其の参 優しき便座

 ふと目が覚めた拙者は、なぜか白い便座を抱いて床に倒れていた。


「ほう、便座だけとは面妖な。〈神〉なき世界に迷い込んでしまったのか?」


 拙者は寝起きの駄洒落ダジャレをかますと、周囲の様子を探るべく上体を起こした。しかし頭が鉛のように重く、更には強い眩暈めまいも覚えたので再び横になる。薄暗い天井のみが視認できた。


「くっ、現状の把握すらままならぬとは。どうして拙者はこんなに体調が悪いのだ……」


 混濁する意識の中、拙者はもつれた記憶の糸を懸命に手繰り寄せた。やがて、脳内にぼんやりと浮かび上がる一つの心象イメージ――。


 そう、拙者は緒方と一緒に吊り橋から落ちたのだ。こうして命を拾えたのは、伊能いよくの機転を利かせた水柱のおかげだった。小さな赤鬼と子泣き爺の骨には感謝しかない。


「あまり無事とは言えないが助かって何よりだ。緒方は大丈夫か?」


 拙者は、姿の見えない相手にそう訊ねた。すぐそばに緒方がいると想定しての発言だ。しかし彼女からの反応はなく、拙者のかたわらでは物言わぬ便座が光るのみだった。


「……」


 ――この現状をどう解釈すべきだろうか?


 拙者は朱晴すばる川に落ちたとき、緒方の胸を素早くリサーチしてから意識を失った。この記憶が正しければ、今も未練がましく彼女を抱き締めているはずだった。だが目覚めてみると、拙者のふところには緒方も隠れ巨乳も見当たらず、この丸くて平たい便座しかなかったのだ。


「つまり、この便座が緒方の成れの果て……?」


 あり得るかもしれない。激しく妄想するあまり、緒方自身が便座のとりことなってしまったのだ。


 その理屈でいくと、いつか拙者も妹と化してしまうのだろうか。拙者たちが学ぶ妄想忍法とは、それ程までにごうの深いものだったのか。


嗚呼ああっ、あの隠れ巨乳が平べったい便座に! どうしてだ緒方よ、うおおぉ〜!」

「ちょっと、便座に向かって私の名前を叫ばないでよ!」


 拙者が嘆き悲しんでいると、少し離れた場所で緒方の迷惑そうな声が響いた。


 驚いて上体を起こし、まだクラクラする頭を押さえて振り返る。拙者は、薄闇に紛れる声の主を困惑気味に見つめた。


「何よ、トイレが詰まったような顔して」

「どんな顔だそれは?」


 彼女は白いリボンをほどいて髪を下ろしていたが、間違いなく便遁べんとん使いの緒方緋雨ひさめだった。


 妄想過剰で便座になったという拙者の仮説は、どうやら悲観的な思考が招いた勘違いのようだ。さもありなん、隠れ巨乳が平たい便座になるわけがない。


「ポニーテールじゃない緒方は初めて見るからな。少し戸惑ったのだ」


 本当は便座化していない彼女を見て驚いたのだが、わざわざ恥ずかしい早合点はやがてんを伝えて話をややこしくする必要もない。そう思い、無難なところで髪型に触れたのだが……


芦辺あしべ君、あなたポニーテールとアホ毛の違いが分かるのね」


 予想外の言葉で愚弄されてしまう。まだ拙者に敵対心を抱いているのだろうか。下手に反論しても彼女を刺激するだけなので、ここはグッとこらえて話題を変えることにした。


「それより緒方よ。拙者になついているこの便座はおまえが用意したものなのか?」

「別に懐かせた覚えはないけど、私が複式の術で具現化した暖房便座よ」


 懐くというくだりが気に入らなかったのか、緒方はそっぽを向いて不機嫌そうに答えた。


 暖房と聞いた拙者は、便座の表面に触れてそれを確認した。ほんのりと熱を帯びているのが分かる。


「あなたが風邪を引かないように貸してあげたの。夏場とはいえ、濡れたままでは身体にさわるでしょ。まあ効果の程はともかくとしてね」

「なるほど、便遁使いらしい発想だな」


 乾かすという意味では微々たる効果だが、身体が冷えずに済んだのは大きかった。


「ありがとう緒方。しかし電気もないのに暖房便座を具現化するなんて、シティーガールも顔負けの洗練された妄想力だな!」


 拙者は短く礼を述べると、彼女をおだてるように賞賛の言葉を添えた。


「ふん、私の便遁は常に最先端よ。クールビズで都会派を気取る芦辺君と一緒にしないで」


 優越感に満ちた緒方の声。どうやら満更でもないらしい。拙者は無能をそしられてしまったが、それで彼女の機嫌が直るなら安いものだった。


 それに世辞というわけでもない。実際、緒方の便遁が優れているのは事実である。発動のたびにトイレの性能や備品を変えられるのだから、その自由度は極めて高い。


 ちなみに、拙者の妹遁まいとんにも「別妹を具現化する」というシティーボーイな裏技がある。だが安易にそれをやると、舞衣がこれまでに得た記憶や経験が失われてしまうのだ。それゆえ妹遁使いは同じ妹を愛でるのが常識だった。兄として、別妹への浮気は決して許されない。


