお願いしたいという話じゃないのか?」
「違うわよ!」
緒方が力強く否定する。
さすがに牢獄でお代わりはしないようだ。しかしそうなると、他にこれといった心当たりがない。彼女のお願いとは何か、拙者は黙って次の言葉を待つことにした。
程なくして、冷静さを取り戻した緒方が
「もし芦辺君が脱獄を考えているなら、私にも……協力させてもらえないかしら?」
そう
およそ彼女らしからぬ申し出だった。
拙者は警戒しながら彼女に答えた。
「確かに脱獄は考えている。緒方の協力があれば渡りに船だろう。だが、さっき馴れ合わないと言ったのはおまえだぞ。舌の根も乾かぬうちにどういうつもりだ?」
「ここが罪賀の里と分かって事情が変わったの。脱獄しなければ芦辺君の身が危ないわ。私の任務では、できる限り貴方を傷つけないよう言われてるから」
「それは妹を奪う際の命令だろ? おまえが脱獄を手伝う理由にはならないと思うが」
「……」
緒方は眉を
「そもそも芦辺君は、どうして私を助けたりしたの? 舞衣を奪い返したあと、危険を冒して吊り橋を戻る必要はなかったはずよ。私を見捨てていれば今の状況にはならなかったわ」
「それは……」
思わず言葉に詰まる。
確かに今の状況は拙者が作り出したものだ。拙者が緒方を助けようとしなければ、こうして投獄されることも、協力や馴れ合いの問答をすることもなかった。今頃は学校に戻って、任務放棄の件を叱られていただろう。
だがあのとき、拙者はどうしても緒方を見捨てることができなかった。学校で出会って以来、幾度となく妄想修業を繰り返した仲なのだ。情が移るには充分すぎる時間だった。たとえそれが、彼女にとっては任務の一端、偽りの関係に過ぎなかったとしても。
拙者の中に芽生えた「感情」は、緒方の妄想狩りすら許せるほどに大きく育っていた。
「そう、つまり拙者は緒方のことが好――」
途中まで言いかけて、慌てて口を
頭の中で考えていたことを、うっかり口に出してしまいそうになったのだ。
「私のことが何? す?」
「いや、だからおまえのことが……す、凄く悪い奴には思えなかったのだ」
拙者は、
この色気のない牢獄で、たまたま休戦中の緒方に秘めた想いを告げる――そんな愚行を犯すわけにはいかなかった。告白なんて妹にもしたことがないのに。
「まさか、そんな理由で私を助けたの? そんな性善説に
「そ、そうだ。悪いか!」
「悪いわよ。私たちは
「流派の確執なんて悪しき因習だ。今を生きる拙者たちに関係ない」
それを聞くと、緒方はやれやれといった様子で肩を
「次期当主として思慮に欠ける発言ね。そんなことだから私に妹を奪われるのよ」
聞き捨てならぬ言い草だった。ムッとした拙者は、反撃とばかりに皮肉で切り返した。
「ならば拙者も言わせてもらうが、任務に失敗したくらいで軽々に死を選ぶ緒方こそ、よほど思慮に欠けた行動をしていると思うがな」
「あれは……」
緒方が返事に
「なるほど、自覚はあったのだな」
常識的に見て、緒方の任務に対する責任感は異常といえるレベルだった。なぜなら、生徒が担うそれは
しくじったくらいで自決するなど、生徒の立場ではおよそ現実味のない話なのだ。
「
緒方は短い沈黙を破ると、いつもの凛とした声で言った。
「そうか、
拙者の妹だけを狙う潜入任務は、確かに命じた者の意図が不明で異質なものだった。だが、その失敗を命で詫びるほど重大な内容とは思えなかった。
「そうね、もう隠しても意味ないし教えてあげる。私の任務は
「サゲン様? 知らぬ
「
「さ、里長ぁ〜!?」
あまりの驚きに、拙者は声色裏返しの術を
謎めいた任務の
「しかし長期の潜入任務だぞ。生徒には荷が重いと、当時の里長は思わなかったのか?」
「それは逆ね。だって潜入先は学校だもの、むしろ生徒こそ適任だと断じたはずよ。だから、妄想狩りを修めた唯一の若手忍者――つまりこの緒方
選ばれたことを誇らしげに語る緒方。だが拙者には、妄想エリートゆえの受難としか思えなかった。
「これで分かったでしょ? 私は任務に失敗して左衒様に合わせる顔がないの。だから自決の道を選んだ。でも
「それは拙者が勝手にやったことだ。隠れ里に流れ着いたのも緒方の
「だけど、このままでは納得できないから協力を申し出たの。これも任務みたいなもの。貴方を無傷で脱獄させたいのよ。どう、私の気持ちを受け取ってもらえるかしら?」
「……」
拙者は即答を避けた。
緒方の行動理念は理解できたが、だからこそ危ういと感じる部分があったのだ。まずはそれを排除しなければならない。
「おまえの申し出を受け入れてもいいが、一つ条件がある」
