第三章 隠れ里

其の壱 渓谷の戦い

 緒方は山頂へ向かっている様子だった。


 道標みちしるべやテントからも分かるように、あらかじめ入念な準備をしておいたのだろう。彼女はまったく迷うことなく木々の間を走り抜けていく。地元の住人すら近寄らない未開の森で、それを上手く利用した緒方の逃走計画だった。


「くっ、このままじゃ逃げられるぞ!」

「大丈夫。さっきふもとの案内図で確認したけど、この先には深い渓谷けいこくがあるんよ。つまり比賀ひがの里に通じる道はナッシングってわけ。これでバカなトイレ女も完全に詰んだっしょ!」


 拙者の後ろを走る伊能いよくが、緒方をけなしながら人の悪い笑みを浮かべる。


 確かに彼女の言う通りだった。この先には朱晴すばる川の流れる渓谷があり、比賀への進入を阻んでいる。翼でもない限り渡ることはできない。学校が包囲網を張らなかったのも、この山が逃走経路に使えないからだ。


 しかし、そうなるとやはりに落ちない。緒方は念入りに山中を調べておきながら、渓谷の存在だけを見落としたのだろうか?


「よっしゃ、追い詰めたんよ!」


 森の中を汗だくで走り通し、遂に拙者たちは山頂付近まで到達した。前方には深い渓谷が口を開けている。この状況で二対一に持ち込めば、確実に緒方を捕縛できるはずだ。


 だが、谷風に揺れる「それ」を見た瞬間、拙者はまんまとられたことに気づいた。


「な、何あれ。詐欺なんよ! どうしてこんな山奥に……」

「そういうことだったか。やはり緒方は抜け目がなかったな」


 渓谷には古い吊り橋が架けられていたのだ。


 全長三〇メートルはあるだろうか。その横幅は狭く、人一人がやっと通れる程度だった。


 恐らく妄想大戦時、比賀者ひがものがこっそり萌賀ほうがへ潜入しようと造ったものだろう。ジップラインでないところを見ると、兵站へいたんの補給に利用されたのかもしれない。


芦辺あしべ、感心してる場合じゃないんよ。早く追いかけなきゃ逃げられるって!」


 先行する緒方は吊り橋を渡る寸前だった。


 このまま渓谷を越えられたら終わりである。きっと彼女は、向こう側から吊り橋を落としてしまうだろう。仮に落とされなかったとしても、対岸は比賀の里である。地の利が逆転するのだ。緒方が吊り橋を渡り終える前に、何としても捕縛の任を完遂しなくてはならなかった。


「駄目だ。はぁ、はぁ……、間に合わないぞっ!」


 緒方は既に吊り橋の中央まで達している。それに対して拙者たちは、ようやく吊り橋のたもとに到着したところだった。このまま彼女を追い続けたら、吊り橋を渡っている最中に落とされるかもしれない。


 情勢は圧倒的に不利だ。しかし小柄な骨遁こっとん使いはただでは諦めなかった。


「あたいに任せて!」


 言うが早いか、伊能はドロンと右手に匕骨あいくちを具現化すると、それを吊り橋の袂に全力で叩きつけた。傍目はためには貧弱な大腿骨だいたいこつだが、子泣き爺の特性を活かした重量級の一撃だ。


 ――ドカッ!


 その衝撃に、ギシギシと悲鳴をあげて激しく揺れる吊り橋。渓谷に響いた大きな音が、幾重にも木霊こだまして森の中へ吸い込まれる。すると、そこにむ鳥たちが一斉に羽撃はばたいて空へと逃げ出した。小さな赤鬼が放つ殺気に、山全体が怯えているような光景だった。


「いや、そんなことより……」


 拙者が揺れる吊り橋の中央に目を向けると、そこには身動きの取れない緒方の姿があった。振り落とされないようにうずくまり、青ざめた顔で必死に吊り橋のロープを掴んでいる。


「やいトイレ女、もしちょっとでも動いたら吊り橋を落とすかんね!」


 その脅し文句は効果覿面てきめんだった。伊能の声を聞いた途端、緒方の顔にありありと焦りの色がにじんだのだ。


 彼女の足元では、吊り橋の腐った板がパラパラとがれ落ちていた。かなりもろくなっていたのだろう。老朽化した底板は、いつ抜け落ちても不思議ではない状態だった。


「よし、緒方の捕縛は拙者に任せてくれ。伊能はこの場でアシストを頼む」


 拙者がそう言うと、伊能はあからさまに不満の表情を浮かべた。


「冗談! あたいも一発はブン殴らないと気が済まないんよ」

「気持ちは分かるが我慢してくれ。おまえは脅し役だ。緒方が逃げそうになったら、また匕骨で吊り橋を揺らして欲しい。くれぐれも落ちない程度にな」


 拙者は息巻く伊能を説き伏せ、まだ揺れる吊り橋を静かに渡り始めた。ピンと張ったロープが不吉な音を立てる。不安定な足元に目を向けると、底板の隙間から朱晴川の激流が見えた。目も眩むほどの高さだった。


