第三章 隠れ里
其の壱 渓谷の戦い
緒方は山頂へ向かっている様子だった。
「くっ、このままじゃ逃げられるぞ!」
「大丈夫。さっき
拙者の後ろを走る
確かに彼女の言う通りだった。この先には
しかし、そうなるとやはり
「よっしゃ、追い詰めたんよ!」
森の中を汗だくで走り通し、遂に拙者たちは山頂付近まで到達した。前方には深い渓谷が口を開けている。この状況で二対一に持ち込めば、確実に緒方を捕縛できるはずだ。
だが、谷風に揺れる「それ」を見た瞬間、拙者はまんまと
「な、何あれ。詐欺なんよ! どうしてこんな山奥に……」
「そういうことだったか。やはり緒方は抜け目がなかったな」
渓谷には古い吊り橋が架けられていたのだ。
全長三〇メートルはあるだろうか。その横幅は狭く、人一人がやっと通れる程度だった。
恐らく妄想大戦時、
「
先行する緒方は吊り橋を渡る寸前だった。
このまま渓谷を越えられたら終わりである。きっと彼女は、向こう側から吊り橋を落としてしまうだろう。仮に落とされなかったとしても、対岸は比賀の里である。地の利が逆転するのだ。緒方が吊り橋を渡り終える前に、何としても捕縛の任を完遂しなくてはならなかった。
「駄目だ。はぁ、はぁ……、間に合わないぞっ!」
緒方は既に吊り橋の中央まで達している。それに対して拙者たちは、ようやく吊り橋の
情勢は圧倒的に不利だ。しかし小柄な
「あたいに任せて!」
言うが早いか、伊能はドロンと右手に
――ドカッ!
その衝撃に、ギシギシと悲鳴をあげて激しく揺れる吊り橋。渓谷に響いた大きな音が、幾重にも
「いや、そんなことより……」
拙者が揺れる吊り橋の中央に目を向けると、そこには身動きの取れない緒方の姿があった。振り落とされないように
「やいトイレ女、もしちょっとでも動いたら吊り橋を落とすかんね!」
その脅し文句は効果
彼女の足元では、吊り橋の腐った板がパラパラと
「よし、緒方の捕縛は拙者に任せてくれ。伊能はこの場でアシストを頼む」
拙者がそう言うと、伊能はあからさまに不満の表情を浮かべた。
「冗談! あたいも一発はブン殴らないと気が済まないんよ」
「気持ちは分かるが我慢してくれ。おまえは脅し役だ。緒方が逃げそうになったら、また匕骨で吊り橋を揺らして欲しい。くれぐれも落ちない程度にな」
拙者は息巻く伊能を説き伏せ、まだ揺れる吊り橋を静かに渡り始めた。ピンと張ったロープが不吉な音を立てる。不安定な足元に目を向けると、底板の隙間から朱晴川の激流が見えた。目も眩むほどの高さだった。
緒方は近づく拙者を認めると、ロープに掴まり立ち上がった。吊り橋の中央で再び
「今度こそ追い詰めたぞ、緒方!」
「しつこいのね。粘着質だと嫌われるわよ」
「なら嫌われついでに質問だ。緒方、おまえの目的は何だ? なぜ、あんな回りくどい方法で拙者の妹を奪った? 誰かに命令されたのか?」
「さあ」
やはり答えるつもりはないらしい。
だがそれでも構わなかった。課外授業の内容は緒方の目的を聞き出すことではない。彼女の捕縛だ。それに拙者個人としても、舞衣さえ奪還できれば緒方の応答など二の次だった。
「緒方、観念して捕まってくれ。できれば手荒な真似はしたくない」
吊り橋の上で
つまり緒方には戦う手段がないのだ。
「悪いけれど、私には白旗を揚げる理由がないわ」
「強がりはやめろ。ここではおまえの得意な個室が使えない。そして体術勝負なら拙者に
「ふふ、自信たっぷりなのね。でも、あなたのシナリオ通りに行くかしら?」
「この状況で具現化を!?」
拙者は、最悪の事態を想像して身を固くした。
するとその直後、緒方の右手にドロン! 煙とともに現れたのは、木目調の
確かにあれなら重量オーバーにはならないだろう。しかし、ラバーカップ一本を具現化したところで何ができるというのか。
「見せてあげるわ、
緒方は
拙者は
「便遁奥義、
高らかに叫んだ緒方は、宙空に張りついたラバーカップを勢いよく振り下ろした。
――スッポーン!
軽快な音が、奇妙な
「ま、まままままさかっ!」
頭頂部からピョコンと飛び出たアホ毛。黒髪ストレートの姫カット。長い
「スッポンポンの有様でごぢゃる」
それポンが一つ多いでごぢゃる!