「ふふっ、協力を受ける側なのに偉そうね。それで条件とは何かしら?」
「脱獄が済んだあと、再び死のうと考えないことだ」
「っ!」
緒方は吐息のような声を発したが、拙者の出した条件には何も答えなかった。ただ眉間に
その態度が答えだった。
つまり彼女は、拙者を脱獄させて心残りを晴らし、そのあと改めて自害するつもりだったのだ。まだ死ぬことを諦めていない。それほど任務の失敗に責任を感じているのだ。
「思った通りだな。そんなに死にたいのか?」
拙者が無遠慮に訊ねると、緒方は自嘲するように歪んだ笑みを浮かべた。
「別に死にたいわけじゃない。私はただ、それ以外に責任の取り方を知らないだけよ」
「そうか。ではおまえに死なれる前に、拙者も不始末の責任を取ろうではないか」
「不始末の責任?」
緒方が不思議そうに首を傾げる。
拙者は、その場の思いつきを頭の中で整理して話を続けた。
「大したことではない。拙者は死に急ぐ緒方を助け、逆に苦しめてしまった。だからその責任を取り、おまえの任務達成に協力しようと思う。そうすれば、緒方が死んで詫びる必要もなくなる。違うか?」
「違わない……けど、今から任務達成って。まさか私に舞衣を差し出すつもりなの?」
「いや、それは御免だな。代わりに、拙者が蜷川左衒の
「は?」
「おまえの任務は、拙者をできるだけ傷つけずに舞衣を奪うことだ。つまり元気な拙者が同伴すれば、それだけで完遂したことになる。別に拙者が一緒でも任務に反してないだろ?」
「確かに芦辺君がセットじゃ駄目とは言われてないわ。でもそれだと奪ったことにならないし、何より左衒様にとっては予想外の展開よ」
緒方が呆れ顔で言う。
だが、拙者の提案を一蹴する様子ではなかった。きっと心のどこかで迷っているのだ。その証拠に彼女は、髪を
そんな緒方を説き伏せるには、任務の「見えない部分」に切り込む必要があった。
「予想外の展開と言うが、そもそもおまえの任務は何が正解なのだ? 敵地に潜入する危険を冒しながら、そのターゲットは拙者の妹一人。これではリスクに釣り合わない。萌賀に対する宣戦布告でもないし、蜷川左衒の目的が見えないのではないか?」
実際おかしな話だった。
比賀の里長は、なぜ面識すらない拙者の妹を奪おうとしたのか。
「次期当主」の戦力を
「そうね。私もこの任務は不可解……理不尽だと思うわ」
緒方の口から本音が
あるいは、心の天秤が揺らぎ始めたのかもしれない。里長に対して不信感を
彼女の気持ちを変えるまで、あと一息だ。
「脱獄後に拙者と比賀へ行くなら、里長の目論見をすべて吐き出させてやるぞ。そうすれば、おまえは任務を達成して真実にも辿り着ける。さあ、どうする緒方よ!」
拙者が強い口調で決断を迫ると、緒方は何かを悟ったように硬い表情を緩めた。
「バカね、敵に塩を送るなんて」
そう言って、わざとらしく笑声を響かせる。
だが、そんな彼女の虚勢も長くは続かなかった。笑声は
「また私の負けね。ありがとう芦辺君」
「礼には及ばないぞ。協力するのは責任を取る為だし、拙者も比賀の里長に用があるからな」
己の都合であることを強調すると、緒方は即座に首を振った。
「それは口実でしょ。本当は、私から任務という『重荷』を取り払おうとしてる。違う?」
「た、単なる利害の一致だ」
「素直じゃないのね」
緒方は手の甲で涙を拭うと、不満そうな表情で唇を尖らせた。
そのブサ可愛い顔にドキッとしながら、拙者は苦笑を浮かべて彼女に言い返した。
「素直じゃないのはお互い様だ」
「確かにね。じゃあ
素直じゃない言い方で、それでも彼女は申し出を受け入れた。これで話を進められる。
「では一応確認するぞ。まず緒方が拙者の脱獄を手伝い、次に拙者が緒方の任務を補佐する。要するに、罪賀を抜け出して里長に会うまでの協力関係だ。それでいいな?」
拙者がそう問いかけると、緒方は吹っ切れた笑顔を見せて頷いた。それは拙者を騙してきた間者の仮面ではなく、彼女の本当の気持ちが込められた素の笑顔だった。
「何だか恥ずかしいわね」
「そうだな。だがこういうのも悪くないだろ?」
正式に協力関係を結び、その証としてガッチリ握手を交わす。
これで課外授業の放棄も確定した。もう後には引けない。いずれ学校から処罰を受けることになるだろう。だが今は、そんなことを
「さっそくだが脱獄の算段を練ろうか」
「ええ、こんなところで
やるべきことは決まった。あとは、この難局をどう乗り越えるかだった。
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