 緒方は近づく拙者を認めると、ロープに掴まり立ち上がった。吊り橋の中央で再び対峙たいじする。


「今度こそ追い詰めたぞ、緒方!」

「しつこいのね。粘着質だと嫌われるわよ」

「なら嫌われついでに質問だ。緒方、おまえの目的は何だ? なぜ、あんな回りくどい方法で拙者の妹を奪った? 誰かに命令されたのか?」

「さあ」


 やはり答えるつもりはないらしい。


 だがそれでも構わなかった。課外授業の内容は緒方の目的を聞き出すことではない。彼女の捕縛だ。それに拙者個人としても、舞衣さえ奪還できれば緒方の応答など二の次だった。


「緒方、観念して捕まってくれ。できれば手荒な真似はしたくない」


 吊り橋の上で便遁べんとんの術は使えない。個室は間違いなく重量オーバーだ。もし具現化すれば、脆い吊り橋はあっという間に落ちてしまうだろう。

 つまり緒方には戦う手段がないのだ。


「悪いけれど、私には白旗を揚げる理由がないわ」

「強がりはやめろ。ここではおまえの得意な個室が使えない。そして体術勝負なら拙者にがある。さっさと妄想を捨て投降しろ!」

「ふふ、自信たっぷりなのね。でも、あなたのシナリオ通りに行くかしら?」


 揶揄やゆを絡めた口調で挑発すると、緒方はこれ見よがしに妄想オーラを高め始めた。


「この状況で具現化を!?」


 拙者は、最悪の事態を想像して身を固くした。


 するとその直後、緒方の右手にドロン! 煙とともに現れたのは、木目調のを持つラバーカップだった。トイレの詰まりを解消する、スッポンの俗称で知られるアレである。彼女は省エネ妄想「複式の術」を使い、トイレ内の備品であるラバーカップのみを具現化したのだ。


 確かにあれなら重量オーバーにはならないだろう。しかし、ラバーカップ一本を具現化したところで何ができるというのか。


「見せてあげるわ、比婆古ひばこ流に伝わる四次元妄想の奥義を!」


 緒方は仰々ぎょうぎょうしく言い放つと、右手のラバーカップを大きく振り上げた。その動作に合わせ、柄の先端にある半球状のゴムがピタッと――虚空に吸着する・・・・・・・

 拙者はおのれの目を疑った。


「便遁奥義、かわや傀儡くぐつの術!」


 高らかに叫んだ緒方は、宙空に張りついたラバーカップを勢いよく振り下ろした。


 ――スッポーン!


 軽快な音が、奇妙な山彦やまびことなり渓谷中に響き渡る。そしてラバーカップの先端が空間を引き裂くと、一人の「見慣れた少女」を拙者の眼前に引きずり出した。


「ま、まままままさかっ!」


 頭頂部からピョコンと飛び出たアホ毛。黒髪ストレートの姫カット。長い睫毛まつげに縁取られたつぶらな瞳。そう、その可憐で清純な美少女くノ一は――


「スッポンポンの有様でごぢゃる」

 それポンが一つ多いでごぢゃる!