「拙者の妹遁は、自由度という点で便遁には及ばないようだ」

「理解したのであれば結構よ。それより便座を返してもらえるかしら。もう充分でしょ?」


 にべもない反応だった。便座は温かいが、当の緒方は機嫌が直っても冷たかった。


 ともあれ返せと言われたのだから仕方がない。拙者は別れの挨拶として、その白く滑らかな便座に頬をスリスリした。小気味よい音がキュキュッと辺りに響く。


 その途端、それまでそっぽを向いていた緒方が血相を変えて振り返った。


「芦辺君っ!」

「え、あ、いや、これはその……」


 便座に対する感謝の気持ちが溢れ、ついスリスリし過ぎてしまったのだ。それで怒られたのかと思った拙者は、慌てて便座の表面から頬を離した。


 しかしそうではなかった。


 彼女は急に目を輝かせ、息がかかるくらい顔を近づけて拙者に問いかけた。


「あなたの率直な意見を聞かせて。便座にほおりって気持ちいいわよね? 違うかしら?」

「へ? ま、まあ悪くはない……と思うが」

「そうでしょ! 臀部でんぶを優しく支える便座が、頬擦りにも適しているのは自明の理よ。なのに比賀ひがの重鎮どもは、宿ふつか酔いで吐くときしか便座に顔を近づけたくないと言うの。酷い話よね?」

「お、おう」


 訴えかける緒方に気圧され、やや引き気味ながらも相槌を打つ。


 力強く便座を語る彼女の姿勢に、拙者は優れた便遁使いの秘密を垣間見た気がした。


「と、ところでここは何処どこなのだ?」


 このまま便座談義が続くことを恐れ、更に話題を転じる。


 緒方と話しているうちに体調も良くなり、ようやく周囲に気を配る余裕が生まれた。拙者は便座にばかり気を取られ、現状をまったく把握していなかったのだ。


「呆れた、今頃になってそれを聞くなんて。丁寧に答えた方がいいのかしら?」


 緒方が残念そうに肩をすくめる。


 見れば分かるでしょ、と言わんばかりの口振りだった。拙者は溜め息をくと、彼女の答えを待たずに薄暗い部屋を見まわした。


「な……!?」


 室内は異様に狭く、そのすべてが石造りだった。あちこちすすけ、みっともなくひび割れている。四角い空間に窓はなく三方が壁。そして残りの一方には錆びた鉄格子がまっていた。初めて味わう閉塞感だが、この構造は牢獄と捉えてまず間違いないだろう。


 拙者は鉄格子に近づき、その隙間からほの暗い通路に目を向けた。等間隔に灯る頼りない篝火かがりびが、剥き出しの岩肌を不気味に照らしている。部屋の外は天然の洞窟といったおもむきだ。


「そういうことか」


 現状を目の当たりにした拙者は、直感的に大凡おおよその事情を察した。その場で振り返り、緒方に好奇の眼差しを向ける。


「緒方よ、おまえは変わった趣味をしているのだな」

「は? どういう意味よ!」

「だってそうだろ。気絶した拙者を牢屋に閉じ込め、自分も一緒に入って便座で介抱しているのだからな。比賀の里では、そういう監獄プレイが流行ってるのか?」

「違うわよバカ、私も一緒に捕まってるの! 同じ虜囚なのに変人扱いしないでよね」

「……へ? じゃあここは比賀の牢獄ではないのか」


 またしても拙者の早合点だった。


 だが、そうなるとまるで実態が掴めない。拙者が捕まるのはまだ分かるが、どうして緒方も捕まっているのか。これまでの経緯をダメ元で訊ねると、彼女は小さく頷いて口を開いた。


「いいわ、教えてあげる。川に落ちて気を失わなかったのは芦辺君のおかげだし。それくらいなら協力するわ」


 緒方の話によると、現在、あの吊り橋から落ちて約五時間が経過しているという。


「朱晴川は激流で、私は芦辺君とはぐれないようにするのが精一杯だったわ。途中で上がれそうな場所も探したけど、辺りは断崖絶壁だらけで諦めるしかなかった。でもそのとき、急に大きな中州なかすが目の前に現れて、私たちは運良くそこに流れ着いて助かったの」

「そうか、ここは朱晴川の中州なのだな。しかし、そこからどうして牢獄に?」

「中州には謎の集落があって、私たちはそこの住人に捕まったのよ。そのまま有無を言わさず投獄され、仕方なく便座で暖を取っていたら芦辺君が目覚めたの。そんなところね」

「それで現在に至るというわけか……」


 どうにも楽観できない状況だった。


 中州の住人とは何者なのか。その魂胆を含め、敵か味方かすらも判然としない。いや、問答無用で投獄したのだから敵と見すべきか。


 いずれにせよ、この囚人扱いを甘受するわけにはいかなかった。あとで何をされるか知れたものではない。


「よし!」


 休んで完全復調した拙者は、脱獄を決意してゆっくり立ち上がるのだった。

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