其の参 優しき便座
ふと目が覚めた拙者は、なぜか白い便座を抱いて床に倒れていた。
「ほう、便座だけとは面妖な。
拙者は寝起きの
「くっ、現状の把握すら
混濁する意識の中、拙者は
そう、拙者は緒方と一緒に吊り橋から落ちたのだ。こうして命を拾えたのは、
「あまり無事とは言えないが助かって何よりだ。緒方は大丈夫か?」
拙者は、姿の見えない相手にそう訊ねた。すぐ
「……」
――この現状をどう解釈すべきだろうか?
拙者は
「つまり、この便座が緒方の成れの果て……?」
あり得るかもしれない。激しく妄想するあまり、緒方自身が便座の
その理屈でいくと、いつか拙者も妹と化してしまうのだろうか。拙者たちが学ぶ妄想忍法とは、それ程までに
「
「ちょっと、便座に向かって私の名前を叫ばないでよ!」
拙者が嘆き悲しんでいると、少し離れた場所で緒方の迷惑そうな声が響いた。
驚いて上体を起こし、まだクラクラする頭を押さえて振り返る。拙者は、薄闇に紛れる声の主を困惑気味に見つめた。
「何よ、トイレが詰まったような顔して」
「どんな顔だそれは?」
彼女は白いリボンを
妄想過剰で便座になったという拙者の仮説は、どうやら悲観的な思考が招いた勘違いのようだ。さもありなん、隠れ巨乳が平たい便座になるわけがない。
「ポニーテールじゃない緒方は初めて見るからな。少し戸惑ったのだ」
本当は便座化していない彼女を見て驚いたのだが、わざわざ恥ずかしい
「
予想外の言葉で愚弄されてしまう。まだ拙者に敵対心を抱いているのだろうか。下手に反論しても彼女を刺激するだけなので、ここはグッと
「それより緒方よ。拙者に
「別に懐かせた覚えはないけど、私が複式の術で具現化した暖房便座よ」
懐くという
暖房と聞いた拙者は、便座の表面に触れてそれを確認した。ほんのりと熱を帯びているのが分かる。
「あなたが風邪を引かないように貸してあげたの。夏場とはいえ、濡れたままでは身体に
「なるほど、便遁使いらしい発想だな」
乾かすという意味では微々たる効果だが、身体が冷えずに済んだのは大きかった。
「ありがとう緒方。しかし電気もないのに暖房便座を具現化するなんて、シティーガールも顔負けの洗練された妄想力だな!」
拙者は短く礼を述べると、彼女を
「ふん、私の便遁は常に最先端よ。クールビズで都会派を気取る芦辺君と一緒にしないで」
優越感に満ちた緒方の声。どうやら満更でもないらしい。拙者は無能を
それに世辞というわけでもない。実際、緒方の便遁が優れているのは事実である。発動の
ちなみに、拙者の
「拙者の妹遁は、自由度という点で便遁には及ばないようだ」
「理解したのであれば結構よ。それより便座を返してもらえるかしら。もう充分でしょ?」
にべもない反応だった。便座は温かいが、当の緒方は機嫌が直っても冷たかった。
ともあれ返せと言われたのだから仕方がない。拙者は別れの挨拶として、その白く滑らかな便座に頬をスリスリした。小気味よい音がキュキュッと辺りに響く。
その途端、それまでそっぽを向いていた緒方が血相を変えて振り返った。
「芦辺君っ!」
「え、あ、いや、これはその……」
便座に対する感謝の気持ちが溢れ、ついスリスリし過ぎてしまったのだ。それで怒られたのかと思った拙者は、慌てて便座の表面から頬を離した。
しかしそうではなかった。
彼女は急に目を輝かせ、息がかかるくらい顔を近づけて拙者に問いかけた。
「あなたの率直な意見を聞かせて。便座に
「へ? ま、まあ悪くはない……と思うが」
「そうでしょ!
「お、おう」
訴えかける緒方に気圧され、やや引き気味ながらも相槌を打つ。
力強く便座を語る彼女の姿勢に、拙者は優れた便遁使いの秘密を垣間見た気がした。
「と、ところでここは
このまま便座談義が続くことを恐れ、更に話題を転じる。
緒方と話しているうちに体調も良くなり、ようやく周囲に気を配る余裕が生まれた。拙者は便座にばかり気を取られ、現状をまったく把握していなかったのだ。
「呆れた、今頃になってそれを聞くなんて。丁寧に答えた方がいいのかしら?」
緒方が残念そうに肩を
見れば分かるでしょ、と言わんばかりの口振りだった。拙者は溜め息を
「な……!?」
室内は異様に狭く、そのすべてが石造りだった。あちこち
拙者は鉄格子に近づき、その隙間から
「そういうことか」
現状を目の当たりにした拙者は、直感的に
「緒方よ、おまえは変わった趣味をしているのだな」
「は? どういう意味よ!」
「だってそうだろ。気絶した拙者を牢屋に閉じ込め、自分も一緒に入って便座で介抱しているのだからな。比賀の里では、そういう監獄プレイが流行ってるのか?」
「違うわよバカ、私も一緒に捕まってるの! 同じ虜囚なのに変人扱いしないでよね」
「……へ? じゃあここは比賀の牢獄ではないのか」
またしても拙者の早合点だった。
だが、そうなるとまるで実態が掴めない。拙者が捕まるのはまだ分かるが、どうして緒方も捕まっているのか。これまでの経緯をダメ元で訊ねると、彼女は小さく頷いて口を開いた。
「いいわ、教えてあげる。川に落ちて気を失わなかったのは芦辺君のおかげだし。それくらいなら協力するわ」
緒方の話によると、現在、あの吊り橋から落ちて約五時間が経過しているという。
「朱晴川は激流で、私は芦辺君と
「そうか、ここは朱晴川の中州なのだな。しかし、そこからどうして牢獄に?」
「中州には謎の集落があって、私たちはそこの住人に捕まったのよ。そのまま有無を言わさず投獄され、仕方なく便座で暖を取っていたら芦辺君が目覚めたの。そんなところね」
「それで現在に至るというわけか……」
どうにも楽観できない状況だった。
中州の住人とは何者なのか。その魂胆を含め、敵か味方かすらも判然としない。いや、問答無用で投獄したのだから敵と見
いずれにせよ、この囚人扱いを甘受するわけにはいかなかった。あとで何をされるか知れたものではない。
「よし!」
休んで完全復調した拙者は、脱獄を決意してゆっくり立ち上がるのだった。
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