 ……いや失敬。緒方のラバーカップでスッポンされたのは、紛れもなく拙者のスッポンポンではない妹――桃色の忍者装束を身に着けた舞衣まいだった。


 まさか、便座も通さず妹を解放できるとは夢にも思わなかった。どうやって舞衣を「逆流」させるか聞き出すつもりだったが、これで余計な手間が省けた。


 こうして妹を差し出した以上、緒方は投降したと見做みなして良いだろう。最初に抗う素振りを見せたのは、単なる負け惜しみに過ぎなかったのだ。


 拙者は両手を広げて妹を迎えた。


「おかえり舞衣、うるわしき拙者の妹よ。さあ、兄の胸に遠慮なくダイブしておいで。可能ならばスッポンポンで」

「耳を貸しちゃダメよ舞衣、あのヘンタイ兄貴を直ちに攻撃しなさい」

合点ガッテンでごぢゃる!」


 舞衣は頭頂部の仕込みアホ毛を引き抜くと、いきなり拙者に斬りかかってきた。


「へ? ちょっ……嘘ぉ」


 拙者の熱烈な歓迎をスルーした妹は、あろうことか緒方の命令に従ったのだ。揺れる足場を物ともせず、流麗な動きで自慢の太刀「萌え一文字いちもんじ」を振るう。


「芦辺、ボケっとしてないでけるんよ!」


 橋の袂で伊能の叫ぶ声が聞こえた。


 拙者は吊り橋のロープを掴むと、鉄棒の逆上がりの要領で身体を回転させた。宙に身を投げ出すことで、辛うじて舞衣の凶刃を逃れる。その反動で吊り橋が激しく左右に跳ねた。底板とロープがきしみをあげて波打ち、拙者はヒヤリとしながら元の位置に着地した。


「舞衣、どうして拙者を斬りつけたのだ!」

「御免でごぢゃる。舞衣は今、お兄ちゃんの敵ナリ」

「……んな!?」


 拙者は、落雷に打たれたような衝撃を受けた。眼前に立っているのは間違いなく舞衣である。偽者でも幻でもない、妄想を具現化した拙者の妹。なのに敵だと言うのだ。


「どういうことだ?」

「ふふ、かなり混乱しているようね芦辺君」


 哀れむような緒方の笑声が、拙者の耳朶じだを不快に震わせる。


「これはおまえの仕業なのか!」

「ええ、厠傀儡の術よ。便器に封じた妄想をラバーカップで解き放ち、自らの手駒として使役する忍法。厠封じの術と対を成す奥義。もしかして芦辺君、私が妹を返したと思ったの?」

「そうだな、悔しいけど思ったさ。それが舞衣を使役する為のスッポンだったとは……」


 ――厠傀儡の術、何と恐ろしい奥義だろうか! 舞衣を取り戻して優位に立ったつもりが、いつの間にか危機に陥っていたのだ。騙し討ちという意味でも脅威だった。


「芦辺君、あなたが妹を諦めれば私からは仕掛けないわ。帰ってもらえるかしら?」

「馬鹿にするな! 拙者がそれを承服すると思っているのか?」

「無益な戦いは避けたいの。私の任務は舞衣を奪うこと。そして、できる限り芦辺君を傷つけないようにも言われてるわ」

「任務……?」


 つまり緒方個人の意思ではなく、何者かの密命で動いているということだ。


 気になるのは、拙者を傷つけるなという指示とその出処でどころである。舞衣を奪う一方で、拙者の身体を気遣うという矛盾めいた行為。「相手」の意図がまったく読めない。


「緒方、おまえに任務を与えたのは誰だ?」

「お喋りはここまでよ、芦辺君。潔く引き上げてもらえると助かるけれど」


 緒方は冷たい態度で会話を切り上げると、木目のラバーカップで拙者の後方を差した。帰れという彼女の意思表示だが、そんなものに従ういわれはない。


 拙者は現状を打開する為に、妹の一挙一動を細かく観察した。どこかに傀儡の糸を断ち切るヒントがあるはずだ。そう思って見ていると、舞衣は眉尻を下げて申し訳なさそうに言った。


「お兄ちゃん、帰って欲しいナリ。舞衣はお兄ちゃんを斬りたくないでごぢゃる」

「舞衣、おまえ……」


 拙者は、妹の言葉を聞いてすぐに悟った。


 この術は肉体的な自由を奪うだけで、舞衣を精神的に支配できるわけではないのだ。ならば、必ずどこかに付け入る隙が生じる。自律の心を宿す妄想の妹は、それがアドバンテージであると同時に欠点なのだから。


「緒方よ、拙者に引き返すという選択肢はない。妹は絶対に返してもらうぞ。絶対にだ!」


 不退転の決意をみなぎらせ、拙者は高らかに宣言する。


「それは残念ね。じゃあ今回も私が逃げるまで気絶してもらおうかしら」


 大して残念そうでもない面持ちで言うと、緒方は舞衣の耳元で何やら指示を出した。


 言葉による伝達だ。そこに精神的なつながりはうかがえず、傀儡に対する支配力も弱そうだった。


 二人の関係を見て妙案がひらめいた拙者は、彼我の距離を保ちながら静かに妄想オーラを高めた。

 今度は緒方が驚く番だ。


「何のつもり? あなたは舞衣の具現化で妄想限界に達しているはずよ」

「いや、それは違うぞ緒方。妹遁まいとん使いは、自分の趣向や性癖に合った『奥の手』を妹の身体に忍ばせておくものさ。今からそれをおまえに教えてやろう」


 拙者は勿体もったいった言いまわしで告げると、妹を自慢する兄のドヤ顔で緒方を見据えた。

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