……いや失敬。緒方のラバーカップでスッポンされたのは、紛れもなく拙者のスッポンポンではない妹――桃色の忍者装束を身に着けた
まさか、便座も通さず妹を解放できるとは夢にも思わなかった。どうやって舞衣を「逆流」させるか聞き出すつもりだったが、これで余計な手間が省けた。
こうして妹を差し出した以上、緒方は投降したと
拙者は両手を広げて妹を迎えた。
「おかえり舞衣、
「耳を貸しちゃダメよ舞衣、あのヘンタイ兄貴を直ちに攻撃しなさい」
「
舞衣は頭頂部の仕込みアホ毛を引き抜くと、いきなり拙者に斬りかかってきた。
「へ? ちょっ……嘘ぉ」
拙者の熱烈な歓迎をスルーした妹は、あろうことか緒方の命令に従ったのだ。揺れる足場を物ともせず、流麗な動きで自慢の太刀「萌え
「芦辺、ボケっとしてないで
橋の袂で伊能の叫ぶ声が聞こえた。
拙者は吊り橋のロープを掴むと、鉄棒の逆上がりの要領で身体を回転させた。宙に身を投げ出すことで、辛うじて舞衣の凶刃を逃れる。その反動で吊り橋が激しく左右に跳ねた。底板とロープが
「舞衣、どうして拙者を斬りつけたのだ!」
「御免でごぢゃる。舞衣は今、お兄ちゃんの敵ナリ」
「……んな!?」
拙者は、落雷に打たれたような衝撃を受けた。眼前に立っているのは間違いなく舞衣である。偽者でも幻でもない、妄想を具現化した拙者の妹。なのに敵だと言うのだ。
「どういうことだ?」
「ふふ、かなり混乱しているようね芦辺君」
哀れむような緒方の笑声が、拙者の
「これはおまえの仕業なのか!」
「ええ、厠傀儡の術よ。便器に封じた妄想をラバーカップで解き放ち、自らの手駒として使役する忍法。厠封じの術と対を成す奥義。もしかして芦辺君、私が妹を返したと思ったの?」
「そうだな、悔しいけど思ったさ。それが舞衣を使役する為のスッポンだったとは……」
――厠傀儡の術、何と恐ろしい奥義だろうか! 舞衣を取り戻して優位に立ったつもりが、いつの間にか危機に陥っていたのだ。騙し討ちという意味でも脅威だった。
「芦辺君、あなたが妹を諦めれば私からは仕掛けないわ。帰ってもらえるかしら?」
「馬鹿にするな! 拙者がそれを承服すると思っているのか?」
「無益な戦いは避けたいの。私の任務は舞衣を奪うこと。そして、できる限り芦辺君を傷つけないようにも言われてるわ」
「任務……?」
つまり緒方個人の意思ではなく、何者かの密命で動いているということだ。
気になるのは、拙者を傷つけるなという指示とその
「緒方、おまえに任務を与えたのは誰だ?」
「お喋りはここまでよ、芦辺君。潔く引き上げてもらえると助かるけれど」
緒方は冷たい態度で会話を切り上げると、木目のラバーカップで拙者の後方を差した。帰れという彼女の意思表示だが、そんなものに従う
拙者は現状を打開する為に、妹の一挙一動を細かく観察した。どこかに傀儡の糸を断ち切るヒントがあるはずだ。そう思って見ていると、舞衣は眉尻を下げて申し訳なさそうに言った。
「お兄ちゃん、帰って欲しいナリ。舞衣はお兄ちゃんを斬りたくないでごぢゃる」
「舞衣、おまえ……」
拙者は、妹の言葉を聞いてすぐに悟った。
この術は肉体的な自由を奪うだけで、舞衣を精神的に支配できるわけではないのだ。ならば、必ずどこかに付け入る隙が生じる。自律の心を宿す妄想の妹は、それがアドバンテージであると同時に欠点なのだから。
「緒方よ、拙者に引き返すという選択肢はない。妹は絶対に返してもらうぞ。絶対にだ!」
不退転の決意を
「それは残念ね。じゃあ今回も私が逃げるまで気絶してもらおうかしら」
大して残念そうでもない面持ちで言うと、緒方は舞衣の耳元で何やら指示を出した。
言葉による伝達だ。そこに精神的な
二人の関係を見て妙案が
今度は緒方が驚く番だ。
「何のつもり? あなたは舞衣の具現化で妄想限界に達しているはずよ」
「いや、それは違うぞ緒方。
拙者は
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