其の肆 罪賀
「緒方よ、もう一つ教えて欲しいのだが」
「何かしら?」
「この牢屋にトイレは無いのか?」
無いだろうと思いつつそう訊ねると、緒方は面倒臭そうに部屋の片隅を指差した。
――この狭い室内にトイレがあるというのか? 拙者が驚いて視線を向けると、そこには黒ずんだ平丸型の
「はて、あれは何でごぢゃるか?」
「そんなの見れば分かるでしょ。トイレよ」
便所のスペシャリストが断言するのだから間違いない。あれは壺の形をしたトイレなのだ。
「なるほど、あの壺がトイレか……」
素直に認めるしかなかったが、それを好ましいと思えるかは別問題だ。拙者は壺を使いたくなかったので、目の前の優秀な
「なあ緒方、実はおまえに折り入って頼みたいことがあるの――」
「嫌、お断りよ!」
しかし内容すら聞いてもらえず、やや食い気味に却下された。
「どうせ個室を貸してくれって話でしょ?」
「なな、なぜ分かったのだ? もしかして
拙者が
「何のことかサッパリだけど、私はただ
「ならば、やむを得ぬ」
拙者は意を決して壺に近づいた。
その時点で臭いはしなかったが、
「は、鼻を摘んでいるのに鼻が曲がりそうだ。これがノーズ・イリュージョンか!」
「いいから早く済ませなさいよ!」
背を向けた緒方が、悲鳴のような声で即時排泄を要求する。
拙者はそれを無視すると、部屋の中央――緒方の眼前まで壺を運んでドンと床に据えた。
「ちょっと何、嫌がらせのつもり?」
「隅でコソコソやるのは拙者の性に合わぬ。見通しの良い場所で豪快に放って、この殺人的な悪臭すら超えてみせようぞ!」
見得を切るように応じた拙者は、少し恥じらう仕草で
「な、何で上着を脱ごうとしてるの! 上は関係ないでしょ!」
「大丈夫だ、上だけでなく下も脱ぐ。いや、すべて脱ぐ。切羽詰まった排泄前の人間は、どこから何が出るか分からないからな。そうだろ?」
「ふざけないで、上半身から何を出すつもりよっ!」
どうやら緒方は
拙者は示威するように脱衣を進めながら、
「
「待って芦辺君! 分かったわ、個室は貸してあげるから。それ以上は無意味に脱がないで」
「どうしてそんなに
「そういう問題じゃない! それに壺の臭いが限界なの。蓋、蓋をして、早く!」
緒方が早口で
懇願された拙者は仕方なく壺を封印し、再び部屋の片隅に置いた。こうして悪臭の元は断ち切られた。しかし牢獄の淀んだ空気の
――そして、何やかやで数分後。
「芦辺君は二度と壺に近づかないで。あと不要不急の脱衣も禁止よ!」
木目の個室を借りてスッキリした拙者は、そんな緒方の命令で壺の反対側に追いやられた。やむなく壁を背にして三角座り。拙者、膝を抱えて猛省でごぢゃる。
「おいおいテメェら、随分とクサくしてくれやがったな」
その
鉄格子の向こうを見ると、小太りの禿げた男が鼻を押さえ、迷惑そうな顔で立っていた。腰に提げた鍵束を見るに、どうやらこの牢獄の看守らしい。手には薄汚れたトレーを持っており、二人分の粗末な食事が載っていた。
拙者たちの遅い昼食だろうか。少なくとも餓死させるつもりはないようだ。
「ほれメシだ、残さず食えよ。じゃあまたな」
男が無愛想な言葉を残して立ち去ろうとしたので、拙者はその背中に慌てて質問を投げた。
「待て、拙者たちを捕らえてどうするつもりだ?」
すると、デブともハゲとも取れる半端な特徴の看守は、
「テメェらは大事な商品さ。何たってここは『
「さ、罪賀……だと!?」
拙者は
罪賀というのは、抜け忍たちが築いた隠れ里の名前である。
「商品って何よ?」
腰に両手を当てた緒方が、強気な態度と口調で短く問う。
それを聞いた看守は、彼女の全身に嫌らしい視線を這わせながら野太い声で答えた。
「女を商品にすると言えば意味なんて一つしかねぇだろ。テメェの身体は高く売れそうだぜ」
「なっ……!」
緒方はその返答に
看守の男が、真っ赤になった彼女を見て
「罪賀は自然の要害に守られた無法地帯だ。誘拐や人身売買、禁術とされる危険な妄想に至るまで、ここではありとあらゆる非道が許されちまうのさ。誰にも裁くことはできねぇ!」
渓谷と激流に隔絶された土地。この罪賀の里には、今も時代錯誤な文化が根強く残っている。弱い者、価値のない人間は、身ぐるみを剥がされて死ぬしかない。ここはまさしく弱肉強食の世界なのだ。
「そういやテメェも価値のある商品だったな、芦辺
「……え?」
拙者は看守の言葉に動揺を隠せなかった。たまたま中州に流れ着いた拙者の素性を、相手方は
罪賀の人間にとって、他人の身元を割り出すことなど朝飯前なのだろう。拙者はただの水難者ではなく、いつの間にか
「拙者を……どうするつもりだ?」
「まあ、すぐに何をするでもねぇから安心しろや。罪賀の里は、テメェの親父にとっちゃ
看守の男が、意味深な捨て台詞を残して立ち去ろうとする。
「なっ、ちょっと待て! 父上にとって所縁の地とはどういう意味だっ!?」
拙者はその背中に向かって叫ぶように問いかけたが、看守の男は再び振り返ることはなく、のしのしと通路の薄闇へ姿を消したのだった。
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